詩を読む少年

foxhanger

第1話

 サトルは机に座って、数学の解説書を読んでいた。そのとき、かたり、と扉が開く音がした。

 入ってきたのは、父親だった。父は机に向かうサトルを一瞥するなり、言った。

「そんな本はいくら読んでもダメだ。詩を読みなさい」

 サトルはしぶしぶ棚に戻し、代わりに詩集を引き出した。

 そして、センサーが取り付けられたキャップをかぶる。父は端末のモニターアプリを立ち上げ、サトルに促した。

「読んでみなさい」

 そしてサトルは、本を拡げ、詩を朗読した。


 太郎を眠らせ 太郎の屋根に雪降りつむ 次郎を眠らせ 次郎の部屋に雪降りつむ


「うむ、つぎはこれを読みなさい」

 詩集を手に取って父がページを開き、サトルに渡す。


 母よ――淡くかなしきもののふるなり 紫陽花いろのもののふるなり


 朗読を続けるサトルを横目に、父は手に持った端末を操作した。

 手元に、ホログラフがポップアップ表示される。立体グラフのような表示

 父はホログラフに表れるサトルの脳細胞の活動を眺めて、ひとりごちた。

「よし。正常範囲内だ。この調子でがんばれ」

 サトルは胸をなで下ろした。父が出ていくと、本棚に詩集を戻して、数学解説書の続きを読み始めた。

 明日はこの本を、図書館に返す日だ。そしてタキに会う日だ。


 サトルが産まれる前に、「それ」は始まったとされている。

 その頃、世界は危機に瀕していた。

 ネットワークが発達し、世界のひとびとがリアルタイムで繋がり、自由に意見が交換できるようになった時代が到来したことが、始まりだった。

 当時は、国や身分、男女を問わずひとびとが「意見」のみで繋がりあえるようになったことで、権力者への忖度や「世間」の抑圧のない、自由な世界がやってくるものだと思われていた。

 しかしその目論見は裏目に出たのだ。

 わかり合えないものたちがネットの世界で不用意に接触するようになって、ネットワークは荒れた。社会の中にはトラブルがどんどん増え、フェイクニュース、出鱈目な意見が飛び交い、侮蔑や嘲笑が、真面目な意見の交流に取って代わった。

 様々なひとびとが自由に意見を交わせるようになった代償は、出鱈目が大手を振ってまかり通る、ポピュリズムと陰謀論が猖獗を振るい、麻のように乱れた時代だった。

 ひとびとはあやふやな情報に踊らされ、ときにあからさまな暴力があちこちで噴出した。

 怪しげな人士が票を集めて国家の枢要に入り込み、首をかしげるような法案が次々と可決された。

 混乱はどんどん大きくなり、ついには暴力が伴う諍いまでにも発展した。自由に意見が交わせる社会は、憎悪と相互不信が渦巻く社会に変わってしまった。

 どうやって、もとの世界に戻せばいいのか。

 おなじ頃、脳内の活動を検査する技術が発達し、脳内の働きをリアルタイムで測定出来るようになった。fMRIなどの脳の活動を測定する機器が小型化され、常時接続が可能になった。だれでも手軽に脳の活動をモニターすることができるようになったのだ。

 喜怒哀楽、感動。そういった「こころ」の領域に属するものも、脳内のシナプスの活性化、脳の活動として測定されるようになった。

 脳科学は飛躍的に発展したが、その中で、ある発見があった。芸術などの「文化活動」に接したとき、情緒や理性を司る脳のある部分が特異的に活性化されるのだ。

 いろいろなジャンルの文章芸術や音楽、絵画などに接したときの脳の活動をモニタリングし、研究を重ねていったのち、ある「傾向」が発見されたのだ。

 芸術作品から受ける「感動」に、解剖学的な根拠があることが判明した。そしてある精神的な「傾向」とも関連付けられるようになった。芸術作品に対する鋭敏な感受性を持ったものは、ネット社会を生きるのに好ましい傾向を持っていた。フェイクニュースに騙されない。人種や性別、性的志向で差別的な言動をしない。つまり「良識的な市民」である確率が高い。

