第15話_理科室の雨戸
放課後の理科棟は、昼より一段冷えていた。廊下に残る薬品の匂いは弱く、代わりに水拭きした床の湿りが薄く光っている。窓の外は薄曇りで、校庭の白線がかすれて見えた。
幸星は鍵束を手のひらで返し、理科室の扉の前で一度だけ深く息を吸う。扉の小窓からのぞく室内は暗い。ブラインドは半降り、雨戸は内側からほぼ閉じられているはずだ。
「三分だけ。滞在は区切る」
短く言って鍵を回す。背後で航大が頷き、ストップウォッチのボタンに親指を置いた。
扉を開けると、空気がふっと入れ替わる。黒板の緑は鈍く、薬品棚のガラスが曇っている。シンクの金属光だけが細く伸び、天井の蛍光灯は点けないまま。幸星は入室動線を右壁沿いに取り、航大は扉の内側を半歩閉めて背面の視界を確保した。
間を置かず、音が来た。
コン……コン……。
理科室奥の雨戸――窓の内側に引き下ろされた戸板の、教卓に近い方角から。弱い指が木を叩くみたいに軽いが、一定だ。間隔は揃っている。速すぎず、遅すぎず。
航大はストップウォッチを押し、紙の小片に秒を刻む。「0:00」。針と音の間隔が重なるのを待ち、二度、三度と線を入れる。
「心拍くらい。八十台後半。二の後、わずかに長い」
囁きに、幸星は頷かない。頷きは視界を揺らす。彼は教卓手前で立ち止まり、雨戸の位置から少し斜めに外れた角度で向き直った。正面に立たない。ぶつけない。
音は続く。
コン……コン……。
教卓のビーカーの水面がうすく波打ち、スタンドの金具がかすかに振動する。音自体は大きくないが、室内の空気は叩かれるたびにわずかに縮み、戻る。縮みの戻りが、二の後、ほんの半拍ぶんだけ遅い。
「呼吸、合わせる」
幸星は胸の前で指を二本立て、吸って、吐くの長さを目で示した。声は出さない。四の前はためない。
航大はストップウォッチを見たまま、同じ呼吸を取る。吐くを長めに、肩を上げない。彼は紙片に「幸=吐長/航=吐長」と書き、針の動きとの相関を見るように視線を揺らさず置いた。
コン……コン……。
叩く力が、ほんのわずかに弱くなった。二の後の遅れが縮む。雨戸の板の継ぎ目で、光が針の穴みたいに細く透けていて、その明滅が音と一緒に呼吸へ乗る。
幸星は一度だけ目を閉じ、吸う長さをさらに浅く、吐くをさらに長くした。胸の奥の動きを床へ広げる感覚。足裏の重みを均等に置き、指先は宙へ持ち上げない。
航大は合図を待たず同じ配分へ移る。二人の吐くが重なり、四の前でためない動きが室内に薄い流れを作る。
コン……。
叩きは一度、遅れた。
コン……。
次も弱い。二の後の伸びは、呼吸の伸びに包まれる側へ移った。航大は紙片に「弱化→吐長×2」と短く書き、赤線で囲む。
雨戸の前へ踏み込みたい衝動はある。幸星はそれを行動にしない。前に立って止めるべきときは凌の役目だ。ここでは立ちすぎない。彼は教卓の端を指先で押さえ、台の揺れを拾った。揺れは拍どおり。だが、机の脚の先では揺れが薄い。床が吸っている。
「窓、開けない。位置、ずらす」
幸星は視線で航大の立ち位置を少し右へ送った。雨戸への直線を避け、斜めの角度を保つ。航大はストップウォッチを持ったまま半歩ずれ、扉との三角形が広がるように配置し直す。背面は見える。退避方向は確保できる。
コン……コン……。
叩きは戻りかけ、すぐ弱まる。航大は気づく。「こちらの呼吸が乱れた瞬間だけ、強くなる」。彼は自分の喉の奥に軽い緊張を見つけ、吐くの最初で小さく解いた。ストップウォッチを握る指の力を半分に。紙片の角を指で撫でる。余計な力が抜け、針と音が再び重なった。
「三十呼吸で切る」
幸星は顎だけで合図し、数え始めた。数を頭に立てず、拍に寄りかからず、出入りの長さだけを揃える。息の芯が細く伸び、それがそのまま室内の薄い風になる。
航大は記録に「30呼吸→弱化」と書き、針と音の差が縮むのを線で示す。
