ちょっぴり不器用な恋の育て方

トムさんとナナ

ちょっぴり不器用な恋の育て方

## 第一章 失敗だらけの出会い


春のキャンパスは新しい始まりの匂いがした。桜の花びらが舞い踊る中、私、早川美咲は慌てふためいて講義棟へ向かっていた。


「あと三分、あと三分で間に合う!」


片手にレポート、もう片手にはコーヒーを持ちながら、私は小走りで階段を駆け上がった。大学二年生になったというのに、相変わらず余裕のない生活を送っている。母に「もっと計画性を持ちなさい」と言われ続けて二十年、一向に改善される気配はない。


階段の踊り場で、前を歩く男子学生が突然立ち止まった。私は慌ててブレーキをかけたが、持っていたコーヒーが宙に舞い上がった。


「あああああ!」


コーヒーは見事に、その男子学生の白いシャツの背中に降り注いだ。彼がゆっくりと振り返る。整った顔立ちに困惑の表情を浮かべた彼を見て、私の頭は真っ白になった。


「す、すみません!本当にすみません!」


私は慌ててハンカチを取り出したが、小さなタオルハンカチでは焼け石に水だった。彼は静かに自分のシャツを見下ろし、小さくため息をついた。


「大丈夫です」


低くて落ち着いた声だった。怒鳴られることを覚悟していた私は、拍子抜けしてしまう。


「で、でも、シャツが……」


「洗えば落ちます」


彼は淡々と答えると、私が落としたレポートを拾い上げてくれた。


「文学部の早川美咲さんですね」


表紙に書かれた名前を読み上げられ、私は慌ててレポートを受け取った。


「あ、ありがとうございます。あの、お名前を教えていただけませんか?クリーニング代をお支払いしたいので」


「森田和希です。気にしないでください」


そう言うと、彼は踵を返して去っていこうとした。


「待ってください!」


私は慌てて彼を呼び止めた。


「せめて、連絡先を……」


「本当に大丈夫です」


森田君はもう一度そう言うと、今度こそ階段を下りていってしまった。私は呆然とその後ろ姿を見送った。


講義室に滑り込んだ時には、既に授業が始まっていた。教授の視線が私に向けられ、クラスメートたちがくすくすと笑っているのが聞こえる。私は小さくなって後ろの席に座った。


「美咲、今日も派手にやったね」


隣に座った親友の田中ひなたが、苦笑いを浮かべながら囁いた。


「コーヒーを人にかけちゃった」


「また?この前は図書館で本の山を崩したよね」


ひなたの指摘に、私は机に突っ伏した。確かに私は不器用だ。小学生の頃から「おっちょこちょい」と呼ばれ続け、何をやってもうまくいかない。料理は焦がすし、掃除をすれば何かを壊すし、人と話していても言葉が詰まってしまう。


