第9話_朝焼けの合唱

 まだ校舎の窓が夜を映している時間、幸星は校門前に立っていた。吐く息が白く、足元のアスファルトは夜露で黒く濡れている。東の空だけが細く明るみ、雲の輪郭をゆっくりと削っていく。

  今日は合唱メンバー全員を集めての朝練――ただし、屋外だ。音楽室ではなく、開けた空気の中で声を合わせる。昨夜の換気扇の一件もあり、室内の響きを避けるという彩菜の判断だった。

  凛音は到着した一年生の肩を一人ずつ軽く叩き、呼吸の深さを確かめる。亜衣は人数を数えながら、列の間隔を調整していく。凌は背後に位置を取り、最後尾が途切れないかを見守る。航大は腕時計のストップウォッチを用意し、開始から終了までの時間を計るつもりで立っていた。

  幸星は全員の視線が自分に集まったのを確認し、右手を軽く上げる。

  「一曲だけ。声を重ねて、終わったらすぐ解散」

  短い言葉だが、誰もが理解できる指示だ。彩菜はすぐに退路を頭に描き、左右どちらに動いても列が崩れないよう足場を確認する。

  東の空が橙色に染まり始めた瞬間、凛音が四拍を切った。最初の和音が静かに立ち上がり、空気の中に吸い込まれる。アルトが柔らかく支え、ソプラノが光を添える。テノールとベースが下から押し上げ、声の柱が真っ直ぐに伸びていく。

  声は壁に跳ね返らない。かわりに、空の方へ薄くほどけながら広がっていく。校舎の窓が淡く光を反射し、その光が歌の高さに合わせて色を変えるように見えた。

  サビに入る頃、太陽が地平から顔を出し、全員の頬を照らす。声が一段と明るくなり、最後の和音が厚みを増していく。凛音は四拍目の前をほんの少し長く取り、全員がその長さを体で受け止めた。

  和音が終わる。

  次の瞬間、校内のあらゆる音が一斉に無音になった。通用門の軋みも、木々の葉擦れも、遠くの足音も消えて、ただ朝の光だけが残る。

  幸星はその静けさを一拍分だけ保ち、

  「今日は休む」

  と短く告げた。練習ではなく、回復を優先する。それはこの場にいた全員がすぐに理解した。

  亜衣は譜面を抱えたまま、目を細めて空を見上げる。凌は列の後ろで腕を下ろし、呼吸が落ち着いたのを確かめる。航大はストップウォッチを止め、時間とともに「終了時=全校舎無音」と記録した。彩菜は左右の列を一つにまとめ、解散方向を指で示す。

  解散の合図で、生徒たちはゆっくりと靴音を響かせながら校舎へ向かっていった。朝日が背中を押し、影が長く伸びる。

  幸星は最後に校門の外を一度見やり、列の最後尾に歩幅を合わせた。背後で校舎が光を受けているのを感じながらも、振り返らない。

  原因は探らない。

  あの無音が何を意味するのかも問わない。必要なのは、声を出すときと休むとき、その切り替えを全員で守れること。

  朝の空はすっかり明るく、雲は白く溶けていた。

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