断章「星に還した想いたち」

piman

星に還した想いたち

「今日は、いつもより人が少ないですね…」


図書館の受付で、いつもの給仕服に身を包んだ司書・ノエラがぽつりと呟いた。

ここ最近は天候が優れず、雨が降り続いているせいか、来館者の足も遠のいている。


そんなとき、ノエラは配架前の仮整理や完結を迎えた本が置かれている棚を、気まぐれに眺めることにしている。

今日もその棚に向かい、並んだ背表紙の中から一冊をそっと引き抜いた。


本を開くと、以前にも目にしたことのある章題が並んでいた。

その中で最も新しい章の見出しには「星に還した想いたち」と綴られている。


この章には、どんな物語が、どんな想いが、どんな言葉が記されているのだろう。

ページを開く前から、静かな期待が胸の奥に広がっていく。


ノエラは椅子に腰掛け、本に刻まれた誰かの時間を、ゆっくりと旅し始めた。


────


小さな浜辺に、私は一人で立っていた。

もう何度目かわからないこの場所に、今日は多くの荷物を背負ってやってきた。

白すぎず、けれど黒くもない砂。乾いた流木が一本だけ、まるで何かを見守るように佇んでいるこの浜辺に。


ここへ来る道のりは、大して困難ではなかった。

けれど、ところどころ未舗装で、草が道を覆っていたり、石に足を取られかけたりもした。

少し転びそうになりながら、それでも、なんとかここまで辿り着いた。


そんな場所だからこそ、ここに来たときには、いつも私たちだけだった。

まるで二人だけの秘密基地。

あの頃は、そんなふうに思えた。


海は驚くほど静かだった。

漣というにも届かないほど、鏡のように穏やかで。

日が落ちたあとの空に瞬く星々が、海面の上にも映っていた。


目の前に広がる光景が、私のことを優しく見守ってくれているかのようで、ふと、こんな言葉がこぼれた。


「きれいだな……何度も来たけど、こんな景色は初めてだ」


この星たちひとつひとつには、名前がある。

星座のように、線で結ばれただれかの物語もあれば、ひとつだけで静かに瞬いている、名もなき星もある。

あるいは――この世を旅立っただれかが、大切な誰かを見守るまなざしかもしれない。


背負ってきた荷物をそっと下ろす。

中には、言葉にならなかった手紙を詰めたもの、かつて指元に光っていた小さな飾りを封じたもの、いくつもの想いが込められた、小さなボトルシップたち。

どれも全部、この場所で受け取った“想いたち”。

あのとき言えなかった「ありがとう」や「好きだよ」の言葉。あるいはもっと別の願いや後悔。

そのひとつひとつに、君と過ごしたあの季節の風景や交わした言葉の数々が、記憶のかけらとして沁みついている。

私は、そっと目を閉じて――思い出す。


春。

どこからか風に乗って舞い落ちる桜の花びらが、ふたりのあいだをひらひらと横切った。

この浜辺で出会ったあの日。その朝の白い光のなかで見た君の笑った顔が愛しくて。

君と一緒にいる未来を、少しだけ想像した春に。


夏。

痛いくらいに照りつける陽射しに笑い合いながら、海辺で水を掛け合った。

砂浜に書いたちょっと恥ずかしい言葉たちも波に攫われていく姿に苦笑したりして。

濡れたシャツに焼けた肌。たわいもない会話の余韻がいつまでも残っていた夏に。


秋。

夕陽が、静かに影を伸ばしていた。

「寒くなってきたね」の言葉の合間に、会話がふと止まった。

沈黙が、少しだけ長く感じられた。橙色に染まる海辺に立つ君の影がわずかに揺れながら、遠くに溶けていくように見えた秋に。


冬。

夜の澄んだ空気の中で雪がしんしんと降るなか、白い息は空に溶けて、君の顔が雪の向こうで輪郭を失っていった。

静まり返った海の前で、互いになにも言わず、ただ寄り添って立っていた。

発した言葉は雪に飲まれ、触れ合うほどに近くにいるのに、その白さが少しずつ君を遠ざけていくように感じた冬に。


──そして、今。

その想いたちを、ボトルに詰めて潮の道へと送り出す。

この浜辺から始まった、あたたかくて、確かにそこにあった日々たち。

たとえ今は隣にいなくても、あのとき感じた気持ちは、ずっと消えないから。


だからこそ――この海から還したかった。還すべきだったんだ。


悲しいか、寂しいかと問われれば、答えはきっと「少しだけ」。

でもそれは波のように激しいものではなく、この水面のように、ただ静かに広がっていく感情だった。


私はカバンから、ボトルを取り出していく。

手にしたボトルが重く感じたのは、私の心が、まだためらっていたからだろうか。

それらを抱きかかえて波打ち際へ。ひとつずつ、誰かの背を押すかのように優しく海へ送り出していく。


「沖まで届きますように」


そう願いながら。


触れた指から伝わる冷たさが、今の私にはどこか心地よかった。

──いつかこの想いたちも、どこかで星になれたのなら。

そんなことを思いながら、私は最後のボトルを水面へと浮かべた。


鏡のような海にも、かすかな潮の流れがあるようで——

その流れに背を押され、星の海へと旅立っていくボトルたち。

海は何も言わず、けれど、すべてを受け入れてくれるかのように、ボトルたちはゆらゆらと漂いながら、少しずつ沖へと流されていく。

私はその夢のような情景を、ただ黙って見送った。


「もしまた、この場所で逢えたのなら、そのときは――」


「もう一度受け取りに来るから」


そう口にした瞬間、海面に広がった波紋が、自分の胸の奥にも同じ形を描いた気がした。

私はちゃんと君に「ありがとう」や「じゃあね」って言えたのだろうか。

きっとそれだけでは足りなかった。

形を持たないまま留まり続けたその想いが、今の私をここへ導いたのだと思う。


目の前に広がるのは、空と海の境界がほどけた一面の星空。

その景色に水平線はなく、どこまでも続いているようだった。


感謝とも、寂しさとも、今の私にはまだ言い表せない。

けれど確かに、いくつもの想いと、小さな区切りを胸に抱えて――。


────


「……なんだか、胸がきゅっとしますね」


そんな言葉が、そっと零れ落ちた。


読み終えた今も、まだ潮の匂いが残っている気がした。

見送られたボトルたちは、彼にとって区切りであり、祈りのようにも感じられた。


この本は、まだ物語の途中にある。

先に続くページには、今も新たな時間が綴られ続けている。


次にこの本を開くとき、それは新しい章が完結したときか、あるいは物語が静かに幕を下ろしたときか。


ノエラはそっと本を閉じ、背表紙を撫でる。

指先に残るのは、まだ誰かの時間の温もりだった。

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断章「星に還した想いたち」 piman @piman22

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