メヘリオ
天池
メヘリオ 1
その木の内側は闇に浸かったように暗くて、外側は光を弾くように明るく、境には年輪の黒い筋が通っていて、暗い部分にもよく見ればビデオのノイズのような確かな線が規則的に現れていた。職人の手は、何百年も前から変わらない安らぎと、信頼と誇らしさを持って、小さな
見方を変えれば、店が含まれる区画全体が一つの展示用水槽であるとも言えた。定期的に癒着し、結束点を持つ道路によって、《人類の分岐点》の殆どの部分は細胞状に整備されていた。建物の形は様々だが、総じて背が低く、道を間違えると、途端に全く違う場所へ送り飛ばされてしまったように感じられた。それには、百二十年前に《人類の分岐点》が作られたとき、区画ごとに移住が進められたという事情がある。当時の世界各地の政府が競って購入したり、大規模な寄付というかたちで分配されたりして、隣り合う区画のそれぞれには異なる土地からの移住者が暮らした。道路の幅は広く、角張った紡錘形をした区画は縦横にどこまでも連なって、視界を覆い尽くした。だからどこへ行くにも基本的にはスノーモービルが必須で、それでも《人類の分岐点》の外れの方まで来ると、スノーモービルの往来も疎らになり、雪の表面を光だけが通過していって、溶け出したミルクが空一杯に立ち昇っていくような心地を覚えさせた。十二月の昼のことだった。メヘリオは深く息を吸い込んで、車載プレイヤーのボリュームのツマミを右に回した。中心部へ近付くと、道路の凹凸も避けることが出来なくなり、シートやハンドルから伝わる大きな振動が音楽をかき消した。大アーケードに入り、各種の車の通行によって均されたところに入り込むと、狭い歩道の向こうに立ち並ぶ建物の方から、
機械式の駐車場にスノーモービルを入庫し、無機質なコンクリートの壁の横を通って建物に入る。外でも内でも、十二月祭の音楽は全く聞こえて来ない。鞄からIDカードを取り出して受付を済ませ、更衣室に向かう。
「やあ」と奥にいた二十歳ほど年の離れたアレクサンドラが声をかけて来た。「久しぶりだね。調子はどうだい? 俺は太ももを痛めちまってるみたいで、どうも違和感があるんだ」
青いベンチの向こうで、アレクサンドラが脚を横向きに上げ下げしてみせる。
「やあ、しばらく身体が言うことを聞かなくてね。悪夢ばかり見るし、外に出たら火照ったみたいになってしまって。今日はリハビリ」
鞄を仕舞い、ロッカーの扉に手を置きながら、メヘリオはこみ上げて来る嘔気を我慢する。緑色のロッカー。リノリウムの床。安心する場所だ。ウェアを脱ぎ、黒い肌着一枚になって一度伸びをしてから、固い素材の白い服に着替える。最後に胸の機械にIDカードを翳してから、ヘルメットを被り、ロッカーの扉を閉める。これで私はメヘリオになったのだ。メヘリオ以外の何者でもない存在に。アレクサンドラと一緒に更衣室を出て、エレベーターに乗り込む。
長細い形の穴がいくつも空いた銀色の床が下降する。一分近くの間エレベーターは沈み続け、ドアが開くと、外には真っ暗な空間が広がっている。床の中心に伸びている黄緑色の誘導灯に沿って、暗闇を跳ねながら進み、一つ目の扉を開ける。前室には既にズーリ、バオ、ナナミ、アウレリオ、ハムザがいた。それぞれ壁に取り付けられた手摺りを使って準備運動をしている。メヘリオも扉の近くの手摺りのところへ跳び上がり、両手を後ろに回して、垂直に曲げた両脚を浮かせながら肩と背筋のストレッチをする。次に、逆さになって開脚し、両足首を壁の突起に引っ掛けながら身体を手摺りの方へ引き寄せる。股関節が思うように開かない。そのままストレッチを続けていると、第二の扉が開き、身体が扉の方へ吸い寄せられ手を放しそうになった。
「こんにちは、皆さん。それではよろしくお願いします」
先生に続いて、私たちは次々にウォラリウムへ飛び出した。背後で内開きの扉がぱたんと閉まる。するともう空間のあちらこちらに点在して微光を発している大小様々の球体と、同じく淡い光を湛える私たちの服しか、目に映るものはない。私という名前が、他の人から離れたところで、ぽつんと浮かんでいるのだ。先生を先頭に、私たちは列をなして星の間を泳ぎ始めた。いくつもの他のグループが様々な軌道で空間を横切っていく。星は微動だにせず、同じところに留まっている。動いているのは私たちだけだ。けれど、このウォラリウムという場所は全て、余すところなく存在していて、飽和することも、崩壊することもなく、今という時そのものを表現している。ここにあるのは、日が沈まない十二月十六日、二一九一年十二月十六日の一風景だ。そして、ここにいる誰もが、アストラル体に反対をしていないのだ。
