第10話_拍の置き場所
放課後の光はもう白くなく、音楽室の床を薄い灰色で満たしていた。窓は対角に二枚だけ開いて、風はほとんど入らない。壁際の棚に空き箱が三つ、机の上にはメトロノームが二台と、午後の授業で使ったリズムカードの束。今日の片づけは、ただしまうだけでは終わらない。ここ数日、校舎のあちこちで拍が勝手に歩き出した。その歩幅を、ここでいったん「置く」。
幸星は指揮台の前に立ち、全員を視線で呼んだ。
「声は出さない。順番でやる。最初、箱を決める」
短い言葉に、凛音が頷いてメンバーの表情を一周確認する。肩の高さ、喉の固さ、目の焦点。航大は記録帳を開き、見出しに「拍収納/放課後/音楽室」と書く。亜衣は黒板の下に残るチョーク粉の帯をそっと指先で払って、粉が舞わない角度を確かめた。凌は指揮台と出入口の間、前に立つ位置を自分で取り、彩菜は退路の矢印を掲示板に貼り直す。
「箱はこれ」
凛音が選んだのは、深すぎず浅すぎない木の箱。底に薄い布が敷いてある。箱の内側を手のひらで撫でて、角にささくれがないかを確かめる。亜衣がその手つきを見て、布の端を指で折り、段差を作らないよう整えた。
「中身の順番、決める」
航大が記録帳に新しい欄を引く。上から、メトロノーム(旧式→デジタル)、指揮棒、リズムカード、予備の電池。理由は書かない。順番があることで、手が迷わないようにするだけだ。
最初に旧式のメトロノームを持ち上げる。梨色の木肌は乾き、重りはいま動かない。凌が前に立ち、箱の前で胸の高さに手を上げる。吸って、吐く。四拍目の手前をためない。凛音はその呼吸に合わせて、重りを「止」の位置へ静かに押し上げ、決して振子の軸を弾かないようにした。
箱の布の上に、旧式のメトロノームが置かれる。こつ、と音がしたが、響きは広がらない。布が面を切っている。航大は「旧式→布→静」と三語だけ書く。亜衣は置いた瞬間の箱の脚の揺れを指先で拾い、揺れが二拍以内で消えるのを待った。
次にデジタル。液晶は消灯している。凛音は電源ボタンに触れず、側面から持つ。亜衣が横で、機器の下に薄いフェルトを一枚足した。布の上にフェルト、その上に機器。層を増やすほど、面は切れる。航大は「デジ→フェルト→静」と追記する。
「棒」
凌が短く言った。指揮棒は白木。台の上ではなく、箱に。布の左上、メトロノームの横。凌は棒を持ち上げる前に、胸の前で呼吸をひとつ整え、棒を立てず、寝かせて置いた。棒先は箱に触れすぎない。布の折り返しがわずかに棒を抱える。
リズムカードの束は、角をそろえて輪ゴム一本。凛音が束の端を指で軽く押さえ、カードが勝手に広がらないよう、紙の重さを紙で止める。カードは箱の右下。乱れないよう、角が箱の角に平行になる向き。
電池は最後。予備は袋のまま入れない。一本ずつ、金属が金属に触れない間隔で布の上に置く。亜衣は距離の感覚を目で測り、四本を方の形に並べた。四の前でためない――この数日の合言葉が、自然と手の動きに移っている。
「合図で、蓋」
幸星が掌を返し、四つの拍を静かに切る。凛音が箱の蓋に手を添える。彩菜は扉の向こうの廊下を一瞥し、出入りが重ならないのを確認。凌は前で立ち続け、航大は時刻を記録する。
蓋を、半分だけ閉める。
箱の中の空気が、軽く撫でられたみたいに動いた。誰も声を出していないのに、部屋の隅で目に見えない粉の粒が、拍に合わせて一瞬だけ浮いた気がした。亜衣はその動きに反応しかけて、手を止める。焦らない。呼吸。
「もう半分」
