湖畔の幻影

をはち

湖畔の幻影

網下宅也、22歳。ネトゲに没頭する一方で、自身を「アウトドア派のゲーマー」と称する男だ。


都会の喧騒を離れ、1週間の休暇を手にすれば、決まって山や川へと足を運ぶ。


今回の目的地は、深い林の奥にひっそりと佇む湖だ。


透明な水面がキラキラと陽光を跳ね返し、自然の美しさがあふれている。ここは、テントを張るには申し分のない場所だ。


湖の水は透き通っていたが、さすがに飲む気にはなれなかった。


それでも、他のキャンパーたちはそこで釣った魚を焚き火で調理し、楽しげに談笑している。


だが、宅也にはそんな悠長な時間はない。


食事はレトルトのご飯にカレーをぶっかけるだけ。


手早く済ませ、すぐにスマートフォンを手に取る。


SNSに投稿し、ネトゲのログインボーナスを回収し、仲間からの救援要請に応じる。


焚き火の揺らめく炎を背景に写真を撮り、即座にアップロード。


多忙なルーティンを繰り返す。


湖畔には、どこからともなく野良猫たちが集まってくる。


人慣れしたその仕草に驚く間もなく、理由はすぐにわかった。


キャンパーたちが釣り上げた魚を気前よく分け与えているのだ。


宅也も負けじと、持参したチュールを手に猫を引き寄せる。


映える猫写真を撮るには、チュールはもはや戦略アイテムだ。


愛らしい姿をカメラに収めてSNSに投稿すれば、瞬く間に「いいね」が雪崩のように押し寄せる。


満足感に浸りながら、夜はスマホで動画を眺め、気づけば朝を迎えている。


ある朝、目を覚ますと、すぐ隣に新しいテントが張られていた。


そこにいたのは、息をのむほど美しい女性だった。


長い髪が風に揺れ、どこか儚げな微笑みを浮かべている。


彼女はキャンプ初心者だと言い、慣れない環境に心細さを覚えるらしく、宅也の隣にテントを張ったまま留まりたいと告げた。


「邪魔でなければいいけど」と軽く答えた宅也は、特に気にも留めなかった。


彼女が話しかけてきても、ゲームやSNSの投稿に忙しく、ぶっきらぼうに応じるだけだった。


「ねえ、どんなゲームしてるの?」


「この湖、きれいだよね」


彼女の声は穏やかだが、宅也にはそれがわずらわしかった。


ゲームのクエストが佳境に入り、SNSの通知が鳴り止まない。


彼女の存在は、まるでノイズのように感じられた。


それでも、1週間が過ぎる頃、宅也の心に変化が生じていた。


彼女の姿が、なぜかネトゲの愛用キャラクターに似ていることに気づいたのだ。


柔らかな笑顔、物憂げな瞳。


ゲームの世界で幾度も眺めたその面影が、現実に重なる。


食料は底をつきかけていたが、宅也は滞在を延ばしたい衝動に駆られていた。


その夜、焚き火の前で彼女が口を開いた。


「人間の情は浅いね」


彼女の声は、まるで湖の底から響くように低く、冷たかった。


「現実に生きてさえいないのに」


宅也は一瞬、凍りついた。


彼女の言葉が胸に突き刺さる。


見上げると、彼女の姿が闇に溶けるように揺らぎ、ゆっくりと変貌していく。


次の瞬間、そこにいたのは黒い猫だった。


金色の瞳が、まるでこちらを見透かすように光っている。


突然、宅也の手元のスマホから猫の鳴き声が響いた。


驚いて画面に目をやったそのとき、黒い猫の姿は跡形もなく消えていた。


湖畔の静寂を破るように、どこからか声が聞こえた。


「現実に戻れ」


それ以来、宅也がスマホを手に取るたび、どこからともなく猫の鳴き声が聞こえるようになった。


画面の向こうに彼女の姿を追い求めるが、そこにあるのはただの光とデータの集まりだけだ。


湖畔の幻影は、宅也の心に永遠に刻まれ、消えることはなかった。

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