十呼吸。雨戸の板がたわむ気配はあるが、叩きは小さく、間隔は保たれている。
二十呼吸。教卓のビーカーの波紋が浅くなり、器具の金具が鳴らない。
二十九。幸星は四の前でためないまま吐くを終え、三十で肩の位置を一段落とした。
コン……。
最後の一打が、遠い。続かない。雨戸の釘穴の光は点のまま、明滅しない。
航大はすぐに針を止めた。
「弱化、確認。間隔、乱れず消失」
彼は紙片をめくり、別の欄に「呼吸で強さが変わる」と大きく書いた。言い換えない。比喩にしない。事実だけ。
幸星は雨戸に近づかない。教卓の横を通って黒板前へ移動し、雨戸の前の空気を直接通らない線で室内を一巡する。窓枠の鍵は下りている。ブラインドの紐は固定され、金属片は触れていない。換気口は閉。音の出る箇所は、数として増えていない。
「二回目、短く。二十呼吸」
幸星が立ち位置を戻し、航大が頷く。二人は同時に吸い、吐く。二の後をためない。
コン……。
叩きは一度だけ戻って、すぐ弱まり、五呼吸で消えた。紙片に「再現→即弱化」と追記され、赤で囲まれる。
廊下の遠くを走る足音が、理科棟へ向かって近づき、踵を鳴らさず通り過ぎる。音は雨戸に重ならない。幸星は扉へ視線を送り、航大に顎で合図した。
「撤退合図、手の甲二回」
航大が扉際で静かに示す。幸星は応じ、背を向けずに後退する。教卓→入口→扉内側の順で角を抜け、死角を作らない。扉の蝶番は鳴らない。鍵はまだ閉めない。
「もう一巡だけ、外から」
幸星は廊下に出て、雨戸と同じ壁面の外側を歩いた。窓ガラスは曇り、内側から雨戸が下りている厚みの分だけ暗い。耳をあてない。視覚だけで、揺れと光を拾う。何も動かない。
理科室へ戻り、扉を半開きで固定したまま、もう一度だけ教卓の位置へ。航大は時計を見ず、紙片の裏に小さく「自分の拍に頼らない」と書く。心拍が速ければ音を強く感じ、遅ければ感じ方が変わる。外のものではなく、自分で室内を揺らしてしまう。だから数でなく、配分で合わせる。
「終わり」
幸星が小さく告げ、鍵を回す前に室内を一度見渡した。ビーカーの水面は平ら、スタンドの金具は静止、黒板の粉は落ちない。雨戸の板は光を吸い、指先の形を作らない。
扉を閉め、鍵が噛み合う音を航大が紙に記した。「閉錠→音なし」。二人は廊下の端で立ち止まり、同じ配分で呼吸を三回。肺の奥の張りが静かに解ける。
「記録、まとめる」
航大は階段脇の手すりに紙片を当て、箇条だけを書き足した。
①叩音=雨戸内側/強度は心拍の配分に相関
②吐長を揃えると弱化。四の前でためない
③位置直線を避け、斜め配置で背面確保
④滞在は三分区切り。二回目は二十呼吸で確認
⑤原因追跡せず。再発時の対応手順共有
幸星はそれを覗き込み、付け足す。
「⑥次回、前に立つ役→凌。背面監視→航大。前は立ちすぎない。立って止まるより、呼吸で薄める」
航大は頷いて線で囲み、ファイルのポケットへ紙片を滑らせた。
階段に向かう途中、廊下の掲示板に小さな紙を一枚貼る。「理科室・呼吸」。白地に黒で「吐く長さ=吸うの二倍/四の前でためない」。誰でも見れば思い出せる、短い図。
外に出ると、雲の向こうから細い光が降りてきた。風は弱い。校庭の砂は舞わない。二人は並んで歩く。
「強さ、変わったの、体で分かった」
航大が言う。言葉は短い。
「うん。だから、戻れる」
幸星も短く返した。
原因は探らない。
雨戸の向こうで何が叩いたかを、名前にしない。必要なのは、叩きの強さを弱める配分を覚え、同じ場所に立ち戻ったときの手順をそろえること。
昇降口のガラスに、自分たちの肩が並んで映った。二人は足音を揃え、校舎の角を曲がるときも、四の前でためないまま歩幅を保った。
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