第19話

 ユキが人間の姿にならない――

 ただそれだけのことで、俺の心はほんの少しだけ落ち着いていた。


 目の前には、いつも通りの猫の姿のユキ。


 ふわふわの白い毛並み。

 つぶらな瞳。

 ピンと立った耳。


 そのすべてが、俺にとっては癒しであり、罪だった。


「……ユキ、ごめんな」


 しゃがみ込み、猫じゃらしを手に軽く振ってみる。


 ひら、ひら。


 かつてなら、目を輝かせて飛びついてきたはずの動き。


 でも今は、ユキはまるで、ただの置き物のように微動だにしない。


 まっすぐにこちらを見つめるその瞳からは、 好奇心も、遊び心も、甘えも、すべてが消えていた。


(……そうだよな。俺が、全部……無視したから)


「ほら、これも好きだったよな」


 今度はネズミ型のおもちゃを取り出す。


 ピカッと光り、不規則に動く。


 前は狩りモードになってたアイツ。 ……なのに。


 ユキは、一切動かない。 ピクリとも、反応しなかった。


 その無表情に、心臓がギュッと締め付けられる。


 俺はゆっくりと、手を伸ばした。


 もう一度、撫でてみたかった。

 もう一度、あの体温を思い出したかった。


 ――けれど。 俺の指先が、ユキの白い毛に触れそうになった。


 その瞬間。


「――ッ」


 ユキは、すっと立ち上がると、何の音もなく俺の手から逃げた。


 ぱた、ぱた。

 軽やかな足音が遠ざかっていく。


 その背中に、俺はただ呆然と手を伸ばしたまま動けなかった。


 心が、遠い。


 ユキの背中が、こんなにも遠く見えるなんて。


 ほんの数歩しか離れてないのに、どうしてこんなにも。


「……手遅れ、なのか……?」


 呟いた声が、やけに部屋の中で虚しく響いた。 俺の手の中には、動かない猫じゃらしだけが残っていた。


 ***


「ユキちゃんと仲直りする方法?」


 俺の言葉に望月さんは首を傾げた。


「なんで? あんなに仲良さそうだったのに」


 望月さんの言葉は俺の胸をチクリと刺激する。


「実は、最近あんまり構ってやれなくて。そしたら、拗ねられちゃったみたいで」


 俺はできるだけオブラートに包んで言った。

 望月さんは、黙って俺の話を聞いている。


「ふーん。で、今はどんな状態なの?」


「……毛繕いが止まらないみたいで、毛が薄くなってきたり……。俺の前では、ご飯も食べなくなっちゃって」


 その言葉に、望月さんの顔が少し曇った。


「そ、それってかなりストレス感じてるってことじゃないかな? 相馬くん、ユキちゃんに何したの?」


 俺はその問いかけに答えることができなかった。

 望月さんは小さなため息をついて言った。


「相馬くん、成長すれば仔猫のときみたいな可愛さは薄れるかもしれないけど、ユキちゃんはユキちゃんなんだよ。動物ってさ、人の気持ちに敏感だから。ぞんざいに扱われたら、ちゃんと伝わっちゃうよ」


 正論だった。だからこそ、言い返せなかった。


「……すみません。そういうつもりじゃなかったんですけど……」


 そうとしか言えなかった。

 本当のことなんて、言えるはずもない。


「この間、近づこうとしたら、逃げられちゃって……。もしかしたら、もう……、ユキは俺のこと嫌いなのかもしれません……」


 望月さんは俺の様子を見て、少し息を吐いてから、優しい声で言った。


「まずはね、ユキちゃんが安心できる場所を作ってあげて。狭い箱とか、タンスの上とか、そういう“隠れ家”になるような場所。そこにいるときは、無理に近づかないこと。ユキちゃんの方から近づいてくるのを、根気強く待ってみて」


 望月さんのアドバイスは優しくて、俺の胸にじんわり沁みていく。

 望月さんは俺の肩にそっと手を置いた。


「大丈夫。ユキちゃんは、相馬くんのこと本当に大好きだから。だから信じて、正直に向き合えば、ちゃんと伝わるよ」


「そう……ですかね……」


「うん! 私も野良猫3匹拾ったけど、ユキちゃんみたいにすぐに懐く猫なんて滅多にいないよ? それだけ相馬くんが真剣に向き合ってた証拠。自信持って!」


 俺は自信が持てなかった。

 先に拒絶したのは俺の方だ。

 なのに、またやり直したいなんて……。


「相馬くんが助けた生命でしょ? ユキちゃんだってそう思ってるよ。相馬くんのこと、“命の恩人”だって」


 ***


「命の恩人、か……」


 帰り道、望月さんの言葉がずっと頭の中を巡っていた。


 思い返せば、あのときユキを拾わなかったら、あの雨の中で、ユキはどうなっていただろう。

 だから、あんなに懐いてくれたんだろうか。

 もう、二度とひとりにならないように——。


 その夜も、ユキは「みゃあ、みゃあ」と鳴いていた。


 心に突き刺さるような寂しそうな声。


 いつもなら、布団を頭からかぶってやり過ごすところ。


“大丈夫。ユキちゃん、相馬くんのこと大好きだから”


 望月さんの言葉が俺の背中を押す。


「ユキ、どうした?」


 声をかけると、ユキはこちらをじっと見つめてくる。

 その瞳に吸い込まれそうになるくらい、まっすぐに。


 そして、ゆっくりと——まるでスロー映像を見ているかのように、ユキは一歩ずつ近づいてきた。まるで、近づいてもいいのかとお伺いを立てるように。


「ユキ、おいで」


 俺が両手を広げると、ユキは一瞬ためらったあと、ふわりと胸に飛び込んできた。


「みゃあ」


 その小さな鳴き声が、胸の奥を震わせた。


「ごめんな、ユキ」


 抱きしめたユキは、ふわふわで、あたたかくて、懐かしかった。

 ユキは俺の顔を、何度も、何度も舐めてくれる。


「……ありがとう」


 俺はユキの背中を優しく撫でながら、ぽつりと呟いた。


「ユキ、一緒に寝るか?」


「にゃあ」


 猫のユキと、こんなふうに添い寝するのは、この日が初めてだった。


 人間のユキとは違う感触。

 心が少しずつ溶けていく気がした。




 ⸻

ここまで読んでいただきありがとうございます。

この先どういう展開にしていこうか、模索中です。

続きを希望される方は、ぜひ★を押してお待ちいただけると幸いです。

(全然★が増えなかったら、このままフェードアウトするかもしれません……)

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雨の日に俺が拾ったのは仔猫――だったはずだが、なぜこうなった? 霧影 深月 @Micchy-lanD

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