モータースポーツ狂から愛を込めて

#52

自動車、レース、それだけの為に僕は生きてきた

 筆者は人生の半ば過ぎまで、文字通り車とレースの為に生きてきた。

 何よりも自動車のレースが好きで、サーキットで車を走らせていられるなら他のことは何もいらない位幸せだった。


 事実、周りの友達が早々に結婚をしたり、タバコやお酒を楽しむ生活をしていたりする中、自分はガソリンやオイル、タイヤにブレーキパッドやローターを大量に消費し、車中心の生活を送っていた。


 そこまでのめり込む理由を探す為に、記憶をさかのぼれば自分が車に興味を持ったのは5〜6歳の頃だったと思う。


 当時テレビでやっていた刑事ドラマに出てきた、角ばったフォルムをした銀色の日産 R31型スカイラインのセダンがとてもカッコ良く見えて、一目惚れをした。


 そして、その後日産車好きの少年として立派に成長し、中学生時代にはラジコンにハマり、お小遣いでR31型スカイラインの次の世代の、レースで29戦29勝と言う伝説を打ち立てたスポーツカー、R32型スカイラインGT-Rのボディとそれに合うシャシを買って、よく近所のデパートの屋上にあったラジコン用サーキットに通い友達と一緒に遊んでいた。


 この頃はまだ ”オモチャ” で遊ぶのに夢中で、将来の事など何も考えてはいなかった。


 ただ、好きと言う感情はそう簡単に抑えられるものではなく、その後歳を重ねて

 18歳になった頃、早々に免許を取り、実車に乗り始めた。


 非常に幸いな事に、家には家族が新車で買って乗り続けていたE36型のBMW 320iがあり、ハンドリングとは何かを教えて貰うにはうってつけの教材があった。

 エンジンの出力も150馬力と適度に非力で、初心者が扱うには本当に良い教材だった。


 この車を使って毎晩近所を走り回り、そして走り慣れてきた頃にサーキットへ行きたい願望が抑え切れなくなり、あるタイヤショップの走行会へエントリーをした。


 走る為にはそれなりの装備が必要だ。

 年齢にそぐわぬ出費をし、

 タイヤ

 ホイール

 スタビライザーを含むサスペンションキット

 サーキット用のブレーキパッドとローターに

 4点式ベルトを揃え、

 走行会仕様と化した愛車と共に憧れの富士スピードウェイへと向かった。


 走行会では練習走行枠の後、草レースの走行枠もあるとの事で非常に楽しみにしていたが、当時はシミュレーターなどまだ存在しない時代。

 先導車が居てやっとコースに留まって居られる様なレベルのドライバーが

 まともに世界有数の高速サーキットを攻略できる訳もなく、2週目にしてストレートエンドでコースアウト。

 そのままグラベルから脱出できれば良かったが、残念ながらそれは叶わず、コース脇ギリギリで早々に車を停める事になった。

 その後、車を降りてコース外に出た後に「もう少し行けたら出られたのにね」と声をかけ、ビギナーを気遣ってくれたフラッグポストのマーシャルの言葉と、たったこれだけで終わりかよ!と思った事は今でも忘れられない。


 結局、自分のサーキットデビューはグラベルでスタックして動かなくなった愛車の近くで他の車の走る姿を見るだけの苦い経験となり、その後に走行を予定していた草レース枠に参加する気も起きず、砂にまみれた愛車と共にサーキットを後にする事となった。


 この事がきっかけで、とにかく自分にはサーキットを走る経験が足りないと感じ、手当たり次第に走行会へ参加して行く事になる。


 その後、夜中にを走り込み、ジムカーナに参加し、レーシングカートでとにかく安価にサーキットを周回する等、様々な形で練習を積み重ねていった。


 その過程の中で、どうしても自分だけの愛車が欲しくなり、スポーツ走行のできる車を中古車の中から探し始めた。

 元々日産が好きだったので、当時買うならGT-Rだと思っていたが、様々な雑誌やビデオを見て、そして自分でもステアリングを握った結果、BMWが思いの外好きになり、なぜかGT-Rでもシルビアでもなく、BMWのE30型3シリーズを購入したのだった。


 ただ、これは若者の初めての車選びあるある話で、目先にある欲しい車を何が何でも手に入れてしまった結果、程度が悪く、車両価格は10万円もしないのに、修理で50万円も使う羽目になり、文字通り良い勉強代を支払う事となった。

 そして極め付けは4速AT車だったので、スポーツ走行にはとても向いているとは言えない車で、仕方なく街乗り用として使う事にした。


 その後紆余曲折あり、新車のRX-8に乗ったりもしたが、何故かしっくり来ず、すぐに手放してしまい、結局S13のシルビアをベース車として約10万円で購入し、まるでN1仕様かの様な状態にまで改造し、それから2年程その車で只管ひたすら車で走る事を楽しんだ。


