第14話_白衣の袖口
翌日、
昼休みの終わり、理科室は人影がまばらだった。窓は曇りガラス越しに白い光を落とし、水道の蛇口だけが鈍く光っている。午前の実験で濡れた流し台は拭き上げられ、ステンレスの縁にだけ水の線が残っていた。薬品庫の鍵は閉じられ、代わりに消毒用アルコールの匂いが、まだ低いところに薄く沈んでいる。
亜衣は教卓の脇で、伝票と器具リストを並べた。試験管、試験管立て、スポイト、ゴム栓。順番を指先でなぞり、抜けがないかを確かめる。手袋は粉の出ないタイプに替え、袖口を一度折って長さを揃える。足元の床は乾いている。白い粉――朝の黒板の名残――が扉近くに点々とあり、そこを避ける動線を頭の中で引いた。
扉が開いて、ブレンダンが入ってきた。胸ポケットからは細いリングノートがのぞき、表紙には英語で「Done / Not yet」。入ってすぐ、彼は扉を半分の角度で止め、蝶番が鳴らない位置を手のひらで覚える。亜衣が見ていると、彼は自然に深呼吸を一度、二度。数えずに整える癖が身についてきている。
「先生、実験の準備、手伝います」
言葉はゆっくりで、抑揚は控えめ。亜衣は頷き、試験管立てを指さした。
「二列で二十本。口は同じ向き。栓はまだ付けない」
ブレンダンは復唱せず、すぐ手を動かした。一本、二本。置くときにガラス同士が触れないよう、底を先に置き、指先で揺れを吸収する。置き方は丁寧で、速度は一定。
窓際の白衣掛けには、白衣が三着並んでいた。袖はだらりと下がり、裾は台の角に触れている。亜衣は視線の端でそれを捉え、とりあえず裾だけを折って角から離した。袖の長さは――今はそのまま。必要なら後でピンで仮留めする。
「ブレンダン、瓶のラベル、読める?」
「読みます」
彼は英語の小さな文字と日本語の手書きを交互に目で追い、必要なものだけを台の端にそろえた。希釈用の蒸留水、pH試験紙、洗浄用のブラシ。薬品の瓶には触れない。触れない指示であることを、亜衣が言葉を発する前に理解している。
亜衣は試験管に番号札を一から十まで挟んだ。挟む指の力は弱すぎず強すぎず、札が滑らない程度。ブレンダンはそれを見て、反対側の列に十一から二十までを同じ向きで挟んだ。動作は静かで、音が出ない。
そのときだった。
窓際の白衣の袖口が、ふっと持ち上がった。布が自分で空気を吸い込んだみたいに膨らみ、手首のところで折れ、肩の方へ一寸ほど戻る。誰もそこにいないのに、袖だけが、何かの動きをまねしている。
亜衣はすぐに歩みを止めた。振り返る角度は最小限。動かすのは視線だけ。袖の膨らみは弱く、次の瞬間にはまた垂れた。風は入っていない。扉は半開きの角度を保っている。
「見間違い……?」
声に出さず、喉の奥で言葉の形だけを作る。ブレンダンは試験管立てに手を置いたまま、視線を窓際へ走らせた。彼の目の色は変わらない。驚いたとき、彼はまず呼吸を数える――十回。今はそこで止まらず、二回だけ、深く。
「どうする?」
彼が小声で訊いた。発音は柔らかく、促されている感じはない。亜衣は頷かず、まず台の端の空きスペースを確認した。落ちやすいもの――スポイト、ゴム栓――はすでに中央寄り。試験管立ての足は台から一センチ浮いていない。滑らない。
袖が、もう一度、動いた。
今度は、台の端に近い、空の試験管のほうへ曲がった。布は手首のところで小さく折れ、指があれば掴むであろう位置へ沿う。次の瞬間、袖口が軽く跳ね、空の試験管の立てをそっと押し戻した。試験管の列が、ほんの数ミリ、台の安全な中心へ寄る。ガラス同士は触れない。音は鳴らない。
亜衣は、その動きを妨げなかった。
動かないことを選ぶ。彼女は足を肩幅に開き、腰の位置を変えず、目だけで台の端と袖を往復した。袖口はそこで止まり、布は元の垂れた形へ戻る。
「……庇った」
言葉は喉の奥でごく短く。ブレンダンは理解の合図に顎を一度だけ引いた。彼はリングノートを胸ポケットから抜き出し、「Not yet」のページに小さく書く。『袖=protect? 試験管=中央へ』。書いてから、英語の横に日本語で『庇う』と追記した。
「動線、変える」