「でも、相手の人は怒らなかったんでしょ?」


「うん。すごく優しい人だった。森田和希君って言うんだけど」


「森田和希?」


ひなたが目を丸くした。


「もしかして、理学部の?黒髪で、いつも一人でいる人?」


「多分そうかも。知ってるの?」


「有名よ。すごく頭が良くて、でも誰とも喋らないから『氷の王子様』って呼ばれてるの」


氷の王子様。確かに、彼の雰囲気はどこか近寄りがたいものがあった。でも、私にかけられたコーヒーで濡れたシャツを見ても、彼は一度も嫌な顔をしなかった。


「美咲、まさか一目惚れ?」


「違うよ!」


私は慌てて否定したが、頬が熱くなるのを感じた。確かに、森田君は格好良かった。でも、それよりも彼の優しさが印象に残っている。


授業が終わると、私は決意を固めた。


「ひなた、理学部の建物って、どこにあるか知ってる?」


「まさか、会いに行くつもり?」


「お詫びとお礼をちゃんとしたいの」


実際のところ、私自身でも自分の気持ちがよく分からなかった。ただ、もう一度彼に会いたいという思いが胸の奥で膨らんでいた。


## 第二章 すれ違いの始まり


理学部の建物は、文学部とは反対側のキャンパスにあった。近代的な建物で、文学部の古い校舎とは雰囲気が全く違う。私は建物の前で立ち往生していた。


「どうやって探そう……」


建物は大きく、どこから手をつけていいか分からない。そんな時、建物から出てきた学生に森田君の姿を見つけた。


「あ!」


私は手を振って彼を呼んだが、森田君は私に気づかないまま歩いて行ってしまう。慌てて追いかけようとした私は、またしても躓いてしまった。


「きゃー!」


今度は植え込みに突っ込みそうになったが、誰かに腕を掴まれて支えられた。


「大丈夫ですか?」


振り返ると、森田君が心配そうな顔で私を見ていた。


「森田君!」


「早川さん……なぜここに?」


「あ、あの、お詫びをしたくて」


私は慌てて鞄から包みを取り出した。中には、母が作ってくれたクッキーが入っている。


「これ、お詫びの気持ちです。あと、もしよろしければ、シャツのクリーニング代も……」


「気を遣わないでください」


森田君は困ったような表情を浮かべた。


「でも……」


「それより、怪我はありませんでしたか?」


彼の優しい気遣いに、私の胸がきゅんとした。


「は、はい。大丈夫です」


「そうですか。それなら良かったです」


森田君はほっとした表情を見せた。その瞬間、私は気づいた。彼は本当に私のことを心配してくれているのだ。


「あの、もしよろしければ、今度お茶でも……」


私が勇気を振り絞って誘いかけた時、森田君の携帯電話が鳴った。


「すみません」


彼は電話に出ると、少し困った顔をした。


「分かりました。今から向かいます」


電話を切ると、彼は申し訳なさそうに私を見た。


「ゼミの急な集まりで、行かなければならなくなりました」


「あ、そうなんですね」


私は落胆を隠そうとしたが、うまくいかなかった。


「クッキー、ありがとうございます。いただきます」


森田君はそう言って包みを受け取ると、小さく頭を下げて去っていった。


私は一人、理学部の建物の前に取り残された。今度こそちゃんと話ができると思ったのに、またすれ違ってしまった。


「美咲!」


後ろから声をかけられて振り返ると、ひなたが駆け寄ってきた。


「どうだった?会えた?」


「会えたけど、ゼミの用事で……」


「そっか。でも、クッキー渡せたんでしょ?」


「うん」


私は小さく頷いた。森田君は確かにクッキーを受け取ってくれた。でも、何だかもやもやした気持ちが残っている。


「美咲、もしかして本気で森田君のこと……」


「分からない」


私は正直に答えた。恋愛経験の少ない私には、この気持ちが何なのか判断がつかない。ただ、もっと彼と話したい、彼のことを知りたいという気持ちだけは確かだった。


その夜、私は森田君のことを考えながら眠りについた。彼の落ち着いた声、困ったような表情、そして私を心配してくれた優しい眼差し。どれも胸に深く刻まれていた。


次の日の朝、私はいつもより早く大学に向かった。もしかしたら、またどこかで森田君に会えるかもしれない。そんな淡い期待を抱きながら。


しかし、この日も、そして次の日も、私は森田君に会うことはできなかった。大学は広く、学部が違えば接点を見つけるのは難しい。私は次第に焦りを感じるようになった。


「美咲、そんなに落ち込まないで」


図書館で勉強していた私に、ひなたが声をかけた。


「会えないんだもん」


「そんなことないよ。きっとまた会えるって」


「でも……」


「美咲は諦めが早すぎるの。もっと積極的になりなよ」


ひなたの言葉に、私はハッとした。確かに、私はいつも受け身だった。何かを待っているだけで、自分から行動を起こすことが少ない。


「積極的って、どうすればいいの?」


「まずは、森田君の情報収集よ!」


ひなたは目を輝かせて言った。


「情報収集?」


「そう!彼がどんな人なのか、何が好きなのか、どこによく行くのか。知れば知るほど、会える確率は上がるでしょ?」


