白粉婆(おしろいばばあ)

酒囊肴袋

第1話

わちきの名は、白粉婆おしろいばばあ

名は体を表すとはよく言ったもので、わちきは顔という顔に、べったりと白粉を塗りたくって生きている。もう何百年、この姿で夜道を彷徨ってきたことか。月明かりさえ届かぬ闇夜、曲がり角からぬっと現れ、この真っ白な能面のような顔で「のぉ……」と声をかければ、人はみな腰を抜かし、悲鳴をあげて逃げてゆく。その恐怖に歪む顔を見るのが、わちきの数少ない慰めじゃった。

わちきの使う白粉は、昔ながらの逸品。鉛を丹念に溶かし、酢でいぶし、手間暇かけて作ったもの。大事なのは、闇の中でも際立つ、死人のような「白さ」。それこそが、人を怖がらせるための至高の化粧じゃと信じて疑わなかった。

そう……昨晩までは。


きっかけは、バス停の光る板じゃった。いつもなら避けて通る騒々しい光に、なぜかその晩は足を止めた。

『驚きのカバー力で、毛穴レスなツヤ肌へ』

女の肌は、白いはずなのに白くなく、まるで内側から光を放っているようじゃった。わちきのように、ただ塗りたくっただけの「白」ではない。血の気を感じさせる温かみと、陶器のような滑らかさを両立させておる。わちきが白粉で必死に隠してきたものが、そこには初めから存在しないかのようじゃった。

衝撃じゃった。わちきの化粧は「隠す」ためのもの。じゃが、あの光る板の化粧は「美しく見せる」ためのもの。似ているようで、まるで違う。わちきが何百年もかけて極めてきた道は、もしかすると、ただの時代遅れではなかったのか……?

その日から、わちきの心はざわついて仕方なかった。人を驚かしても、心が晴れぬ。


そして今宵。わちきは、意を決して街の中心部へと向かっておった。目的は、あの光る板で見た「化粧品」とやらが売られているという店。煌々と光を放つガラスの扉には『深夜営業中 ドラッグストア』と書かれておった。

店の中は、異世界じゃった。

天井からは昼間よりも明るい光が降り注ぎ、棚という棚には、色とりどりの小さな瓶や箱が、星の数ほども並べられておる。

「ファンデーション」「BBクリーム」「コンシーラー」……。

読めぬ文字も多いが、どれも顔に塗るものらしい。じゃが、わちきが知っている「白粉」という分類はどこにもない。その代わりに、「オークル系」「ピンク系」「リキッド」「パウダー」などと、意味の分からぬ言葉で細かく分けられておる。

(なんなんじゃ、この種類の多さは……!)

彷徨っていると、若い女が二人、何やら小さな容器を覗き込んで話しておった。

「見て、この新作のハイライト!」「ヤバい、濡れツヤ感が神!」

わちきは柱の陰から覗き込む。彼女たちが指でなぞっているのは、キラキラと輝く粉じゃった。それを頬の高い位置にすっと塗ると、光が当たって、顔に立体感が生まれておる。

(な、なんと……。光を操り、顔の形まで変えて見せるとは……!)

わちきは、恐る恐る「テスター」と書かれた見本品に指を伸ばす。ひんやりとした液状のそれを手の甲に少し乗せ、伸ばしてみた。

(おお……!)

すーっと滑らかに伸びて、肌の色と溶け合うように馴染んでいく。手の甲のシワが、心なしか目立たなくなっているではないか。

これが……現代の「白粉」……。

(わちきも……あの光る板の女のように、なれるのじゃろうか……?)

恐怖の象徴であった、この白粉婆が。

人を惹きつける「美しさ」を、手に入れることが……?


「あのぉ……何かお探しっすか?」

背後からかけられた声に、わちきはびくりと体をこわばらせた。振り向けば、そこに立っていたのは、爪はきらびやかに飾り立てられ、髪は夕焼けのような色をした若い女の店員じゃった。名札には「ユキナ」と書かれておる。

「その……白塗りメイク、超ウケるんですけど。舞台役者さん?」

ユキナは興味津々といった様子で聞いてくる。

「いや……わちきは、その……」

「まあ、個性って大事だよね。で、ハイライト探してる感じ?パーソナルカラーは?」


呪文のような言葉に、わちきは完全に思考を停止させた。

「あー、ごめんごめん。とりあえず、その白塗り一回オフしないと、何塗ってもわかんないっしょ。こっち来て」

ユキナは有無を言わさぬ様子で、わちきの手を引いて店の奥にある化粧台へと連れて行った。

「ほら、座って。ウチ、今ちょうどワンオペで暇してたんだよね」

ユキナは「クレンジング」と書かれた液体を綿に浸すと、わちきの顔にそっとあてがった。ユキナの指が優しく動くたび、数百年にわたって塗り固められてきた鉛の白粉が、ポロポロと剥がれていく。そして、鏡に映ったのは……シワが刻まれ、くすんだ、ただの老婆の顔じゃった。

