第四章『巡る人』

「今日は暑いけど、本当に大丈夫?」

「水も持ったし大丈夫よ」


 玄関で娘にそう答え、家を出た。

 七五歳を過ぎてから、家族が私に対してあれこれと心配を口にするようになった。道に迷ったら大変。転んで怪我でもしたら大変。

 その心配は優しさからくるものなのはわかっているけれど、少しだけそれを重く感じている。

 だから散歩に出る。


 この町でずっと生きてきた。昔のことを思い出しながら歩く時間が、重荷を少しだけ軽くしてくれる。


 今日は山道を歩くことにした。若い頃、夫とよく歩いた道だ。

 春になると美しい桜が咲く。

 きれいだな、と毎年夫は言っていた。口数が多くない人だけど、そのぶん短い言葉の中に感情が強く滲む人だった。

 その頃は、こんな風に一人で歩くことになるなんて思ってもいなかった。ふたりの時間がずっと続くものだと甘い夢をみていたのだ。

 夫は数年前に亡くなった。最後は介護が大変だったけれど、今となってはそれも懐かしい。

 山道で若い男性とすれ違った。うつむき加減で歩いていたが、こちらに気づくと軽く頭を下げた。私も会釈を返す。


 家に帰ると、娘が心配そうに迎えてくれる。


「迷わなかった?」

「何に?」


 私の返答に娘は首を傾げる。

迷いのない人生というのは、退屈だ。

 でも、わざわざそれを言葉にすることはしない。


 翌日も、散歩に出る。

 住宅街を抜けて、畑の間を通る細い道。昔はもっと畑が多かったけれど、今は住宅が増えている。

 道の途中に古い自販機があり、中年の男性がその横にしゃがみ込んでいる。疲れているような、考え事をしているような様子だった。

 私はゆっくりとその横を通り過ぎる。男性はちらりと私を見たが、何も言わない。私も何も言わない。でも、なんとなく声をかけてみたい気持ちが胸に残る。


 山道ですれ違った若い男性。自販機の前でしゃがんでいた中年の男性。みんな、それぞれの日常を生きている。

 そう、生きているのだ。

 明日も散歩に出よう。

 歩ける道はまだたくさんある。

 歩ける限り、歩いていこう。

 それが生きていくことだと思うから。

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循環と町 三角海域 @sankakukaiiki

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