 そしてその後、記憶が正しければ2007年の秋、自分はある決断をした。


 当時乗っていた愛車の日産 S13型シルビアを手放し、別の車を買おうとしていた。


 なぜそうなったのかは、思春期から憧れていた自動車レースへの思いがあったのと、それを実行できる経済力が身についた為であった。


 候補に上がり、そして購入したのはマツダのNB8型ロードスターだった。


 その車両をいわゆるN0(エヌゼロ)と呼ばれるナンバー付きの競技車両に仕立て上げ、自分はプロレーサーの登竜門の一角である富士チャンピオンレースの1カテゴリであるロードスターカップのNB8クラスへとエントリーをする事となった。



 今までただの走り好きだった青年の、プロレーサーとしての活動はここから始まった。



 ロードスターカップ参戦初年度の2008年、第一戦目のデビューレースは雨だった。

 エントリー枠45台を超えるエントリーがあり、予選落ちの車が出る中

 自分は総合16位、クラスポジション12位を獲得し、中段の前方に位置するポジションを確保し、決勝にも期待が持てる状況だったが、残念ながら激しさを増す雨の為、レースは予選のみで中止となった。


 とはいえ、望外のポジションに最初から付けた事は大きな自信となり、チーム一丸となって大喜びして家路に着いたのは今となっては良い思い出である。




 続く7月の第二戦、ついにドライコンディションでマシンのポテンシャルがはっきりとわかる状況になった。

 前回と同じ勢いで上位とまでは行かずとも、中団の前方のポジションを狙って予選に挑んだが、まさかの予選落ち。

 前回と真逆の展開にチーム一同愕然とし、失意のどん底で決勝レースを観客としてレースを観戦する事になった自分は友人に慰められつつ、接戦の見れそうなダンロップコーナーの見える場所へ向かい、ライバルたちの戦いを見てその日は一日を終えた。



 その後、これは本格的に対策を練らないとまずいと思い、すぐに対応できる練習量の増加でタイムの向上を図った。


 そのおかげか、次戦の第三戦では予選総合17位、クラス13位と言うポジションにつく事ができたが、クラスの順位で見ると後方から2番目と全く勝負になっていない。

 決勝では12位と一つ順位を上げてチェッカーを受ける事ができたが、上位の壁は果てしなく厚かった。



 その後に続く9月の第四戦、レインコンディションの為、第一戦の様な活躍が期待できたが、第一戦と違い、ヘビーウエットでは無かった為、経験不足も加わって予選では総合45台中35位、クラスでは13位とまたしてもクラスでは後方から2番手の位置で決勝を争う事になった。



 そして迎えた決勝、雨足が強くなり、ヘビーウエットになった事で自分に有利な状況になってきた。

 これは期待できると思いつつ、手当たり次第周りの車をオーバーテイクしながら走った結果、総合15位、クラス11位と入賞こそ逃したものの、大きく順位を上げてチェッカーフラッグを受けた。

 前回、前々回、そして今回の予選と散々な結果を受けて、自信を失いかけていた自分だが、何か歯車が合っていないだけで決して遅い訳ではないと言う事が分かり、大きな自身に繋がった。この大逆転劇がなければ参戦一年目でレース活動を終了していたかもしれない。

 それ位自分にとっては大きな自信になる一戦だった。




 参戦2年目、ツインリンクもてぎへと戦いの場所は移る。

 ロードスターカップの主催者が富士以外でもロードスターカップを普及させたいと言う目論見で別のサーキットでの開催を試みた結果、ツインリンクもてぎがその舞台となった。


 参加台数は合計10台と少なく、前日のテストでは他の車両よりも良いタイムを出せていたと言う情報を掴んでいた為、今度こそドライのレースでも良い結果を出せるのではないかと思い、果敢に挑戦したが結果は予選で総合10位中8位、クラス7位中7位のビリッケツ。


 決勝では下位クラスのNA6とつば迫り合いをする格好かっこうとなり、明らかに自分が遅いのがはっきりとした。

 ただ、相手のバンパーを押す直前まで接近してのドッグファイトをこれまで幾度となく経験してきており、この頃から車両に何か問題があるのではないかと疑い始めた。


 レースが終り、帰宅してからオンボードカメラの映像を見てみると、自分の車の問題がはっきりとわかった。


 エンジンが異常に遅いのだ。


 コーナーのアプローチからクリップにかけて、先行車のテールに吸い込まれる様に追い上げてもその後の加速で置いていかれる。

 スリップストリームに完全に入っているのに格下のNA6クラスのマシンに置いていかれると言う事はエンジンのパワーが劣っている事は明らかで、これでNB8クラスの車とまともに戦える訳が無い。


 そこで、エンジンに関するレギュレーションを確認したところ、0.25サイズのオーバーサイズピストンを使用できる点に気がついた。


 つまり微量ではあるが、排気量を拡大できるのだ。

 それであるならば、排気量を上げたエンジンを作るのが一番だと考えたが、当時のコーチはそれを良しとせず、ひとまず酷使されていない同型車の低走行距離エンジンを中古で見つけ出し、それを載せて戦うべきだと指導された。