「自分たち」と「あいつら」のあいだにある「差」。それに解剖学的な根拠が発見されたのである。

「文学的感性」こそ人間の条件ではないか。それが純粋に現れるのが「詩」だった。

 言葉の意味ではない。音韻でもない。それらが一体となって脳内に惹起される、ある感情。

 それは、散文である小説の筋を辿ったり、「お話」に登場する人物に思い入れるだけでは得られないものである。

 いわゆる「良識性」と「詩」に対する脳の反応に高い相関性がみられたことで、人間としての諸権利が与えられるのは「人間らしい」情緒が発達しているもの――「詩」が理解出来るものこそふさわしい、と思われるようになったのだ。

 こうしたことが知られるにつれ、世の中には、ある「運動」が澎湃として巻き起こってきたのである。それは「知性復活運動」と呼ばれていた。

 たとえば、社会問題などにも積極的に発言しているある作家は、新聞掲載の時事エッセイにこう書いたのだ。

「人間が人間たる所以が、ついに科学的に証明されたのだ。政治家はみな、この測定を受けるべきだ。内面の豊かな人間、詩を愛する人間こそ、国の舵取りを任せるのにふさわしいだろう」

 メディアにも、好意的な記事が次々に載るようになった。

 そのうねりはやがて政治を動かし、知性復活運動は大きな実りを得た。政治の場から知性のないポピュリストたちを追放し、社会は次第に、「詩」が理解出来るひとを指導的な地位に就けることが望ましいとされるようになってきた。

 やがて教育制度も改正された。その中で最重要教科は「詩」になった。「詩」を読ませて脳の活動を測定し、結果によって高等教育を受けられる機会が与えられるようになった。

 子供は一定年齢までに、脳の機能検査を受けなくてはならない。「詩」を読み、そこで脳内の反応を検査し、特定の部位が活性化されているかどうかを判断する。それに合格したものだけが、「人間」として遇される。

 それに受からなかった「人間」は、どうなるか?

 かれらは「人間」としての「たましい」を持っていないと判断され、「人間以外」の存在とされたのだ。かつて「哲学的ゾンビ」と仮想された存在、それが、かれらということだ。

