第8話_黙唱

 翌日、

 朝の教室は、まだ暖房も入らず、吐く息がほんのり白い。カーテン越しの光が机の上で広がり、黒板の緑が少し湿って見える時間。始業前のHRを待つ生徒たちは、それぞれ席で準備をしている。

  凛音は教卓の前に立ち、列ごとの顔をゆっくり見渡した。呼吸が浅い子、肩の位置が高い子を心の中で拾いながら、言葉を出さずに指の形で「待って」を示す。幸星は最後尾付近で廊下側の窓を一枚だけ開け、外気がすぐに逃げる程度にだけ通路を作った。航大は出欠表の欄に「黙唱」の二文字を書き込み、時計を机の端に置く。

  「声は出さず、口だけ動かす」

  凛音の口形はそう告げる。声にしない代わりに、目の動きで全員の準備を確認していく。凌は教室の前方に立ち、窓と廊下、両方を見通せる位置を取った。彩菜は一番後ろ、扉の横に寄り、退避と移動の動線が塞がれていないかを確かめる。亜衣は花瓶の位置を微調整し、水面が光を受けやすい角度に変えた。

  凛音が右手を胸の高さで構え、四拍を切る。全員の口が動き出す。息は音にならず、唇の形だけで母音と子音が進む。机の間を流れる空気が、ほんのわずかに温まっていく。

  そのときだった。教室の奥――黒板の前の花瓶の水面に、小さな波紋が走った。最初は偶然かと思うほどの浅い揺れだったが、次の瞬間には規則的に広がっていく。波の間隔は、皆が口の形で刻んでいる拍とぴったり一致していた。

  凛音は口の動きを止めず、視線だけで亜衣に合図を送る。亜衣は花瓶に近づき、波紋の中心が水面のどこから始まっているのかを目で追った。底からではない。表面の、ごく浅い位置で空気が触れたようにして始まり、輪が外へ広がっていく。

  幸星は窓の開きを変えず、教室内の空気の流れが偏らないかを観察する。外からの風は入っていない。それなのに、波紋は拍を外さない。

  航大は時計の針と波紋の間隔を照らし合わせ、「九十六」と小さく呟き、出欠表の余白に数字を書き込んだ。昨日の無人指揮台と同じ拍だ。四の前が、わずかに長い。

  凛音はその長さを感じ取り、合図を変えた。四拍目に入る手前で、手のひらを外へ押す動作をほんの少し短くする。波紋はそれに合わせて小さくなり、揺れの縁が早く消える。

  「もう一度」

  声にはせず、口形だけで指示する。二度目の黙唱。全員の唇が同じタイミングで動き、花瓶の水面はまた拍を刻む。けれど、さっきよりも輪は薄く、三拍目の後で消えることが増えた。

  凌が前に立ったまま、花瓶と教室全体を交互に見渡す。視線の届く範囲に余計な動きはない。彩菜は後方で退避のための通路を確保し続け、扉の開閉のタイミングを記憶に刻む。

  凛音は三度目の黙唱を合図した。今度は四拍目の前をさらに短くする。波紋は二拍目で弱まり、四拍目にはほとんど消えている。亜衣が花瓶の口に手のひらをかざし、空気の触れ方を確かめたが、触れない。波紋はただ、水面の中から自分で生まれたように揺れ、そして止まった。

  凛音は終了の合図を出す。全員の口の動きが止まり、教室の空気が静かに沈む。花瓶の水面は平らになり、光だけを映していた。

  「記録、黙唱→波紋/4前短縮で弱化」

  航大が書き入れ、赤線で囲む。幸星は窓を閉め、室内の温度を均一に戻した。彩菜は退避合図を二度確認し、扉を静かに閉める。凌は前方に立ったまま、全員の肩の高さがそろっているかを確かめた。

  原因は追わない。

  水面が拍を返した理由を、誰も口にしない。必要なのは、拍の長さを整え、呼吸を合わせて揺れを弱められるようにすること。

  始業のチャイムが鳴る。凛音は教卓の端に置いたメモを一枚めくり、今日の授業の導入に使う呼吸合わせの位置を書き込んだ。波紋はもう消えている。窓の外の光が強まり、教室の緑と白が鮮やかさを増していく。

  全員が着席し、教科書を開いた。口はもう動かない。けれど、先ほど合わせた拍は胸の奥に残っていて、呼吸が自然に揃っていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る