第2話 光

 見慣れた学校、見慣れた教室、見慣れないクラスメイト。

 しばらくの間ひっそり社会の陰で生きてきた人間にとって、たかだか四十人といえども人前に出ることはやはりハードルが高かった。始業式で、校長先生お決まりの新年度及び新学期の挨拶を聞くことの方がまだ気が楽に思えるくらいには。

 誤解がないように言うが、集団が怖いとかそういうのではない。それ以前に、自分以外の他者と向き合わなければいけないという、その事象が既に障壁だったのだ。

 しかし、始まるものは誰を待つもなく始まる。気づけば私たちは再び教室にいて、自己紹介をはじめ、諸連絡を聞いて解散となる。次の日にはテストがあり、また次の日には委員会員決めなどがあり、次の日には授業が始まる。小中学校ならば学級目標を決めるだとか、レクリエーションがあったりするのだろうが、それに比べ高校なんてドライなものだ。悪く言えば、他者との関係構築なんて自分でやれ、ということだ。ああ、わかっているとも。

 ところで、世の高校生は一日の時間の流れをどう感じているのだろうか。私にとっては、二十四時間はあまりにも早い。学校にいる八時間なら、尚更だ。あれよあれよという間に時間は過ぎていき、それが積み重なり、一週間、一か月と経っていく。

 よく「楽しい時間はあっという間だ」と言われる。確かにそうなのかもしれない。が、それは十分条件でしかない。私のとってこのひと月は、波に乗り切れないままに過ぎていった、特段楽しいも辛いもない時間だった。「ああ、経っちゃったの?」というのが正直な感想だ。

 だがその気づきは、次第に焦りを生み出す。もとより周りと状況が違うのだ。これが続くようでは、やはり孤独の中にいることに変わりはなくなる。それがどれだけ辛いことか知っているからこそ、せめて学校内くらいは孤立を避けたかった。

 だから、今目の前にいるこの存在は、哀れな私への神様からの贈り物なのかもしれない。

「なあなあ千華~、今日も勉強教えてな~?」

 背の低いテーブルの向かいに座る、一人の女の子。肩までかかるウェーブのかかった髪。縁の赤い眼鏡と、その奥のおっとりした垂目。のんびりとした口調。私のとっては、このクラスで初めてできた友達。

「ん~?どしたん?」

 九十九光。その人であった。

 今度はテーブルに身体を寄せ、下から覗き込むように私の顔を見る。

「……ううん、どうもしないよ。さ、始めようか」

「ふふ~ん、あいあ~い」

『神様からの贈り物』と思える存在というのは稀有なものなのではないだろうか。いや、そうに違いない。これまでいろいろな人と関わってきたが、一カ月も経たない間にそう思えるようになった人は他にいない。

 ではなぜそう思えるかだが、これについての説明は、今の状況とその背景を並べるところから始めよう。

 一、彼女=九十九光と、私=早川千華は、今年度初めて同じクラスになった。

 二、光と私とは、それまで一切の関係がなかった。

 三、光と私とは、席が隣だったこともあり、よく話すようになった。

 四、そんな私たちが今いるのは、私の部屋である。

「あ、ちょっと喉乾いたかも。冷蔵庫のアップルティー貰うで~」

 ……五つ目追加。彼女は、私の家のことを覚え始めるくらいには、私の家に入り浸っている。

 つくづく不思議なものだし、驚きすら覚えている。

 彼女の方から関係を始めてくれた。どぎまぎしていた私を優しく待ち、それに合わせて彼女もゆっくりと話してくれた。私が一つ上であることにも動じず、焦らず、ゆっくりと、着実に関係を構築する。そんな環境を、彼女の方から提示してくれた。

 学校に行けば声を交わし、ご飯も一緒に食べるようになり、授業でも二人組を作ることが多く、気づけばラポールは十分形成されていた。

 ここまでならよくあることだ。が、彼女に関してはおまけがあった。私が学校にいるとき、ほとんどの時間を彼女と過ごしている。つまり彼女もまた、ということであり、それは逆説的に、私と彼女とが、それ以外の人との関係を持つ時間が少ないということを意味する。しかも、ある程度の頃から、私の家に上がり込むようになった。理由を聞いても「いいやんか~?」としか言わず、実際上がってきても悪いようにはしない。私に拒む理由はなく、そうしているうちに今に至る。

 人の家の冷蔵庫を開け、お目当ての品を見つけては心底嬉しそうに口を綻ばせる光の姿を眺める。

 本当に不思議だ。だが、同時にありがたいことに変わりはない。

 だって、少し前までこんなこと考えられなかったのだ。

 私にとっての世界はこの部屋だけで。

 住人は、私だけで。

 他の、誰も――。

(――……ッ、……)

 瞬間、心臓が握りつぶされるような感覚に襲われる。同時に、脳裏にはいないはずの人の姿が蘇る。

 聞こえないはずの声が、ぼんやりと聞こえる。何を言ってるかわからないが、私に向けられた怒声であることはわかる。捲し立てるような力強い声は、私の身体を硬直させる。

 汗が滲む。動機がする。呼吸が浅くなる。そのうち身体が小さく震え始める。

 脳裏だけにいた人は、光の姿にとって代わり。

(嫌……ッ、嘘……!)

 その視界に私を捉えると、徐々にこちらに近づいてくる。

 ぼんやりとしてた声も、よくわからなかった顔も、近くなるにつれ明瞭になる。

 ――ああ、その声は、その顔は、忘れたくても忘れられないもの。

 優しく慈愛に満ちたそれも知っているが、今この瞬間には、そんなものは欠片も感じない。

 怒り、憤り、無力感、抵抗感、嫌悪、羨望――。

 自らでコントロールできなくなったそれらの感情をぐちゃぐちゃにかき混ぜて塗りたくったような表情は、直視するにはあまりにも醜い。

 ゆらゆらと手が伸びる。私の首元をめがけて。

 逃げたい。しかし身体が動いてくれない。

 思わずぎゅっと目を閉じる。が、次に私に訪れた感覚は、首元からではなく。

「……千華」

 こちらもぎゅっと握られた両の拳を、優しく包み込むような感覚。少しひんやりするが、その奥に暖かさが感じられる。

 ゆっくりと、うっすらと目を開くと、そこには光の顔がある。今度は、私を見下ろすように。

 ――すっと、力が抜けていく。

 先程まで見えていたものも聞こえていたものも、今はない。ただ、唯一の友人の存在があるのみ。

「……また怖い顔しとるよ」

 心配そうに、そしてどこか悲しげに、光は言う。申し訳なさを感じつつも、私は謝るので精一杯だ。

「……ごめんね。わかってるんだけど、どうしても、ね…………」

 よくないよくない。振り向くよりも前を向くと決めたのだ。忘れろ、水に流せ。

 もう一度目を瞑り、頭を振る。終わったころの光は、まだ心配そうだったけれど。

「――うん、もう、大丈夫」

 そんな私の言葉に、少しの空白の後。

「――ん、大丈夫そうやね」

 再び、おひさまみたいな笑顔を浮かべる。

「アップルティー、千華も飲む?」

「って、それはもともと私のなんだけど?」

 笑い声が響く。私の家で、私以外の。

 それはとてもありがたいこと。とても嬉しいこと。

 間違いなく、状況はよくなっているのだ。やり直しの一年としては、まずまずのスタートだったと言えるだろう。

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