机上の人

Θ記号士Θ

机上の人

 ふと今日は何日だったのだろうかと思い、私は机の上の卓上カレンダーの方に目を向けた。私はしばらくカレンダーを見つめ、今日の日付について考え込んだ。今日の日付をカレンダーから知るには、第一に今週が今月の第何週に当たるのかということがわからねばならない。第二に今日の曜日がわからねばならない。この二つの事柄をカレンダーの上で重ね合わせて初めて今日の日付がわかる。

 今までにこの事実を誰かから教わっただろうか。あるいはこのカレンダーを買った時、取り扱い説明書にそう明記されていたのだろうか。そもそもカレンダーに取り扱い説明書などあっただろうか。いつの間にか、無意識にカレンダーとはそのような使い方をするものだと思い込まされていたのだろうか。

 とにかく私には今月が何月であり、今日が何曜日であるかということがまるで思い出せない。それゆえ、いくら卓上カレンダーを眺めてみたところで今日の日付がわかる筈はなかった。第一、このカレンダーに示されている月が正しいかどうかということさえ私には確信が持てない。さらにはこのカレンダーが今年のものであるのかどうかも疑わしくなってくる。カレンダーをよく見てみると表面は黄ばんでいるし、細々とした書き込みはかすれてしまってほとんど判読不可能になってしまっ

ている。

 私は今日の日付を知るために別の方法を考えなくてはならなくなった。今日の日付を知るためには昨日の日付がわかれば良いのである。約三十分の一の確立で昨日の日付に一を加えれば今日の日付は計算できる。この法則が成り立たなくなるのは昨日がその月の最終日であった場合に限られるが、この場合は少し厄介な事になる。一ヶ月の日数は二月を除けば三十日か三十一日かのどちらかになるが、仮に昨日が

三十日であった場合、今日は三十一日である可能性もあるし翌月の一日である可能性もある。三十一日まである月は一月、三月、五月、七月、八月、十月、十二月の七つの月であることはわかっている。昨日が仮に三十日であった場合は昨日が何月であったかということもわかっていなければならないということになる。

しかしそれはまだいい。一番困るのは昨日が二月の二十八日であった場合だ。このとき今日が二月二十九日である場合と三月一日である場合の二種類があり、それぞれの確率は大雑把に考えると前者が一に対して後者が三の割合となる。二月に二十九日があるのは四年に一回、その時の西暦が四で割り切れる場合である。ただし四で割り切れる場合でも丁度百で割り切れる場合は二十八日までとなり、又百で割り切れてもさらに四百で割り切れる場合は二十九日までとなる。つまり昨日の日付から今日の日付を知るには、昨日の日付のみでなく西暦何年の何月であったかということまで知らなくてはならないという事実に行き当たった。

 ここまで考えて私は唖然とする。昨日が何年であり、何月であり、さらに何日であったかということを絶えず覚え続けていられる人がいったいこの世の中に何人いることだろうか。いや、とてもそんな人が存在するとは考えられない。もしそうであるなら、今日が何日であるかは誰に聞いてもわからないのではないだろうか。こうなってくると今日の日付が存在するということ自体が疑わしくなってくる。

 そもそも昨日とはいつのことを指すのだろうか。本当に昨日という日は存在したのだろうか。仮に昨日なる時間が存在していたとして、その昨日この机に座っていた私にとっては、やはり今日と感じていたのではなかったのだろうか。そう、私が存在していた日はすべて今日という日であり、昨日という日を過ごしたことなどないではないか。私が存在し続ける限り、永遠に今日は今日であり、昨日になったり明日になったりするものではないのだ。つまり私にとって、昨日とは時間がやっと存在することを始めた永遠に遠い昔のことを指し、明日とは時間が存在することをやめるくらい未来のことを指す。両方とも私には無縁のものなのだ。よって今日は今日であり、何日であるかというようなことはまったく気にしなくてよい。私はそう結論づけた。そう結論づけた後で、私はふと今までにも何度となく同じようなことを考えたことがあるような錯覚にとらわれた。