亜衣は台の四隅を目で測り、二人の立ち位置を入れ替えた。台の端に近い作業は自分が持つ。ブレンダンは中央側。彼が不用意に袖へ近づかない向きにする。手順が曖昧な部分は、いったん止める。止めて、確認してから動かす。
ブレンダンは頷き、位置を移った。動くとき、彼は足を引きずらない。踵を床に落とさず、息を吐きながら半歩ずつ。動きが止まるごとに、彼は短く「OK」と自分に言う――声は出さないが、唇で形を作る。
袖は、それきり動かない。窓の外の光は薄いまま、理科室の空気は乾いている。亜衣はスポイトのゴムを指で押し、復元の速度を確かめた。遅い一本は予備へ回す。ブレンダンは試験紙の束を二つに分け、切り込みをずらして取り出しやすくする。
準備が半分ほど進んだころ、扉の向こうを複数の足音が通り過ぎた。廊下の音は拍を持っていて、二拍目がわずかに長い。亜衣は扉の半開きを確認し、角度が崩れていないことを目で拾った。
「亜衣」
ブレンダンが呼んだ。彼は試験管の列の手前で手を止め、英語と日本語の間で言葉を探し、ゆっくり選ぶ。
「さっき、ありがとうを、言いたい。……止まってくれて。僕、たぶん、動いたら、落とした」
言葉はぎこちないが、まっすぐだ。彼はノートの『Done』に小さく丸を付け、『言えたこと』とページの端に書き加える。
亜衣は首を横に振る。
「……ありがとうは、私も。見てくれて。書いてくれて」
彼女は短く息を吸い、吐いて、続ける。
「ブレンダンは、感情が動くとき、十回、呼吸するんだよね。さっきは……二回で戻ってた。たぶん、十分」
ブレンダンは少し笑って、肩を落とした。緊張が解ける角度だ。
「十回、長い。二回、いまは、ちょうど」
白衣の袖は静かだ。だが、台の端に置いた試験管立ての足元だけ、わずかに粉が集まっている。朝の黒板の粉が靴で運ばれたものだろう。亜衣は布でなで、粉の列を切った。
「手順、もう一度」
亜衣は短く合図を出し、準備の最後を確認した。
「試験管は二列、二十本。口の向きは黒板側。栓は先生が来てから。スポイトは中央のトレイ。試験紙は二束、切り込みずらし。扉は半開き、角度は変えない」
ブレンダンは指で順番をなぞり、ノートの『Done』のところに小さなチェックを増やした。
チャイムが鳴る前に、理科の先生が入ってきた。白衣を手に取り、袖を通そうとして――裾のほうに目を止めた。
「裾、折ってくれたのね。ありがと……」
先生の礼は途中で切れた。袖口がほんの少し、彼の手首を避けるように折れ、すぐに布の自重で戻ったからだ。先生は肩をすくめ、何も言わずに袖を整えた。
授業が始まる。班ごとに器具が配られ、生徒の声が増える。指示は淡々と進み、台の上のガラスは一度も鳴らなかった。ブレンダンは中央側で手を止める役を続け、肩の高さで呼吸を揃えながら、必要なときだけ言葉を選んだ。
「ここ、僕、持つ。――ありがとう」
言い慣れない「ありがとう」が、すこしずつ滑らかになる。
終わりの合図で片づけに入るころ、窓際の白衣は元の静かな影に戻っていた。袖は垂れ、裾は角から離れたまま。亜衣は白衣の袖口を一度だけ見て、ピンで仮留めにするかどうかを考え、やめた。動かないものを、わざわざ固定しない。動いたときだけ、見て、止まって、必要なら庇う。
教室を出る前、ブレンダンが扉のところで小さな声を出した。
「今日、できたこと――『言う』。できなかったこと――『全部を見ようとする』。……だから、次、見る場所を、決める」
彼はノートにそう書き、ページを閉じる。
廊下は少しざわついていたが、扉の半開きは角度を保っている。亜衣は粉の列が再びできていないかを足元で確かめ、速度を変えずに歩き出した。ブレンダンはその半歩後ろ、呼吸一つぶんの距離でついてくる。
原因は追わない。
白衣の袖がなぜ曲がったのか、どうして試験管を庇ったのかを言葉にしない。必要なのは、動かす前に止まること、手順を決めてから動くこと、揺れた感情を言葉にして整えること。
扉が静かに閉まり、蝶番は鳴らなかった。理科棟の廊下は、昼休みの終わりの温度へ戻っていく。
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