ハナ

@johnny3

ハナ

 天気は晴れ、ドライブには最高の日だ。

僕は車のドアを開けて助手席に【ハナ】を乗せる。


「じゃあ行こうか、ハナ」


「うん。でも…わざわざ遠いとこじゃなくて良いんだよ?」


彼女は気を遣ってそう言うが、僕にはあえてそうしたい理由があった。


「良いんだ、あそこは通っておきたい場所だから」


 エンジンをかけ、ギアをD《ドライブ》に入れてアクセルを踏む。

今日は珍しく早い時間に家を出たものだから、他に車なんて走っていない。


 低速で走り、毎日ハナと歩いた道を眺める。


「この道は変わらないな」


「そうだね、私があなたと出会った日から全然変わってない」


「あれからどのくらい経つんだっけ?」


「18年だよ、あなたががまだ小学生のときだったもん」


「そっか……」


 時の流れというのは早い。過ごしている間はあんなにも長く感じたのに、いざ振り返ってみればずいぶん短かく思えてしまう。


「もう、そんなになるのか…」


「大きくなったよね。あなたってばこーんなに小さかったのにすごく身長も伸びて、今じゃすっかりいい男」


 彼女は親指と人差し指で小ささを表している。


「それじゃ一寸法師だろ…」


「あはは、でも私からすればそのくらい変わったってこと」


「いいや…僕もこの道と同じで何も変わってない。身長が伸びただけで中身は子供のままだ」


 ハナは僕の肩に頭を乗せた。


「そんなことないよ、あなたを一番近くで見てきた私が言うんだから。間違いない」


車を走らせていると、草だらけの神社の階段が見えてくる。


「私たち、あそこで出会ったんだよね」


「うん。あの頃はよく境内けいだいまで登って遊んでた」


 神社の周辺は樹木に囲まれていて、夏場は日陰になってとても涼しかった。

小学校の夏休みにはよくここへ来て、石畳いしだたみの上に寝転んだものだ。


そして7月が8月へと変わろうとしていたあの日。自由研究の虫取りに来た僕は、石畳の上に寝そべるハナと出会った。


「君、どこの子?どこから来たの?」


「……」


 あの時のことは今でもよく覚えている。

彼女はやせ細った体に白い毛色、そして青いひとみでこちらをじっと見つめていた。


そんな姿に僕も目を離すことができなくて、

ズリズリと足を上げないようゆっくりと近づいた。


 ハナは怖がり警戒しているようだったが、衰弱すいじゃくしきっているせいで動くことができない。


僕は手を差し出してこう言った。


「ねえ、お腹すいてるの?行くとこないなら家に来る?」


「?」


伸ばした手はやがて彼女に届き、僕はそっと頭をでた。


 それからハナとの生活がはじまった。

最初はやっぱり警戒していたけれど、一緒に遊んでくいうち段々と打ち解けていった。


一緒にご飯を食べて、一緒に寝て。

一緒に散歩をして、時々遠くまで一緒に出かけた。

あの日から、どんな時も僕らは一緒だった。


そんなことを思い返していた時。


「信号青だよ?」


「あっ」


 ハナの言葉で思い出したようにアクセルを踏む。


「大丈夫?昨日もあまり寝られなかったでしょ、ちょと休む?」


「いや、考え事してただけ」


 車はトンネルへ入り、黄色い光が次々と後ろへ流れていく。

そして「ゴー」という走行音がオーディオの音を聞こえづらくした。


僕はそれを利用するようにボソリと、小さく後ろ向きな言葉を呟く。


「……後悔こうかいしてない?」


 聞こえなければそれいい、そんなつもりで吐いた言葉だ。

なのに彼女ときたら「なにを?」と当たり前のように返してくる。


「……やっぱりお前は耳がいいな」


「?」


 聞こえなければなんて思いながらも、結局は聞いてほしかったんだと思う。

彼女のことだから聞き取ってくれるだろうなんて期待までして。


「ねえ、それでなにを後悔してないか聞いたの?」


上目で尋ねる彼女に、僕は少し迷いながら答えた。


「あの日……あの日出会ったのが僕だったこと」


その言葉に、ハナはプフッと吹き出すように笑いをこぼす。


「してるわけないじゃん」


「本当に?」


「本当だよ。と言うかなんでそんなこと聞くの?」


「いや…うちって普通の家だったし。それに…僕もいろいろサボったりするときあっただろ?」


その言葉で彼女はさらに大きく笑う。


「あはは、そんなこと気にしてたんだ」


「そんなことって……。世の中もっと裕福ゆうふくで、ちゃんとお前を幸せにしてくれる家があったんじゃないかと、そう思って…」


「なにそれ?私十分幸せなんですけど!」


「え?…そう…なの?」


 ハナは自身に満ちた表情で胸をたたく。


「うん!とっても幸せです!断言します!」


「そこまで?」