 私は随分と長い間この机に向かって仕事をし続けてきたように思う。今日の日付を知りたかったのも、自分がどれくらいのあいだ仕事のために座り続けているのかを確認しようとしたのかもしれない。どういった仕事をしてきたのか、それを考えることはまったく無意味だ。そもそも本当に仕事をしていたのかどうかさえ、何の根拠も残っていない今となっては確認のしようがない。

 ただ現在の私には、頭の中にシリコンを注入されたようなずっしりとした重い疲労がのしかかってきている、ということから判断して、かなり長い間熱心に非常に込み入った頭脳の労働が強いられる仕事をし続けてきたはずだと判断するしかない。

 現在の私は仕事を一段落終えたところであるらしいので、少しはのんびりとできそうだ。仕事が一段落したときの満足感と、ちょっとした解放感が現在の私の心に存在することからそう判断できる。次の仕事がどういうもので、いつ舞い込んでくるかはその時になればわかるだろう。又、その時になってみなければわからないだろう。仕事とは本来そういうものではなかっただろうか。

 周辺の様子は私がここに存在を始めた時からまったく変わっていない、と判断できる。

 神経を耳に集中してみると、色々な人達の話し声が聞こえてくる。担当しているプロジェクトの方針について上司と相談しているらしい声、電話で取り引きを交わしているらしい声、書類のコピーを頼んでいるらしい声、部下に対してねちねちと説教をしているらしい声。しかしどれひとつとってみても、ひとつひとつの言葉の意味がつかめるほど明瞭には聞こえてこない。ただ、そのような事柄を話しているのだろうという雰囲気だけが伝わってくる。

 机の上に落としていた視線を上げてみると、やはりそこには普通の見慣れたオフィスの光景が見えている。見慣れたという判断が正しいかどうかはわからないが、少なくとも亡霊が見えたり、ペンギンが輪になってかごめかごめをしていたり、窓からゴジラが覗きこんでいたり、猫が組み体操をしていたり、双眼鏡でこちらを観察する探検隊がいたり、窓の外を未確認飛行物体が飛んでいたり、有名人が歩いたり、机がダンスを踊っていたり、逆立ちしている人がいたり、という日常的にあまりありえない、改めて注目するような事柄は何一つない、という意味でおそらく私はこの風景を見慣れているのだろうと判断を下した。

 その風景が私に訴えかけてくるものは、象徴化された日常のオフィスの雰囲気というもの以外の何物でもない。

 室内は七、八個の横に並んだ机の列が彼方まで続いている。かなり広いオフィスだ。片側は壁になっていて通路に出るためのドアがいくつかある。通路の向こうにはエレベーターホールがあって、さらにその向こうにはもう一つこの部屋と同じような部屋がある。実際に通路や、エレベーターホールや、隣の部屋を見たわけではないし、誰かから聞いたわけでも、この建物の図面を見たわけでもない。それはもともとここで仕事をし続ける事を義務づけられた私の頭脳に、アプリオリに植え付けられていた情報のように感じられる。壁の反対側は一面窓が並んでいる。どの窓も閉じられており、所々には乳白色のブラインドが下ろされている。

 窓の外にはビルの三、四階からの眺めだろうか、ちょっとした街の風景が見えている。席が窓の近くではないのでこのビルのすぐ下の方は見えないが、少し離れた辺りは主に住宅地になっていて、あちこちには工場の煙突が見えている。

 住宅地に並んでいる家は、そのほとんどが平屋で、瓦ぶきの長屋を大きくしたような建物が多い。薄暗いそれら建物の中では、浅黒く何とか骨の表面に皮がへばりついているだけの痩せ細った多くの人が、ひしめき合うようにして両手を上げ何かを求めて呻いているという情景が、建物の外観から想像できる。どの棟もひどく旧い建物で、外壁は一様に暗灰色に煤けている。

 戸外に人の姿はまったく見えないが、それは余りにも遠すぎて目に入らないのか、それとも実際に外に出ている人がまったくいないのかはわからなかった。工場は逆光気味に傾いた太陽のせいか、どれも黒っぽいシルエットとしてしか見えない。どの建物も、海底に横たわった巨大戦艦のように異様におうとつが激しく、砲身を思わせる、空にそびえ立った何本もの煙突は、周囲の住民にはまったくおかまいなしにもくもくと黒い煙を溢れ出させている。地上の建物がどれも煤けて見えるのは、この煙突の煤煙によるものなのかもしれない。私にはこの煙が工場に送られてきた人達が焼かれて出たものであるように思われる。建物の中で人が増殖し、工場に送られ、焼かれて煙となり、その煙が再び建物の外壁に付着する、という輪廻が存在するように思えてならなかった。しかしそれは単なる風景にしかすぎない。

