第10話 女神と後輩

アクアは、いつものように神界の雲の上で大の字に寝転がっていた。白く、ふかふかとした雲は、まるで特注の高級ベッドのように彼女の体を優しく包み込む。太陽の光が、七色に輝くプリズムのように雲の粒子を透過し、あたりを幻想的に照らし出している。遠くには、黄金に輝く神殿の尖塔が、静謐な空気に満ちてそびえ立っていた。地上から吹き上げる風が、どこかの草原の匂いを運んでくる。


(エリスったら、最近真面目すぎるのよねぇ。いつもいつも、地上に派遣する魂の書類整理ばっかりで。もっとこう、パーッと羽根を広げて遊びに行けばいいのに。あの子、元々は地味で大人しかったのに、女神になってから余計に肩の力が入りまくってる気がするわ。そういえば、あの子が初めて私のところにやってきた時も…)


アクアの思考は、遠い昔の記憶へと滑り落ちていく。


それは、彼女がまだ、天界の新人女神だった頃の話だ。

アクアの宮殿の前に、一人の天使が緊張した面持ちで立っていた。その天使は、ひっそりと、まるでそこにいるのが申し訳なさそうに、小さな光を放っている。それが、のちの女神エリスだった。


エリスは、アクアの宮殿の前に立つだけで、全身から汗を吹き出させていた。緊張と畏れが混じり合った表情。


(ああ、ついに…憧れのアクア様の宮殿に…!天界に昇格して、ついに私も、あの偉大なアクア様のようになれるのかしら。でも…でも、アクア様の噂は、真面目な仕事ぶりよりも、その型破りな行動ばかりが聞こえてくる…。もし、お叱りを受けたらどうしよう。いや、でも、ご挨拶をしないわけにはいかない。私は、アクア様に認めてもらいたいんだ…!)


女神に昇格したばかりの喜びと、崇拝するアクアへの憧れ、そしてその噂から来る漠然とした「恐怖」が、彼女の心の中で激しくせめぎ合っていた。


アクアは、そんなエリスの内面の葛藤には気づかずに、にっこりと笑い、声をかけた。


「あら、ご挨拶に来たのね。ようこそ、私の宮殿へ。私の名前はアクア。あなたの先輩女神よ!」


その瞬間、エリスはビクッと体を震わせ、光の翼を震わせた。彼女の顔は、さらに真っ青になっていく。


(え、なんでそんなに怖がるの!?私の笑顔、そんなにヤバかった!?もしかして、私が笑顔で話しかけると、その魂を浄化されてしまう……みたいな、なんかとんでもない噂でも広まってるのかしら!?いや、そんなわけないか。よし、ここはもう、私らしく行くしかないわ!親しみやすさ全開で!)


アクアはそう決めると、エリスの緊張を和らげるため、彼女の肩をバンバンと叩いた。


「そんなに緊張しなくても大丈夫よ!もっと楽にしていいのよ!」


しかし、アクアのその行動は、エリスをさらに凍り付かせる。


「あの…アクア様、ちょっと…肩が…」


エリスはか細い声でそう言うと、静かにその場に座り込んでしまった。


アクアは首を傾げた。


(あれ、おかしいな。普通、肩を叩かれたら『ありがとうございます!』って笑顔になるんじゃないの?なんで座り込んじゃうのよ?もしかして、私のパンチ力、女神にまで効果があるのかしら!?いや、そんな馬鹿な…!)


結局、アクアの「親しみやすさ」は、エリスの「緊張」をさらに増幅させるだけだった。その日から、エリスはアクアに対して、畏れと、ほんの少しの呆れを含んだ、独特な「ベクトル」を向けるようになったのだった。


そして、現在。


「……ま、いっか!エリスもいつか、私のこの自由な女神っぷりの良さに気づいてくれるはずだわ!あーあ、地上もそろそろ飽きてきた頃かしら?そのうち、私も地上に降りて、大暴れでもしてやろうかな〜」


アクアは楽しそうに笑った。その笑顔は、相変わらず無邪気で、そして少しだけ、後輩の心をかき乱す「悪意」を含んでいるようにも見えた。


---


ふと、アクアは眩しさに目を覚ました。

眩い光は、神界の太陽ではなく、窓から差し込む朝日に変わっていた。


「……なんか、懐かしい夢を見ちゃったわね」


アクアは寝ぼけ眼で呟いた。

横には見慣れたパーティーの面々が、静かに寝息を立てている。カズマは相変わらず布団を奪い、ダクネスは寝言で何かを叫び、めぐみんは爆炎の夢でも見ているのか、にこやかな顔で眠っていた。


アクアは、この騒がしい日常こそが、夢で見た昔よりも、ずっと面白くて、愛おしいものだと感じていた。


「ま、今日もカズマに絡んで、あいつの面白い顔でも見るとしますか」


アクアはベッドから起き上がり、いつもの日常へと足を踏み出していく。夢の続きを生きるように。

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