第7話_分かれ道の和音

 下校時刻のチャイムが鳴る少し前、音楽室の照明は半分に落ち、窓の外は白から灰に変わりつつあった。廊下には帰り支度の足音が列になって流れ、階段の踊り場だけが音を溜めるように少し重い。凛音は個人練の片づけを終えた一年生の表情を一人ずつ見て、喉の固さや肩の高さを確認しながら扉の前に立った。彩菜はその隣で、退路の矢印を二枚だけ新しく貼り、戻る列と行く列がぶつからない角度に調整した。

  今日は職員室から回覧が遅れ、教室へ急ぎたい子が多い。音楽室のある三階の廊下は、普段より人の流れが早く、階段までの距離に小さな焦りの影が差していた。凛音は扉を開けたまま、最初の小さな列を送り出す。先頭の子の肩が上がっていないのを目で確かめ、最後尾の足元を見てから、一歩後ろへ下がる。

  「私は先に階段の様子を見てくる。凛音は後ろを送って」

  彩菜が目だけで言葉を作り、短く顎を引く。凛音はその表情の固さ――急いでいるが、焦りではない――を読み取り、頷いた。二人の足音は自然に揃って、廊下の真ん中を避けるように右端を進む。

  三階の階段は、踊り場で左右に分かれる造りだ。右に曲がれば昇降口に近い一本の階段、左に曲がると理科棟へ続く渡り廊下への階段。下校の時間帯は、ここで列が二つに別れやすい。

  踊り場に差しかかった瞬間、上の階――四階の空気のほうから、薄い和音がひとつ、ふっと降りてきた。誰かが廊下の端でハミングした、というより、空間そのものが指を鳴らしたみたいな短い響き。すぐ消えたが、床板の柔らかい反発が、そこに音があったと教えてくる。

  「先に右を見てくる。凛音は左」

  彩菜の声は小さく、言葉は短い。彼女は踊り場の中央で一瞬だけ立ち止まり、右手の手すりの高さと足幅の取りやすさを見て、右に折れた。凛音は左へ半歩出ようとして――足を止めた。

  和音が増えた。

  数える間もなく、二つ、三つ。重ね方は厚くはないのに、廊下の角で音が返り、階段の蹴上げの空洞が低い成分を拾って、上の階に向かってふくらむ。息を吸う人はいない。なのに、息を吸ったときにできる胸の空気の膨らみだけが、その場にいくつも置かれていくような感覚。

  凛音は彩菜の背中を見た。彼女が右の階段を数段下りたところで、和音はさらに一つ増え、四階の方角へすっと伸びた。分かれた瞬間に音が増える。凛音は自分の足を踊り場に戻し、彩菜と同じ側に寄った。

  和音が減った。

  さっき増えた分が、すっと薄紙を剥がすみたいに小さくなる。階段の壁が返す反響も軽くなり、下から上がってくる足音が普通の硬さに戻った。

  「……今の、聞いた?」

  凛音が声を落とすと、彩菜は振り返らずに、手の甲を一度だけ上げて「止まる」の合図を出した。凛音も足を止め、踊り場の中央で半歩分だけ彼女に近づく。

  和音は二つに減り、遠くでかすかに揺れている。分かれると増える。合流すると減る。――試す必要はある。けれど、試すときは歩幅を崩さない。凛音は呼吸を整え、目だけで「もう一度」と伝えた。

  彩菜は頷かず、沈黙のまま、右手で階段の手すりを軽く叩いた。拍は一定、一秒弱。彼女は右へ二段、凛音は左へ二段。二人の距離が開いた瞬間、上の階から応えるように和音がまた一つ増え、今度は四つが重なって、四拍目の直前だけわずかに長く伸びた。踊り場の壁の角が、その長さをためる場所になっているのが目に見えるようだ。

  凛音はそれ以上下りず、彩菜と目を合わせる。二人が同時に半歩戻る。踊り場の中央で距離が縮むと、和音はゆっくり減り、三つ、二つ、と剥がれていって、最後に残った一つが天井の明るいところへ漂って消えた。

  下から上がってきた一年生の列が踊り場で止まりかけたのを、彩菜が簡潔な手の合図で捌く。右端通行。列は崩さない。追い越さない。彼女は一年生の先頭の靴先を指で示し、踵を鳴らさない歩き方にほんの少しだけ角度をつける。

  「分かれない。ここで、分かれない」

  彩菜は声を押さえ、掲示板から白い紙片を一枚剥がして、マジックで太い線を一本引いた。紙の真ん中に矢印を二本。右と左ではなく、中央へ向かう二本が合流する図。紙片を踊り場の柱に素早く貼る。