 それほど遠くない所に山々の連なりが見えていることから考えて、それほど大きな街ではないということがわかる。

 地上の風景とは対照的に、空は晴れ渡っている。春先を思わせる暖かそうな日差しがこの建物の外にはあふれていた。しかし、その日光が春先のものであるのか、真夏のものなのか、秋晴れの天候がもたらすものなのか、真冬のものなのかは、年がら年中同じ気温に保たれたこの室内にいる私にはわかる筈もなかった。春先と思わせるのは私の先入観にすぎないのだろう。

 その日差しのためか、私が現在いるオフィスの中は必要以上に薄暗く感じられる。そして年中エアコンを効かせているため、そんな筈はないにもかかわらず妙に肌寒く感じる。

 こんな日はエレベーターで屋上に出て日光浴でもすれば気持ちいいんだろうなあとも思うが、もちろんそんなことはできようはずもない。いつ次の仕事が入ってくるかわからないし、そもそもこの机に座り続けること自体が私の仕事であるのかもしれないからである。そして仕事をする必要のなくなった私は、存在そのものが否定されそうな気がするのだ。そう、だからこそ私は今までこの机の前に座り続けてきたに違いないし、これからもそうし続けることだろう。

 机の上に視線を戻すと、A四版のマニュアルが広げられたままになっている。何気なくその開かれたページの文章を読んでみる。文章はマニュアルであるにもかかわらず、どういうわけだか縦書きになっている。

 「このような状況に陥った場合の対処方法は上記の例に示すごとく甚だ容易な方法となっており、簡単な装填による通常処理の代謝行為は現在もっとも連絡を明白化する浮動数値の保護作用となるが、注意すべきは旧態とする故繍の操作性から袵るため鶇聯豢の影響により、完全に鍬堆となる掛してい厩になれとば運用へと床に携帯のしへ纏添と晒れるに、冏茘でな便利でる彎侃へれるのし故障はれらんと煩睚でにう僉奚愍眠程るこんせらけ丞錠にもで、馨げんとし匠鬣たでそん飃叨けにさら鑄嚮だ箴黨れ蹇いねらぐ儻みひれ・・・・・    」

だめだった。何気なく読んでいるうちは意味も理解できるように思うが一度ひとつひとつの言葉に注目しはじめると、あたかも文章の方が読まれまいと抵抗しているかのように急に意味がつかめなくなってくる。さらに言葉の意味を理解するためにひとつひとつの文字に注目すると今度は見たこともない文字が出てきて完全に読解不能となってしまう。それでも文字を追うことをやめなければ最後にはマニュアルのインクがだんだんと周囲ににじんでゆき、ついには用紙全体が灰色になって文字が消え失せてしまう。

「ねえ、ゲームしようか。私とあなた、二人でできるゲーム。これから三ヶ月間私達は絶対逢わないようにするの。もちろん電話も、今まで続けてきた手紙のやり取りも。それで三ヶ月経ってから一度逢うの。それでもまだ私があなたのことを愛していて、あなたも私のことを愛し続けていてくれたら今まで通りに私達は逢い続ける。もしもどちらかが他に好きな人ができたら、私達はそれ以降一切逢わない」

 それは私に選択可能なことであるかのような言い方だったが、実際にはまったく選択の余地はなかった。できることなら私は駄々っ子のようにその場で泣き出し、いやだいやだとわめき散らしながらあの女性の足元にすがりつきたい気持ちだった。私のほうは三ヶ月経とうが三年経とうがあの女性のことを愛し続けているのに違いなかった。そう確信が持てた。それはいやおうのない強制だったし、私にとってはこの上ないいじめに感じられた。

 あれはいつ頃のことだったのだろうか。たしかにそのときの私にとっては、その日も今日という日でしかなかった。そして、その日も今日と同じ暖かそうな日差しにもかかわらず妙に肌寒い日だった。しかしこれは本当にあったことなのだろうか。なんとなれば私は自分の存在が始まった時点からこの机の前に座って仕事を続けてきたのではなかったのか。


