第5話 足跡

 そして、ハッとした。


 たしかこの火星の砂、友人に分けてもらったとかいう貴重な試料なはず。


 それをなぜか先生は机上に広げた。余分な物質が混ざることも厭わず、僕の前に広げたのだ。


 なぜそんなことを、なんて考える暇もないまま、僕は自分がつけた指紋を消そうと手を伸ばす。


 しかし、その手はいつもの数倍嬉しそうな田沼先生によって阻止されたのだった。


 先生はうんうんと何度も頷きながら、僕に向き合う。


「やっぱり、成田くんは宇宙飛行士になりたいんですね」


「やっぱり、って……」


「君はいつも私の授業を一生懸命聞いてくれているが、今回の単元、ことに惑星の話になった途端、目をぎらつかせて真剣に聞いているから、もしかしたらと思ってたんですよ」


「え、ああ……!」


 そんなにわかりやすくしていただろうか。それも目をぎらつかせていたなんて。いやでもたしかに、無意識に口角を上げたり、食い入るように見つめたりはしていた気がする。


 恥ずかしがる僕に田沼先生は声を出して笑いながら、手に何かを包ませてくる。


 開いてみれば、それは火星の砂が入っていた容器であった。


「この砂は君にあげよう」


「えっ⁉︎ いやいや、もらえませんよ! こんな貴重なもの……!」


「いいんですよ、私はまだ持ってるからね」


「でも……」


 大切な試料だったのに、そんな簡単に一生徒に手渡していいものなのか。それも、各国で研究が進められているという貴重な砂を。


 納得がいかず渋る僕のことは華麗にスルーし、先生は鞄を指さして「それに」と付け加える。


「どのみちこの机の上じゃ、進路希望の紙が書けないでしょう」


 ——そうだ、進路希望の紙。谷先生に明日までに書いてこいと跳ね返された、僕の紙。


 僕は指紋のついた砂と鞄とに視線を交互に移し、ようやく臍を固めた。


 さらりと触れて火星の砂を容器に収め、パッと取り出した紙とペンが机上に躍り出る。


 一番上の項目、「就きたい職業」。


 僕を覆っていた黒いモヤも煤も、縛り付けていた接着剤ももうない。


 だからか、ペン先が迷うことなく文字を刻んでいく。


 持つ手は少し震えていたけれど、それはきっと未だに爆ぜ続けている心の振動のせいだ。


 カツ、と最後の一文字を書き終わる。ほう、と息の塊をはく。


「宇宙飛行士」。


 田沼先生はその文字を見て、ゆっくりと頷いたように見えた。


 やはり改めて見ても壮大な夢だ。僕からは程遠いように見える。


 ——時に、宇宙空間は地上から百キロメートルの距離からそう呼ばれるそうだ。


 具体的にいえば、東京駅から栃木県の宇都宮市までの距離がそれである。


 そう捉えれば、数時間電車で揺られた先に宇宙が広がっているのだ。宇宙はぼくのそばに雄大に存在している。


 それなら、手を伸ばせば僕にも夢は掴めるだろうか。宇宙飛行士の狭き門を潜り抜けられるだろうか。


 自分に自分で問いかける。当然答えは返ってこない。


 それならば、数年後に答え合わせをしよう。


 足跡を刻んだその瞬間に。


 舞台はもちろん、未踏の惑星で。








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火星の砂 明松 夏 @kon_00

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