「当たり前じゃん。だって…こんな私のそばにずっといてくれて、こんな私のために泣いてくれる人がいる。これを幸せって言わなくてなんて言うの?」


「あっ……」


 トンネルを抜け、眩い光が差し込む。

そしてバックミラーに目を向けると、僕の目からは大粒の涙がこぼれていた。


「ああ…くそっ…」


目をこすり、涙をぬぐう。


「泣かないって…決めてたのに……」


 景色は海へと変わり、潮風しおかぜの香りの先で水平線がキラキラと輝いている。


ハナは懐かしむように言った。


「わあ、この海に来るの久しぶり。あなたが車に乗るようになって、たまに連れてきてくれたよね。ここを通るためにわざわざ遠回りしたの?」


「…うん」


「思い出の場所だね。初めて来たのはたしか、あなたが家出して迷子になった日」


「……そうだったな」


 きっかけは些細ささいなことだった。親との喧嘩。自由を求めて家を出たものの、子供だった僕は帰り道を忘れて彷徨さまよっていた。


気づいたらこんな遠くの海まできていて、ただただ途方とほうに暮れ泣くことしかできなかった。


だけど。


「見つけた!」


 ハナは僕の匂いを頼りに見つけ出してくれた。

そして息を切らし、勢いよく抱きつく彼女に僕は押したおされた。


「あの時もなたってば、私のこと抱きしめてわんわん泣いたよね」


「……やっぱり今も僕は変わってない。泣き虫な子供のままだ」


「でも私、そんな素直なあなたが大好きだよ」


「僕だって…そう言ってくれるハナのことが大好きだ」


大好きだった。


 山に通じる坂道へ差し掛かり、アクセルを強めに踏み込む。

けれど、なぜだか足に力が入らない。


もっと言うなら、何かに怯えるよう少し震えすら感じていた。


 僕の息は荒くなり、次第に涙がひざへと落ちる。


「ダメだ…行きたくない、ハナとお別れなんて…そんなの…嫌だ」


「……」


 感情があふれ、ことわりにきばを向くようなことを口にしてしまう。


「なんで…どうしてお前なんだ……世の中にはお前より死ななきゃいけない奴が沢山いるのに…どうして…」


「そんなこと言わないで…誰にだっていつか終わりが来る。私はそれがちょっと早かっただけ」


「……ハナがいないと寂しいよ」


「私だって寂しい。朝目が覚めたとき、あなたのそばにいられないと思うと…すごく…」


彼女も涙を堪え、僕の左手にそっと触れる。


「でもね、大丈夫。私には分かるの。これはちょっと長い間離れ離れになるだけなんだって」


「離れ離れ?」


「うん。きっとあなたの人生は長くて、何十年も先の話になるだろうけど。きっとまた、必ず会える」


「ハナ…」


彼女の話に僕は少しだけ笑う。


「じゃあ次会う時はきっと、誰だか分からないくらい爺さんになってるだろうな」


「それでも分かるよ。だって私、耳も鼻もこんなにいいんだから」


「そうだな……」


 車はもうすぐ目的の場所に到着する。

そして、ハナが手を握る感覚は徐々に薄くなっていった。


「じゃあ…そろそろ行くね」


「…うん」


「最後に一つだけお願いしていい?」


「なに?」


彼女は僕の体に抱きつく。


「もう一度だけ…私を抱きしめて。それで最後にもう一度だけ私のために泣いて欲しい」


「ハナ……」


 散々泣いた。泣いて泣いて泣き尽くした。


そして、「ありがとう」という声のあと、ハナは僕の腕からいなくなり、

助手席には小さな箱が残った。


 車を停めて箱を抱える。初めてハナを家に連れてきた時のように。

そして斎場さいじょうで手続きを済ませた後、係員の指示に従い白い建物へ向かった。


 建物の扉をノックすると、中からスーツ姿の男性が現れ「よろしいですか」と腕の中の箱を受け取った。


 彼は箱を台に乗せてゆっくりと開ける。


「ここで、お別れとなります。最後に何かございますか?」


 僕は箱の中を見る。

そこには小さな体を丸め、まるで眠っているかのような『白い犬』の姿があった。


 手で触れ、感触を確かめる。


体は冷たく固まっている。それでも頭を撫でてやると、やはりその感触は何度も触れたハナのものだった。


「お願いします」


 男性に頭を下げ、カシャンという扉の閉まる音と共に建物へ背中を向ける。


そしてゆっくり歩き出し、小さくつぶやいた。


「またな、ハナ」



 ハナのいない帰り道。僕はハンドルを握りながら、あの会話の続きを思い出していた。


「そんなことないよ、あなたを一番近くで見てきた私が言うんだから。間違いない」


「じゃあ、僕のどこが変わったって言うんだよ?」


「あなたは、すごく強くなった」

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