 あの女性はいったい誰だったのだろうか。


マニュアルの横には十六センチの目盛りが刻まれた定規がさり気なく存在している。そのセルロイド製の定規はもとは透明であったのだろうが、その表面は今や細かい傷が無数に入り、さらにその傷によってできた小さな溝の中には手垢や、消しゴムのかすや、ふけや、唾液や、鉛筆の芯の粉や、こぼれたコーヒーや、蝿をたたき殺したときの体液の乾燥したものや、血や、弁当のふりかけや、鼻糞や、お菓子の粉や、カゼ薬や、大便やらがすり込まれ、その結果黄褐色に変色してしまっている。そして、その定規のくたびれ加減こそ、私がいかにこの机の上で過酷なる業務を続けてきたかを如実に物語っているのである。私の過去の行いを証明してくれるのは、私を取り巻くこれら文房具類だけだ。私はその定規に愛着を感じ思わず手に取った。そして何気なく手近な用紙の上で、今まで私が何百回、何千回、何万回となく行ってきたであろう直線を引くという行為を、その定規を使って行った。白い用紙の上に描かれた一本の直線を私はじっくりと眺めた。

 「どうして・・・私を・・・ずっと・・・離さないと・・・言ってくれなかったの・・・ずっと・・・私を・・・愛し続けると・・・言ってくれなかったの・・・どうして・・・もっと早く・・・それを・・・言ってくれなかったの・・・」

 三ヶ月後、涙につっかえながらあの女性はそう口にした。私は胃の中に中性子のスープを流し込まれたかのような重い気分になっていた。理由はあの女性の言った言葉によるもののようだが、どうしてそんな気分になったのかは、今となってしまっては到底わかるはずもなかった。


 あの女性はいったい誰だったのだろうか。


 私は先程描いた用紙の上の一本の直線を眺め続けていた。しかし眺めれば眺めるほど、その直線のありようが腑に落ちなくなってくる。何が違っているのかはわからないが、それでも何かが違っていた。

 ためしに今度はその直線に反対側から定規を当てがって、先程描いた直線に重ねてもう一本直線を引いてみた。直線を描き終え定規をどけて見てみると、そこにあったのは一本の直線ではなかった。両端だけが重なった二本の線は、細長い切れ長の目のような形になっていた。

 定規は曲がっていたのだ!

 私が今まで何百本、何千本、何万本と描いてきた線が、直線と信じきって自信を持って描いてきた線が、実は曲線だったということが今わかったのである。突然足場を失ったような、内臓をすべてくり貫かれたような、重力が一瞬のうちに存在しなくなったような、そんな気がした。

 心の中で何かがばりばりと音を立ててはがれ落ちていくのが自分でもわかった。私は今まで、そのはがれ落ちていった物こそこの世の中で最も大事な物だと思っていたが、実際はがれ落ちてみるとそれらの物はただのがらくたにすぎなかったのだ、ということに気付いた。

 そもそも私はここで仕事をし続ける必要などこれっぽっちもなかったのだ。

 私は顔を上げて辺りの様子を窺った。そこには、今までの世界は存在していなかった。完全に今までの日常茶飯事とはかけ離れたものが見えている。

 前を見ると亡霊が恨めしそうにこちらを見つめている。部屋の隅のほうでペンギンが輪になってかごめかごめをしている。窓からはゴジラが憎々しげにこちらを睨んでいる。十匹の猫がピラミッド状に重なり笛の音と同時に首を左から右に振っている。縁のある大きな帽子を覆った探検隊が双眼鏡を覗いてこちらを観察している。窓の外を無数の未確認飛行物体が飛んで行く。私の知りうる限りの有名人が歩き回っ

ている。フロアにあるすべての机がダンスを踊っている。多くの人が逆立ちして歩いている。

 私は席を立つ。そしてエレベエーターホールの方に向かって歩いて行く。エレベーターの登りのボタンを押す。エレベーターがやってきて扉が開く。

 エレベーターの中は今までに見たこともない強烈な白い光に満ち満ちていた。

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