膝を曲げ伸ばししながら泳いでいると、段々と身体が火照って来る。私の皮膚が、白い服の表面へと拡張されて、それがウォラリウムの暗闇に圧し潰されてしまわぬように、内側から血流を張るような感覚。閉じ込められた血流を、私は一人で処理しながら前に進む。でも頭だけは涼しくて、冷たい清流の中を泳いでいるかのような心地すらする。そのバランスが取れているから、私たちは浮かんでいられるのかもしれなかった。そしてメヘリオは、「悪夢ばかり見るし、外に出たら火照ったみたいになる」という、精神科での説明のために誂えた言葉が、このウォラリウムでの感覚と結び付いていることに気が付いた。私は一体どこにいたのだろう。途端に何も分からなくなる。どうしてここにいるのか。ここにいるとき、他の場所や人とはどう違うのか。私たちとは何なのか。私とは何なのか。どうして生きているのか。どうしてここにいるのか。精神科の薬で生き長らえた心臓を、剥き出しにして曝して、その膨張と収縮の度に、私は考えた。それは脳の信号の伝達のようなものだっただろう。星の隙間の埃のような私を繋ぎ留めている網のような細胞が、鼓動によって大きく波打って、私の中へ消えていく。その網に絡め取られた全てのものを、私は認識する暇もない。今私は洗われて、またここに在る。考えることが出来るのは、私がここに在るからだ。「死にたい」と思うのも、壊れそうに愛するのも、感情を辿って憎むのも、世界の全てに悪態をつくのも、他でもないここに私が在るからだ。
決まったコースを周って、私たちはいつもの場所に集まった。ここから近くの星まで、色々な泳ぎ方で到達することを繰り返す。星には沢山のクレーターと凹凸があって、手をつくと皺のような感触が伝わって来る。一連の《着陸》トレーニングを終えたら、今度は少し間隔を空けながら並び、ヘルメット内のスピーカーから流れる音楽に合わせた動きの練習を行う。こうした一つ一つの動きの組み合わせで、芸術としての星間飛行の振りは作られている。かつてのメヘリオにとって、星間飛行はテレビを通して見る不思議な夢のようなものだった。それは人類の過去の野望にも、今まさに行われていて、未来を描き切ろうとしていることにも似ていて、目にすると妙な不安に取り囲まれるのだった。一人でいて不安を感じたとき、メヘリオはよく本能的に聖室へ向かった。
レッスンを終えて、スノーモービルで家に戻る。大アーケードを出るところで、明らかに雰囲気が変わるのを感じる。早くウェアを脱いで、自室のベッドに横になりたい。道路ですれ違うスノーモービルの数は段々減っていく。でも、誰もいない明るい景色から吹いて来る風は心地良かった。疲れた脚は、少し感覚が薄くなっていて、アクセルに括りつけられたみたいだ。この道をまっすぐ行けば、アストラル体化処置場に着く。物心ついたときからそれは知っていた。けれど、親戚や知り合いでその方向へ行く人はいなかったから、私にとってそれは、私が一緒に育った物語でしかなかった。私は今、脚一本でその物語と繋がっていた。脚を動かしさえしなければ、私は――私は、井華と同じ体験をすることが出来る。
どこまで走り続けるのかは分からない。全ての人や、建物や、思い出を振り捨てて、同じ速度で、いつまでも走り続ければあなたに会える? いや、そうじゃない。それも分かっていた。同じところへは行けない。私の願いは永遠に叶わない。涙がフードの毛の中に滑り込んでいく。私がどれだけ乱れても、他の車とすれ違うことはない。荒く呼吸しながら、メヘリオは炊き出し場でご飯を食べて帰ると言っていたアレクサンドラやハムザのことを羨ましく思った。
メヘリオ 天池 @say_ware_michael
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