なるほど、と私は思った。確かに、森田君のことを何も知らないまま待っているだけでは、偶然の再会を期待するしかない。


「でも、どうやって調べるの?」


「任せて!私にはコネがあるの」


ひなたは得意げに胸を張った。彼女は社交的で、色々な学部に知り合いがいる。きっと何か分かるだろう。


その日の夕方、ひなたは早速情報を持ってきた。


「分かったよ!森田君は理学部の数学科で、成績優秀者として有名なの。でも、友達は少なくて、いつも一人で行動してるんだって」


「一人で……」


「それから、よく図書館の三階にいるらしいよ。数学の専門書がある階」


私の心臓が高鳴った。図書館の三階なら、私も勉強でよく使う場所だ。


「明日、行ってみる?」


「うん!」


私は力強く頷いた。やっと、森田君に会えるかもしれない手がかりを見つけたのだ。


## 第三章 図書館での再会


翌日、私は図書館の三階に向かった。いつもより念入りに身だしなみを整え、転びにくい靴を履いてきた。


三階の数学書コーナーは、平日の午後ということもあって人が少なかった。私は本棚の間を歩きながら、森田君の姿を探した。


そして、窓際の机で、一人静かに本を読んでいる彼を見つけた。


森田君は分厚い数学書に没頭していて、私の存在に気づかない。私はそっと近づいて、彼の斜め後ろの席に座った。


どうやって声をかけようか悩んでいると、森田君が顔を上げて振り返った。


「早川さん?」


「あ、こんにちは」


私は慌てて挨拶をした。


「数学の勉強ですか?」


「はい。来週レポートの締切があるので」


森田君は机の上の本を軽く叩いた。表紙には難しそうな数式が並んでいる。


「大変そうですね」


「早川さんは文学部でしたね。何を勉強されているんですか?」


初めて森田君から質問をされて、私は少し緊張した。


「近代文学です。今は夏目漱石の研究をしているんです」


「漱石ですか。『こころ』や『坊っちゃん』の」


「はい!読まれたことがあるんですね」


「高校の授業で。面白かったです」


森田君が微笑んだ。小さな笑みだったが、それまでの無表情な彼しか知らなかった私には、とても印象的だった。


「数学と文学って、全然違う分野ですね」


「そうですね。でも、どちらも論理的思考が必要だと思います」


「論理的思考?」


私が首をかしげると、森田君は少し考えてから答えた。


「文学作品も、作者の意図や登場人物の心理を論理的に分析する必要がありますよね。数学とは違う種類の論理ですが」


「なるほど……」


私は森田君の言葉に感心した。確かに、レポートを書く時も、根拠を示して論理的に構成する必要がある。


「早川さんは、なぜ漱石を研究テーマに選んだんですか?」


また質問をされて、私は嬉しくなった。


「漱石の作品には、現代にも通じる人間の悩みが描かれていると思うんです。特に人間関係の複雑さとか」


「人間関係の複雑さ」


森田君が私の言葉を繰り返した。


「はい。私も人付き合いが苦手で、漱石の登場人物に共感することが多くて」


そう言ってから、私は自分が余計なことを言ってしまったと気づいた。初対面に近い人に、自分の苦手なことを話すなんて。


「僕もです」


しかし、森田君は意外なことを言った。


「え?」


「人付き合いが苦手です。だから、いつも一人でいます」


森田君の正直な告白に、私は驚いた。あんなに落ち着いていて、完璧に見える彼も、私と同じような悩みを抱えているなんて。


「でも、森田君はとても優しいじゃないですか。あの時も、コーヒーをかけてしまったのに怒らなくて」


「それは……」


森田君が言いかけた時、彼の携帯が鳴った。メッセージの着信音だった。


「すみません」


彼はメッセージを確認すると、困った顔をした。


「ゼミの先輩から呼ばれました。行かなければ」


「そうですか」


私は落胆を隠せなかった。やっと会話が弾み始めたところだったのに。


「あの……」


森田君が立ち上がりかけて、振り返った。


「また、ここで会えるでしょうか」


私の心臓が大きく跳ねた。


「え?」


「僕も、早川さんともっと話してみたいと思いました」


森田君の頬が、ほんのり赤くなっている。私も顔が熱くなるのを感じた。


「わ、私も!」


「それでは、また明日の同じ時間に」


「はい!」


森田君が去った後、私は一人で胸を押さえていた。彼も私との会話を楽しんでくれていたのだ。明日が待ち遠しくて仕方がない。


家に帰ると、私は母に今日のことを話した。


「あら、素敵な出会いじゃない」


母は嬉しそうに笑った。


「でも、私なんかでいいのかな。森田君はすごく頭が良くて、しっかりしてるのに、私は不器用で……」


「美咲、あなたには優しさがあるじゃない。それに、相手の方もあなたに興味を持ってくださったんでしょう?」


母の言葉に、私は少し勇気をもらった。確かに、森田君は明日もまた会いたいと言ってくれた。