  凛音は列の最後尾に手を伸ばし、肩に軽く触れた。肩は緊張で上がっている。彼女は呼吸のタイミングを合わせるように、自分の胸で吸って、吐くを示す。言葉は不要。肩の高さが一段落ちたのを確かめ、手を離す。

  「単独行動、禁止」

  彩菜は短く言い切り、手の甲を二度打つ退避合図を示した。凛音はその言葉を、前にいる二年生の表情へそっと置く。うなずきが伝染する。

  列を一つにまとめ、右の階段へ流す。理科棟へ向かう生徒も、いったん一階まで下りてから回る。遠回りでも、ここで別れない。踊り場に溜まる音は小さく、和音は増えない。

  しばらくして、職員室のほうから連絡が入った。吹奏楽部の楽器搬入が遅れるという。渡り廊下が混む前に、こちらの列を抜いてしまいたい。彩菜は時計を見て、列の速度を一定に保つため、手の合図を少し大きくした。早足に見える速度でも、踵を打たず、音を立てない。

  踊り場のすぐ下で、凛音は耳を澄ます。上から来る足音、下へ向かう足音、横の渡り廊下へ抜ける足音。三方向の流れが、今のところ交差しない。だが、列が薄く伸び始めると、また和音が生まれやすくなる。彼女は列の間隔を目で詰め、前の子の肩幅に合わせて次の子の歩幅を指先で示した。

  「ここ、合流してから数える」

  彩菜は柱の紙片の下に、鉛筆で小さく「いち、に、さん、し」を書き足し、四の前でためない印を小さな丸で示した。踊り場で数え始めるのでは遅い。合流してから数える。四の前をためると、和音が増える。さっきの伸びが、それを教えた。

  ちょうどそのとき、遅れてきた三年生の男子が一人、譜面を抱えて左の階段へ向かおうとした。単独行動になりかける。凛音は振り返り、彼の目線が床に落ちているのを見て、言葉より先に動いた。彼女は男子の前に半歩入り、肩の高さを指で示して、目を合わせる。

  「いったんこっち。合流してから回ろう」

  彼は躊躇したが、凛音の目の奥が揺れていないのを見て、頷いた。

  二人が踊り場の中央へ戻った瞬間、上の階の和音は生まれなかった。凛音は短く息を吐く。彩菜は男子の後ろに入って、列の切れ目をふさぐ。

  列が階段を下りきるまで、踊り場の柱の紙は静かにそこに在り続けた。上から差す光で、矢印の黒が少し白く見える。途中、四階のほうから誰かの笑い声が一度だけ跳ねたが、和音にはならなかった。

  一階に出ると、空気の重さが変わる。昇降口のガラス戸越しの外の匂い――砂と夕方の湿り気――が、胸の奥で楽にほどけた。凛音は振り返らず、列の最後尾に合わせて歩幅を決める。彩菜は昇降口脇の掲示板に、さっきの「単独行動禁止」の紙と同じ図をもう一枚貼った。ここでも合流、ここでも数える。

  靴箱の前で列が解けると、最初に下りてきた一年生が凛音のそばに来て、息を潜めるように言った。

  「さっき、上で、歌が増えたような……」

  凛音は説明しなかった。ただ、その子の手に持たれた譜面の端を指で押さえ、ひと呼吸分だけ待つ。胸の上下が落ち着いてから、指を離す。

  「帰ろう。今日は、列で」

  言葉は短い。子は頷き、友だちと並んで靴を履いた。

  昇降口の外はたそがれで、運動場に立つポールの影が長く伸びていた。彩菜は扉の内側に戻り、階段へ続く廊下の奥を一度だけ見た。踊り場の柱の紙はまだそこにあり、矢印の先は合流の一点で止まっている。

  「明日も、同じ」

  彩菜が言う。凛音は頷き、紙をもう一枚、予備としてファイルに挟んだ。理由は書かない。知っているのは、分かれないこと、合流してから数えること、四の前でためないこと。

  最後に、まだ残っていた二人で踊り場を見に戻った。足音は立てない。柱の前に並び、同時に半歩、左右に分かれてみる。――何も起こらない。二人はすぐに戻り、手の甲を二度打って退く。合図どおりに。

  原因は探らない。

  分かれ道で和音が増える理由を、言葉にしない。必要なのは、そこで分かれないという一つの決めごとと、それを誰もが迷わず守れるようにする形だ。

  昇降口を出ると、風が弱く頬に当たった。凛音は肩を落とし、彩菜は歩幅を変えずに前を向く。二人の足音はひとつに揃い、校門へ向かう細い道に、和音は生まれなかった。

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