 だとしたら、「読み書きそろばん」以上の高等教育を施したり、政治に参加させたのは、誤ったことではないのか。

 はじめ、その分離は穏当だった。しかし月日が経つごとに、それは拡充されていった。

 高等教育への道は閉ざされることになり、選挙権、被選挙権、財産の管理権も付与されない。

 結果。

 社会は、これまでの迷妄の霧が晴れたようになった。

 愚か者たちに政治の舵取りを任せることがなくなったので、いろいろなことが劇的に好転したのだ。

 こうなった以上、過去の過ちを二度と繰り返してはいけない。「詩」を感得できる人間だけが「人間」、そうでないものは「人間以外」なのだ。

 それが「昨日までの世界」についての反省だった。


 次の日、図書館。

 理工書の書棚の前でサトルはタキと会った。

「この本ありがとう。面白かった」

 タキとはじめて出会ったのも、この図書館だ。

 見慣れない少女がいたので、声をかけてみたのだ。

「どこの学校に行ってるの?」

「……行っていない」

 隣の席に座ったタキになんとなく問うと、躊躇いがちに、そういった。そのとき、タキは科学解説書を読んでいた。

「ちいさい頃の検査で合格しなかった。でも本を読むのは好き……こういうの」

 サトルやタキが産まれた頃くらいから、就学年齢のときの検査で不合格になると、義務教育がなされないようになったのだ。

 子供たちは一定年齢に達すると、脳の反応を測定される。その「反応」が基準以下だと、その「こども」は「たましい」がない、と判断される。

 つまりは、人間以外。

 子供のうちは親と一緒に暮らせるが、大人になると「ヤンキー牧場」に送られるという。そこからは一生出られないし、もうサトルのいる世界と関わることはないのだ。

 彼女のような人間はあまり、このような施設には立ち入らないというが、タキは例外なのか。

 しかし、サトルにはどうしても分からなかった。タキに「たましい」がないと、なぜ言えるのか――。


 タキはサトルに、科学解説書や数学の本を教えてくれた。

 図書館がふたりの交流の場だった。

 ここ数年、図書館や美術館、博物館のような「文化施設」に対する予算は手厚くなったという。

 かつてのポピュリズム政権では、その種の施設にかけられる予算は真っ先に削られていたというが、それがようやく「正常なかたち」になった。そのかわり、この種の施設に縁のないひとたちは「向こう側」に押しやられることになったが。

 かれらにかけられる予算はどんどん減っている。

 もとから「知的」な素養のないひとびとには「教育」を施すだけ無駄なのだ、と両親を含むみなは言うのだが。あまつさえ、近々法律が改正され、義務教育が廃止されることになるようだ。

 それでも、知能にも人格にも問題なさそうな、タキのような子供はいる。

 かつて入学試験がマークシートだった頃は、タキのような子供でも好成績を取れ、高等教育を受けることが出来たのだ。しかしそれは「過去の過ち」のひとつに数えられている。

 この時代、高学歴を得るのに不適格な人間が、非人間的な試験で非人間的に選ばれることはないのだ。

 しかし、目の前のタキは、サトルと同じ人間に思える。

 タキは、なにげなく問うてきた。

「サトルは進学するんでしょ」

「そうだよ。きみはどうするの? もっと勉強したいんじゃないの?」

 眼を伏せるだけだった。

 タキは、学校には行っていないが、数学は抜群に出来るのだ。

 しかし、それではこの社会で評価されない。いまの世の中でいちばん肝心なのは、「詩」に脳が感応できるかなのだ。

 社会を健全に運営するためには、不安要因を減らさなくてはいけない。不適格な人間に高等教育の機会を与えたことは、社会を不安定にする要因でしかないというのだ。

「わたしは、これからどうすればいい?」

 タキの問いに、サトルは口ごもった。


 そのときだった。

 図書館の駐車場に、オリーブ色のワゴンが乗り付けてきた。

「あれは……!」

 図書館の皆は、ざわついた。

 そろいの制服を着た、三人の男たちがワゴンから降りてきた。無遠慮に入り込み、IDを突きつけ、こう言い渡した。

「高度脳機能検査官です。このへんに未測定児童がいると通報がありましてね、測定証明書を見せてください」

 高度脳機能検査官。それは、最近法律が改正されて誕生したものだ。高度脳機能の点において不審だと判断した人物に対して、職権で強制的に検査できる文科相直属の特別捜査官である。「詩」に感動しないものに対する社会からの排除はここまで進行したのだ。