その夜、私は明日の会話のことを考えながら、なかなか眠れなかった。今度はもっと上手に話せるだろうか。また失敗してしまわないだろうか。


不安と期待が入り混じった複雑な気持ちを抱えながら、私は眠りについた。


## 第四章 心の距離


翌日、私は約束の時間より三十分も早く図書館に着いてしまった。緊張で朝から何も手につかず、結局早めに家を出てきたのだ。


三階の数学書コーナーで待っていると、時間きっかりに森田君が現れた。


「お待たせしました」


「いえいえ、私も今来たところです」


嘘だった。でも、三十分も早く来て待っていたなんて言えない。


「今日はどんな勉強をされるんですか?」


「レポートの続きです。早川さんは?」


「私も文学のレポートです」


私たちは昨日と同じように、隣の席に座った。しかし、昨日のように自然に会話が弾まない。お互いに勉強道具を広げて、時々言葉を交わす程度だった。


「あの……」


一時間ほど経った頃、私は意を決して声をかけた。


「はい」


森田君が顔を上げる。


「森田君は、どうして数学を選んだんですか?」


少し間があってから、森田君が答えた。


「数学は嘘をつかないからです」


「嘘をつかない?」


「はい。人間関係は複雑で、時には相手の気持ちが分からなくなることがありますが、数学は常に論理的で、答えが明確です」


森田君の言葉に、私は少し寂しさを感じた。確かに数学は明確かもしれないが、人とのつながりを避けてしまうのは勿体ない気がする。


「でも、人とのつながりにも良いところがあると思います」


「そうでしょうか」


「はい。例えば、今こうして森田君とお話ししていると、一人では気づけないことを教えてもらえます」


森田君が私を見つめた。その視線に、私は頬が熱くなるのを感じた。


「早川さんは、僕に何を教えてもらったんですか?」


「文学作品を論理的に分析するという視点です。私は感情的に読むことが多かったので」


「なるほど」


森田君が小さく頷いた。


「では、僕は早川さんから何を学べるでしょうか」


突然の質問に、私は慌てた。


「え、えーっと……」


何か賢いことを言わなければと思ったが、頭が真っ白になってしまう。


「わ、分からないです」


正直に答えると、森田君が微笑んだ。


「その正直さです」


「え?」


「早川さんはいつも素直で、飾らない。それは僕にはない魅力だと思います」


私は驚いた。自分では短所だと思っていたことを、森田君は良いところだと言ってくれた。


「ありがとうございます」


「こちらこそ」


そんな会話を交わしていると、図書館に友達らしき男子学生が森田君を探しにやってきた。


「和希、ここにいたのか」


「先輩」


森田君が少し緊張した表情になった。


「ゼミの資料、用意できた?明日発表だろ?」


「はい、準備できています」


「なら良いけど。君は真面目だから心配ないか」


先輩は私の存在に気づくと、興味深そうな顔をした。


「彼女?」


「違います!」


森田君が慌てて否定した。その反応があまりにも即座で強く、私の胸にちくりと痛みが走った。


「友人の早川さんです」


「そうか。じゃあ、明日よろしく」


先輩が去った後、気まずい沈黙が流れた。


「あの……」


森田君が口を開きかけたが、私は立ち上がった。


「今日はもう帰ります」


「え?」


「用事を思い出したので」


嘘だった。でも、「違います!」と強く否定された時の衝撃から立ち直れずにいた。私は自分でも驚くほど傷ついていた。


「そうですか。お疲れさまでした」


森田君も立ち上がって頭を下げた。私は小さく会釈をして、足早にその場を去った。


図書館を出ると、涙が溢れそうになった。森田君にとって私は、ただの友人以下の存在なのだろうか。彼女だと思われることを、そんなに嫌がるほどに。


家に帰ると、母が心配そうに私を見た。


「美咲、どうしたの?元気がないけど」


「何でもない」


私は自分の部屋に駆け込んだ。ベッドに倒れ込んで、今日のことを思い返す。森田君の「違います!」という言葉が、頭の中で何度も繰り返された。


携帯電話が鳴った。ひなたからのメールだった。


『今日はどうだった?』


私は返事を書こうとしたが、指が動かない。何と書けばいいのか分からなかった。


結局、その日は早めに寝ることにした。明日になれば、この痛みも少しは和らぐだろうか。でも、もう森田君に会いに行く勇気はないかもしれない。


翌日、私は図書館に行かなかった。講義を受けて、ひなたと学食でお昼を食べて、そのまま家に帰った。


「美咲、森田君に会わなかったの?」


ひなたの質問に、私は曖昧に答えた。


「ちょっと忙しくて」


「そう?でも、良い感じに進んでるんじゃないの?」


私は無理に笑顔を作った。ひなたには心配をかけたくない。


しかし、胸の奥の痛みは消えなかった。


## 第五章 誤解と真実


森田君に会わなくなって一週間が経った。私は図書館を避け、いつもの生活パターンを変えて過ごしていた。しかし、彼のことを忘れることはできず、ふとした瞬間に思い出しては切ない気持ちになった。


