第10話 数式のない世界で ― 意志で選ぶ明日
カーテンの隙間から差し込む光で目が覚めた。
時計を見ると、まだ6時50分。アラームより少し早い。
台所に降りると、母の後ろ姿が見えた。
頭上にあったはずの数式が――もう、なかった。
「おはよう、結月」
母が振り返り、やわらかく微笑む。お弁当と朝ごはんの用意をしている。
食卓につき、目玉焼きとトーストを食べながら父の顔を見る。
そこにも、数式は浮かんでいなかった。
以前は張り詰めていた両親の空気も、今日はどこかやわらかい。
他愛ない雑談が交わされる。
父が靴を履きながら「行ってくる」と言うと、母は「いってらっしゃい」と自然に返した。
ほんの少し笑った父の横顔に、結月も胸が温かくなる。
お弁当をカバンに入れ、家を出る。
通りすがるサラリーマンの頭上にも、やはり何もなかった。
世界はただ“現実”だけで構成されていた。
どこか物足りなくもあったが、同時にこれまでにない心地よさに包まれていた。
通学路を歩く足取りは、昨日より軽い。
「おはよ、結月!」
信号の向こうで茜が手を振る。
頭上に数式はない。少し不安になるが、彼女は無事に渡ってくる。
藤崎の話題を楽しそうに話す茜を見ながら、結月はもう一度頭上を確認する――何もなかった。
物理の授業が始まる。
これまでなら「63%/37%」と見えていた教師の選択肢は、今はまったく見えない。
「これ、わかる人」
やや難しい問題が提示され、教室は静まり返る。
かつての結月なら、わかっていても手を挙げることはなかった。
だが今は、自分の意志で選んでみたいと思えた。
一度息を吸い、手をまっすぐに挙げた。
昼休み。
茜とお弁当を食べながら、藤崎の方に目をやる。
いつもは少し陰のある彼が、今日は屈託のない笑顔を見せていた。
その姿に、結月の口元も自然にほころんだ。
放課後。
机の上で、ずっと使っていた「確率ノート」をそっと開く。
びっしりと書き込まれた数字と出来事。
最後のページには、あの日書いた「見えることが苦しい」という文字。
結月は指でそっとその文字をなぞり、ノートを閉じた。
――もう、書くことはないだろう。
手放したのではなく、超えていった。
そんな気がした。
夕方。駅のホームに着くと、空を見上げる。
淡い光がまぶしく、風が一瞬強く吹き抜けた。
反対側のホームに、藤崎の姿が見えた。
彼もこちらに気づき、少し笑った。
結月も静かに微笑み返す。
頭上には何もなかった。
――出会えてよかった。
藤崎も同じように思ってくれていたらいい。
帰り道、自販機の前で立ち止まる。
結月はこれまで、新しいジュースを選んでも“ハズレ”を引いたことが一度もなかった。
並ぶ飲み物を眺める。
普段なら選ばない、マイナーなメーカーのドリンクに目が留まる。
どれを選べば当たりなのか――もう、わからない。
だが今は、それでいいと思えた。
――見えないからこそ、迷える。
迷えるからこそ、自分で選べる。
選べることが、こんなにも静かで、強いなんて。
ゴトン、と音を立てて落ちてきた缶を取り出し、一口飲む。
スッとするような、辛いような、不思議な味。思わず顔をしかめる。
「まずーい!」
そう言いながら、結月は声を上げて笑った。
エピローグ
世界から、数式が消えた。
未来を示す数字も、選択肢を示す矢印も、もうどこにもない。
不安はある。
だってもう、結果はわからないのだから。
「正しい答え」が見えないのだから。
それでも――今は思う。
見えないからこそ、迷える。
迷えるからこそ、選べる。
わたしが選んだ答えが、正しいかどうかなんて、もう関係ない。
誰かと笑い合えるなら、失敗してもいい。
間違えながらでも、自分で決めて歩いていく。
あの日からずっと続いていた“確率の世界”は、静かに終わりを告げた。
でも、わたしの物語はこれから始まる。
――数式のない世界で。
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数式の見える少女 ―唯一“見えない”彼との物語― @kitano_kokage
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