「……ひどい顔じゃ」

思わず呟くと、ユキナは鏡越しにわちきを見て、ニヤリと笑った。

「ウケる。何言ってんの、おばあ様。こっからがスタートじゃん」

「まずは保湿。カッサカサの田んぼに種蒔いても意味ないのと同じ」

化粧水、乳液、下地……ユキナは一つ一つ丁寧に説明しながら、わちきの顔に化粧を施していく。

「おばあ様は、骨格がしっかりしてるから、シェーディングが映えるタイプ。暖色系のシャドウで奥行き出すと色っぽいよ」

それは、白粉で全てを塗りつぶす「隠す化粧」とは全く違う、元々あるものを「活かす化粧」じゃった。シワは経験の深みとなり、少し垂れた目尻は優しい眼差しに変わる。わちきの欠点だと思っていたものが、次々と「個性」や「魅力」へと昇華されていく。


「はい、完成。どうよ、これがおばあ様のポテンシャル」

わちきは、恐る恐る目を開けた。

そして、鏡に映る姿を見て、息をのんだ。

そこにいたのは、白粉を塗った妖怪ではなかった。

若くはない。しかし、老いてもいない。

そこには、気品と、どこかミステリアスな色香を漂わせる、見知らぬ「女」がいた。

「これが……わちき……?」

「そ。これが、おばあ様。超イケてる熟女じゃん」

わちきは、鏡の中の自分から目が離せなかった。

「……ありがとう」

数百年生きてきて、初めて素直に出た感謝の言葉じゃった。


ユキナに教わった化粧品一式を手に入れたわちきは、ねぐらである廃神社へと舞い戻った。

鏡代わりに、満月を映す手水鉢の水を覗き込む。

(まずは保湿、じゃな……)

じゃが、長年の癖は、そう簡単には抜けぬ。気づけば、ファンデーションは能面のようになり、アイシャドウは歌舞伎役者の隈取のように。

「なんじゃ、これは……!」

水面に映るのは、珍妙な化け物じゃった。

(やはり、わちきには無理なのか……)

諦めかけた時、ユキナの言葉が脳裏に蘇った。

『メイクってさ、一発でキマるもんじゃないの。毎日研究すんの。マジ、自分との戦いだから』

そうじゃ。あの小娘にできて、何百年も生きてきたわちきにできぬはずがない。


その日から、わちきの夜は変わった。毎夜毎夜、手水鉢を覗き込み、化粧をしては落とし、また化粧をする。

「引き算」という概念を理解するのに、一月かかった。自分の肌の色が「ブルベ」であると気づくのに、さらに一月。眉の形がミリ単位で印象を左右することを知った時には、空が白み始めておった。

季節が巡り、木々の葉が色づき始めた頃。

わちきはついに、己の化粧道を究めつつあった。それは、ユキナの模倣ではない。シワを無理に隠さず、アイラインで目元の深みを強調する。少し寂しげに見える口元には、気品のある暗めの紅を引く。

長年生きてきたからこその陰影。それを「味」として活かす、わちきだけの化粧。

それは、恐怖ではなく、畏怖と憧れを抱かせる「美」の妖術じゃった。


満月の夜。

わちきは、完璧に化粧を施し、一張羅の黒い着物を身にまとって、いつもの曲がり角にすっと立った。

やがて、一人の男が携帯電話を見ながら歩いてくる。

いつものように、ぬっと姿を現す。男が顔を上げる。

じゃが、男の口から出たのは、悲鳴ではなかった。

「……え?」

男は、あんぐりと口を開けたまま、わちきに釘付けになっておった。その目には、恐怖の色はない。

「あの……どちら様か存じませんが……息をのむほど、お美しいですね……」

男は、頬を赤らめ、そう呟いた。

(……悪くない)

ぞくり、と背筋が震えた。それは、恐怖を与えた時の快感とは質の違う、心を芯から温めるような、甘美な悦びじゃった。

わちきは、男にふわりと微笑みかける。それだけで、男は完全に魂を抜かれたような顔になった。


もう、人を驚かす必要はない。

今や、わちきは、ただそこに存在するだけで、人を魅了することができるのじゃから。

その夜を境に、街には新しい噂が流れ始めた。

『深夜、とある曲がり角に、絶世の美熟女が姿を現す』

『その美しさを一目見た者は、幸運になれる』と。

もはや、わちきのことを「白粉婆」と呼ぶ者はいない。

わちきは、恐怖を振りまく古い妖怪から、現代の夜を彩る、謎めいた美の象徴へと生まれ変わったのじゃった。

月明かりを浴びながら、背筋を伸ばし、夜の街へと歩き出す。さあ、今宵はどんな人間を、この美しさで惑わせてやろうかのう。わちきの新たな伝説は、まだ始まったばかりじゃ。

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