金曜日の午後、私は学食で一人お昼を食べていた。ひなたは実習で大学に来ておらず、周りの楽しそうな声が余計に寂しさを感じさせた。


「早川さん」


突然声をかけられて振り返ると、森田君が立っていた。一週間ぶりに見る彼の顔は、少し疲れているように見えた。


「森田君……」


「お一人ですか?」


「は、はい」


「失礼します」


森田君は私の向かいに座った。私の心臓が激しく鼓動した。


「最近、図書館でお見かけしないので、心配していました」


心配?私は森田君の言葉に戸惑った。


「ちょっと忙しくて」


「そうですか」


森田君は少し安堵したような表情を見せた。


「実は、お話があって……」


「お話?」


「先日は、失礼なことを言ってしまって、申し訳ありませんでした」


森田君が頭を下げた。私は慌てて手を振った。


「いえ、そんな」


「いえ、明らかに早川さんを傷つけてしまいました」


森田君の真剣な表情に、私は驚いた。彼は私が傷ついたことに気づいていたのだ。


「あの時、先輩に『彼女?』と聞かれて、強く否定してしまったのは……」


森田君が言いかけて止まった。


「は?」


「早川さんに迷惑をかけたくなかったからです」


「迷惑?」


私は意味が分からなかった。


「僕と付き合っていると思われたら、早川さんの評判が悪くなるかもしれないと思って」


森田君の説明に、私は目を見開いた。


「どうして?」


「僕は『氷の王子様』なんて呼ばれて、友達もいない。そんな僕と一緒にいることで、早川さんまで変に思われたら……」


「そんなこと!」


私は思わず大きな声を出してしまった。周りの視線を感じて、慌てて声を小さくする。


「そんなこと、気にしません」


「でも……」


「森田君は優しくて、頭が良くて、素敵な人です。一緒にいて迷惑だなんて思ったことありません」


私の言葉に、森田君の目が大きくなった。


「早川さん……」


「私こそ、不器用で失敗ばかりで、森田君に恥ずかしい思いをさせてしまうかもしれません」


「そんなことありません」


今度は森田君が強く否定した。


「早川さんの不器用さは、チャーミングです」


「チャーミング?」


「はい。いつも一生懸命で、素直で、見ていて微笑ましくなります」


私の頬が真っ赤になった。森田君も少し照れているようだった。


「あの……」


森田君が口を開いた。


「もしよろしければ、今度一緒にお茶でもいかがでしょうか」


私の心臓が止まりそうになった。


「は、はい!ぜひ!」


「本当ですか?」


森田君の顔がぱっと明るくなった。普段の無表情な彼しか知らなかった私には、その笑顔がとても新鮮で、胸がきゅんとした。


「では、明日の午後はいかがですか?」


「大丈夫です」


「それでは、キャンパス前のカフェで」


私たちは待ち合わせの約束をした。森田君が席を立つ時、私は勇気を出して声をかけた。


「森田君」


「はい」


「私、森田君ともっと仲良くなりたいです」


素直な気持ちをそのまま伝えると、森田君の頬がほんのり赤くなった。


「僕もです」


彼のその言葉で、私の胸に温かい気持ちが広がった。


## 第六章 初めてのデート


翌日、私は朝から何を着ていくか悩んでいた。クローゼットの前で三十分も迷った挙句、結局いつものワンピースを選んだ。鏡の前で髪を整えながら、緊張で手が震えているのが分かった。