幸星の視線が、合図の代わりに落ちる。凛音は息を合わせ、四の前をためないまま、蓋を静かに下ろす。蝶番が音を立てず、木と木が触れ合う寸前、箱の内側の空気がやわらかく寄り、――単音がひとつ、鳴った。
とても小さく、硬くない音。金属でも木でもない、息の芯だけが持つ高さ。すぐに消えて、それきり戻らない。箱の蓋は閉まった。空気は静かだ。
誰も説明しなかった。航大は記録の欄に「蓋閉→単音一回」とだけ書き、線で囲った。凛音は蓋に両手をのせて、三呼吸分だけそのままにする。亜衣は箱の脚に触れ、揺れがもうないことを確かめた。凌は前で立ち、胸の前の圧が動かないのを確認する。彩菜は掲示板に新しい小さな紙片を貼った。白地に黒で「拍の置き場所」。矢印は、棚のこの段だけを示す。
「しまう順、繰り返し」
幸星が言う。全員で箱の周りに肩を寄せすぎない距離で立ち、手順をもう一度なぞる。戻すときも、出すときも、順番は同じ。誰がどこに立つかも同じ。前は凌、背面は航大。合図は手の甲を二度。四の前でためない。単独行動なし。合流してから数える。
凛音は明日のメニューの紙に、最初の五分間を「無声:呼吸合わせ→箱確認」と手書きで加えた。声の練習に入る前、拍の置き場所を目と手で確認する時間を持つ。理由は書かない。体で覚える。
彩菜は扉の開閉の順番を黒板の端に小さく描いた。開ける順は最後、閉める順は最初。窓は対角、幅は五センチ。撤退合図は手の甲二回、通路は右端、踵は鳴らさない。誰が見ても迷わない図が、黒板の緑に貼られた。
「鍵、閉める」
幸星が鍵束を上げる。だが、その前にもう一度だけ、箱の蓋を手のひらで撫でる。木は冷たく、角は丸い。凛音が棚の前に立ち、蓋の上に小さな布を一枚かけた。直接の視線を遮る、薄い幕。亜衣が布の端を折って、ほつれが出ないよう仕上げる。
扉へ向かう前、全員で一度だけ並ぶ。前に凌、中央に凛音と幸星、背面に航大、左右に亜衣と彩菜。誰も話さない。呼吸を四つ。四の前はためない。廊下の足音と合わせず、自分たちの拍で。
鍵が回る。金具の噛み合う音は乾いて、小さい。扉は拍に従わず、ただ閉じた。廊下の空気はいつもの放課後で、潮のようにゆっくり流れている。
階段までの道のり、凛音は個人練の子たちに目で帰路を示し、肩の高さを遠くから整える。彩菜は踊り場の柱に貼った「合流」の紙を新しいテープで押さえ直す。航大は記録帳に最後の行を書き足した。「拍の置き場所→設定/箱:中段/表示あり」。亜衣は手すりの指紋の並びを見て、今日は「ばらけていない」と判断した。凌は何かに追われる足音がしないことを、後ろを見ずに確かめる。
昇降口のガラスに夕景が映る。昨日より赤くない。靴を履き替える音が重ならず、列は自然に解けていく。校門に向かう道で、幸星が短く言った。
「今日から、夜に背を向けない。置く場所が分かったから」
凛音は返事をせず、歩幅を半歩分だけ広げた。航大は頷いて、記録帳を閉じる。凌は前を向き、彩菜は左右の気配を見て、退避合図を思い出すように手の甲を軽く打った。亜衣は箱の布の感触を指先に残したまま、空を一度だけ見上げる。
原因は探らない。
あの単音がどこから来たのかを言葉にせず、ただ、しまい方だけを丁寧に覚える。拍の置き場所が決まったことで、夜の校舎に背を向けずに済む。戻る合図と、歩幅と、呼吸。その三つが揃っていれば、静けさは自分たちで作れる。
校門を出る風は弱く、砂ぼこりは立たなかった。六人の足音は一列に揃い、暮れていく空の下で軽くなっていった。
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