 実際、その方がコストも1/5で済む為、いわゆるコスパの良い選択となるからと言う理由であった。


 その後、エンジンを積み替えて2009年中は練習走行に励み、2分13秒台だったラップタイムも非公式(自己カウント)タイムで2分10秒台前半に入る様になり、いよいよクラス中団での戦いに身を投じられる様になってきた。


 今まで相手にされなかった車に追いつける様になり、レースが本格的に楽しくなってきたのも、プロ意識が明確に出始めたのも、所属チームに就職したのも確かこの頃だったと思う。


 コーチからは常にプロ意識を持って取り組め、まずは自分の頭で考えてタイムを更新してみろと指導され、ひたすら禅問答ぜんもんどうのごとく、富士スピードウェイのラップタイムを縮めるにはどうしたら良いのか考える日々が加速していった。



 そして明くる2010年、再挑戦の年として3月に開催されるロードスターカップ第一戦へ再度エントリーをした。


 だがエンジンを載せ替えたからと言って容易に勝てる戦いではなく、予選は25台中17番手、クラス順位は16位中12位と、少なくとも良いポジションと言える場所には入れなかった。


 しかし、予選と同じく晴れ、路面状況ドライの決勝レースでついにクラス9位と言う、シングルポジションでのチェッカーフラッグを体験する。


 遂にここまできた!チーム全体が盛り上がった。

 上位6位以内のポイント圏内が見えてきただけに、喜びは大きかった。



 所属チームに就職し、名実共に企業所属のプロレーサーとなったのもこのタイミングだった。



 次戦の第二戦は大きな展開も無かったのでここでは省略する。


 2010年7月、ロードスターカップ第三戦、ここで初めて自分は大きな成果を出す事に成功する。

 予選で総合23位中7位、クラス13位中4位を獲得したのだ。

 初めての4列目からのスタート。テンションが上がらない訳が無い。

 なんとしても表彰台を狙いたかった。そしてその意気で決勝へ望んだ。


 だが現実は厳しく、決勝は1つ順位を落とした5位でチェッカーフラッグを受けた。

 だが、これで人生初ポイントを獲得する事ができ、更なる自信に繋がった。


 その後第四戦目のレースはクラス6位でフィニッシュし、クラス中位の少し上位に居る事が定番になってきた。




 そして2011年。

 勝負の年がやってきた。

 5月、富士チャンピオンレース第二戦、ロードスターカップ第一戦。

 ここで自分は遂に予選総合23位中5位、クラスランキングでも5位を獲得し3列目のグリッドからスタートになった。遂に自力での表彰台が見えてきた。


 スタートも俄然がぜん気合いが入り、少なくとも4位には入れたレースだったが、スタート前のグリッド上の作業違反でピットスルーを余儀なくされ、クラス最下位に終わる苦いレースとなった。


 6月、第二戦、晴れ、ドライ。

 予選総合6位、クラス5位。

 決勝クラス7位。


 9月、第三戦、雨、ウエット。

 予選総合11位、クラス4位。

 決勝クラス・・・2位!!


 九月のレースは富士のよくある荒れた天候の中でのレースだった。

 幸いにも自分の得意とする雨のレースと言う事もあり、スタート前から虎視眈々こしたんたんと表彰台を狙っていた。

 レース展開は想像通り荒れに荒れ、ウォータースクリーンで視界が遮られる中チキンレースを全員がやっていた。

 その中で3位の車が前走車に追突をした事でペナルティを課せられ、順位が落ちた事で3位で決勝をフィニッシュした自分が繰り上げで2位となり、チームは1−2フィニッシュを飾った。

 チームとしても初めての経験で、雨の中みんな大はしゃぎで家路に着いた記憶がある。


 10月、最終戦、曇り、ドライ。

 予選総合15位、クラス9位とふるわない結果に終わった。

 だが、決勝では本気の追い上げで上位2台のベストラップを上回るタイムを出しながら周回を重ね、最終的に5位でフィニッシュする事になった。

 ただ、このレースは消耗したトランスミッションのオーバーホールが間に合わず、そのまま出走せずを得ない状態で出走した結果、最後にダンロップ先のショートカットコーナーで後続車にシフトミスからパスを許してしまい、本来4位に入れていた所を5位で終えた非常に悔しいレースだった。




 累計4年間の活動中、シリーズランキング最高位5位、表彰台2位1回、累計取得ポイント……資料の散逸により不明。




 エッセイと言うよりも手記に近い内容でしたが、お楽しみ頂けましたでしょうか。

 アマチュアのスポーツ走行愛好家がレースの世界に足を踏み入れ、途中からプロとして活動する事になるとは自分でも夢にも思っていませんでした。


 今でも可能ならまたサーキットへ戻りたいと思います。

 あのライバルたちとの接戦、いつになっても忘れられません。

 どのレースも自分の大切な思い出です。


 この世に生まれて、この世界に自動車があって、そしてモータースポーツが存在して、本当に良かった。

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