「美咲、今日は特別な日なの?」


母が台所から声をかけてきた。


「友達とお茶するだけ」


「友達?」


母の声に疑いの響きがあった。私の慌てようを見て、勘づいているのかもしれない。


「行ってきます!」


私は慌てて家を出た。


キャンパス前のカフェに着くと、森田君は既に待っていた。いつものように整った服装で、本を読んでいる。私を見つけると、彼は立ち上がって軽く手を振った。


「お待たせしました」


「いえ、僕も今来たところです」


森田君も私と同じような嘘をついている。なんだか可愛らしくて、私は思わず笑ってしまった。


「何か面白いことでも?」


「いえ、何でもありません」


私たちはカフェに入って、窓際の席に座った。メニューを見ながら、お互いに少し緊張しているのが分かった。


「何にしますか?」


「コーヒーで」


「僕も同じで」


注文を済ませると、気まずい沈黙が流れた。図書館では自然に話せていたのに、こうして二人きりで向かい合うと、何を話せばいいのか分からない。


「あの……」


私たちは同時に口を開いて、同時に止まった。


「お先にどうぞ」


「いえ、森田君から」


またしても同時だった。私たちは顔を見合わせて、くすくすと笑った。


「僕たち、タイミングが合いませんね」


「そうですね」


笑ったことで、少し緊張がほぐれた。


「森田君は、普段どんなことをして過ごしているんですか?」


「勉強か読書です。早川さんは?」


「私も読書が好きです。あとは……」


私は少し恥ずかしくなった。


「料理の練習とか」


「料理ですか?上手なんですね」


「いえ、全然です。この前もシチューを焦がしちゃって」


森田君が微笑んだ。


「僕は料理が全くできません。いつもコンビニ弁当です」


「そうなんですか?今度、良かったら私の手料理を……」


そこまで言って、私は自分の発言に驚いた。まるで彼女のような発言をしてしまった。


「あ、その、変な意味じゃなくて……」


「ありがとうございます。ぜひお願いします」


森田君が嬉しそうに答えてくれて、私はほっとした。


「でも、美味しくなかったらごめんなさい」


「早川さんが作ってくれるなら、きっと美味しいです」


森田君の言葉に、私の胸が温かくなった。この人は、いつも私を肯定してくれる。


コーヒーが運ばれてきて、私たちは様々なことを話した。好きな本のこと、子供の頃の話、将来の夢。時間が経つのを忘れるほど、会話が弾んだ。


「森田君は、将来何をしたいんですか?」


「数学の研究者になりたいです。大学院に進学する予定です」


「すごいですね」


「早川さんは?」


「私は……まだよく分からないんです」


私は正直に答えた。


「でも、人の心に寄り添えるような仕事がしたいです。文学を通してでも、他の方法でも」


「素敵な夢ですね」


森田君が優しく微笑んだ。


「でも、私には無理かもしれません。不器用だし、人見知りだし」


「そんなことありません」


森田君が真剣な顔で言った。


「早川さんには、人を安心させる力があります」


「え?」


「僕も、早川さんと話していると、肩の力が抜けます。きっと他の人も同じように感じると思います」


私は森田君の言葉に感動した。自分では気づかなかった長所を、彼は見つけてくれた。


「ありがとうございます」


「こちらこそ」


カフェで三時間近く過ごした後、私たちは外に出た。夕日が綺麗で、街が温かいオレンジ色に染まっている。


「今日は楽しかったです」


森田君が言った。


「私もです」


「また、お時間がある時に……」


「はい!いつでも」


私たちは駅で別れた。家に向かう電車の中で、私は今日のことを思い返していた。森田君と過ごした時間は、とても幸せだった。


家に帰ると、母が夕食の準備をしていた。