 合格すれば証明書が発行される。サトルは提示したが、タキは首を振った。

「ないのですね。では、検査をさせていただきます。ちょっとお時間をくれるかな」

 そしてタキはセンサーキャップをかぶった。長い髪がすそからはみ出る。それを無理矢理に押し込んだ。

 検査官は、詩集をタキに手渡す。

「これを読みなさい」

 タキは朗読を始めた。


 汚れつちまつた悲しみに

 今日も小雪の降りかかる

 汚れつちまつた悲しみに

 今日も風さへ吹きすぎる


 検査官は端末でアプリを立ち上げる。

 結果は――

「ネガティブだ」

「そんな、なんかの間違いだ」

「いや……その証拠に、きみ、これを見なさい」

「……!」

 サトルは検査官に、ホログラフ表示を見せられた。

 サトルは、見てはいけないものを見てしまったような気分になった。

 その反応は、自分の記憶にあるサトル自身のものとは全く違っているのだ。

「……ごめんなさい」

 タキは俯いて、ぽつりと言った。

「……分かったでしょう。わたしは、サトルと違うの」

 タキは外見は見分けがつかなくても、その頭皮の数センチ奥にあるものは、これほどまでの違いがあるのか。

 そのとき、違和感とも嫌悪感ともつかない、なんとも名付けようのない気持ちが、サトルの胸に湧き上がった。

 そんな気持ちは、タキにはないのだろうか。

「不合格だ。あんたはこっちに乗ってもらうよ」

 検査官はタキに声を掛けると車体後部の扉を開き、押し込めようとする。中から声が聞こえる。その車には、タキ以外にも乗せられているのか。

 不合格になったとしたら、そのままワゴンの荷台に乗せられ、「ヤンキー牧場」に連れて行かれるのだ。

「その子を下ろせよ!」

 サトルは検査官に追いすがった。しかし、タキは肩をふるわせて、話しかけた。

「やめて。サトルは関係ないから……。」

 涙が頬を伝い、ぽたぽた落ちる。

 その仕草は、自分や父と変わらない。しかしタキは「哲学的ゾンビ」かもしれないのだ。「悲しくて」涙が出てきても、それは何かを真似た結果、なのかもしれない。

「ぼくも連れて行けよ! いいだろ!」

 なおも縋ると、検査官に怒鳴りつけられた。

「離れなさい! いい加減にしないと、公務執行妨害の方でしょっ引くからな」

 そう言って、振り払う。

「さよなら」

 ドアは閉ざされ、ワゴンは発進した。サトルは呆然とその場に立ちつくすだけだった。

 それが、サトルがタキと会った最後だった。


 ワゴンを見送って、サトルは帰り道についた。激しい感情の嵐が過ぎ去ったあと、サトルはひとりごちた。

(ぼくのタキに対する感情は、気まぐれに拾った犬にかけた情けと、おなじようなものだったんだろうか)

「詩」を理解しなければ「人間」とは呼べない。それは分かっていたはずだった。

 タキは人間以外? それとも、別の人類なのか?

 高度脳機能検査官に「人間以外」と判定された「こども」は「ヤンキー牧場」に送られ、一生そこから出られないらしい。「ヤンキー牧場」とはどういうところなのか、サトルは知らない。正式名称ですらないのだが、みなはそう言っている。


 それからサトルは、「普通のひと」として暮らした。「詩」を理解する人士として遇され、高等教育を受けて、卒業後は社会の然るべき地位に就いた。いつしか、タキのことも忘れようとしていた。

 しかし、数年後のある日。

 父が死んだ。

 遺品を整理していたら、電子ライブラリの中から偶然発見してしまったものがある。

 それはあるクリニックの説明書と手術同意書、それに領収書だった。

 タイトルにはこうあった。

「ナノマシンによる脳内シナプス再結線によって、脳内感受部位を活性化させる処置について」

(……!)

 サトルは頭が殴りつけられるようなショックを受けた。

 震える手で、スクロールした。

 幼児期に脳内にナノマシンを注入すれば、「詩」に感応する脳を得られるということなのだ。

 小さい頃、なんどかこの医者にかかった記憶はあった。しかし、そのときはただの健康診断だと思っていたが――。

 サトルの父は、彼が幼いころ、高い金をかけて、サトルにその処置を受けさせたのだ。

(そうか)

 サトルは、この社会のからくりに気がついてしまった。

 社会に断絶をもたらした「脳の構造」は、このような処置で後天的に変更可能なのだ。しかし、その処置にあずかれるのは一握りだし、世間には大っぴらにはされない。社会の根底が崩れてしまうから。

 結局、その処理を金で買える人間が、その子孫に「資産」を受け継がせることができるのだった。逆にいったん「ヤンキー牧場」送りになったら、もはやほとんどのひとが子々孫々までそこから抜け出せないのだ。

 自分とタキを分かつものは、親のいままでの社会的な地位と、財産しかなかったというのか。

 ふと我に返ったサトルは、ぽつりと言った。

「言葉なんかおぼえるんじゃなかった」

 そんな一節が頭に浮かぶ。

 それが、詩の一節だったことに思い至り、サトルは身震いした。

「自分は『人間』になってしまった、いや、させられてしまったのか……」

 サトルは苦いものをかみしめるような表情をした。

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