「おかえり。楽しかった?」


「うん」


私の表情を見て、母は微笑んだ。


「良い人なのね」


「え?」


「顔に書いてあるわよ。恋する女の子の顔」


母の指摘に、私は真っ赤になった。


「お母さん!」


「美咲が幸せそうで良かった」


その夜、私は森田君にお礼のメールを送った。すぐに返事が来て、次の約束の話をした。こんな風に誰かとメールのやり取りをするのは初めてで、とても新鮮だった。


私の恋心は、確実に大きくなっていた。


## 第七章 お弁当作戦


約束通り、私は森田君にお弁当を作ることになった。前日の夜、私は母に相談した。


「明日、友達にお弁当を作りたいんだけど、何がいいかな?」


「友達?」


母は意味深な笑みを浮かべた。


「男の子の友達よね?」


「お母さん!」


「分かった分かった。それなら、卵焼きとから揚げはどう?失敗しにくいし、男の子が好きそうよ」


母のアドバイスに従って、私は材料を買いに行った。明日失敗しないように、今夜練習することにした。


卵焼きは三回焼き直した。最初は焦がし、二回目は形が崩れ、三回目でようやく形になった。から揚げも、油の温度調節に苦労した。


「美咲、大丈夫?」


心配になった母が台所を覗きに来た。


「なんとか」


私は汗を拭いながら答えた。


「明日の分は私も手伝うから、安心して」


母の優しさに甘えて、翌朝は二人でお弁当を作った。彩りを考えて野菜も入れ、見た目にも美味しそうなお弁当が完成した。


「頑張ったわね」


「ありがとう、お母さん」


私は慎重にお弁当を鞄に入れて、大学に向かった。


図書館で森田君と待ち合わせをして、近くの公園に移動した。桜の花は散っていたが、新緑が美しい季節だった。ベンチに座って、私はお弁当箱を取り出した。


「手作りのお弁当です」


「わあ」


森田君が感嘆の声を上げた。彩り豊かなお弁当を見て、目を輝かせている。


「美味しそうですね。こんなに本格的なお弁当、初めて見ました」


「本当ですか?」


「はい。いつもコンビニ弁当なので」


私は安堵とともに、少し申し訳ない気持ちになった。


「それでは、いただきます」


森田君が卵焼きを一口食べて、表情がぱっと明るくなった。


「美味しいです!」


「本当ですか?」


「はい。甘くて、ふわふわで……家庭の味ですね」


森田君の嬉しそうな顔を見て、私も嬉しくなった。昨夜の練習が報われた気がする。


「から揚げもどうぞ」


「いただきます」


森田君はから揚げも美味しそうに食べてくれた。私も自分の分を食べながら、彼の喜ぶ顔を見ているのが幸せだった。


「早川さんは、お料理上手なんですね」


「まだまだです。でも、森田君が喜んでくれて良かった」


「毎日こんなお弁当を食べられる人が羨ましいです」


森田君がぽつりと言った。その言葉に、私の胸がきゅんとした。


「あの……」


私は勇気を出して言った。


「良かったら、時々お弁当作ります」


「え?」


「迷惑じゃなかったら……」


「迷惑なわけありません!でも、お手間をおかけして」


「全然手間じゃありません」


私は慌てて否定した。


「むしろ、作りがいがあって嬉しいです」


「ありがとうございます」


森田君が深々と頭を下げた。


「そんなに畏まらないでください」


「でも……」


「私たち、友達ですよね?」


私がそう言うと、森田君は少し複雑な表情を見せた。


「友達……ですね」


何だか歯切れが悪い返事だった。私は気になったが、深く追求することはできなかった。


お弁当を食べ終わった後、私たちは公園を散歩した。平日の午後ということもあって、人は少ない。鳥のさえずりと風の音だけが聞こえる、静かで平和な時間だった。


「早川さん」


「はい」


「僕、友達と呼べる人がいませんでした」


森田君が突然そんなことを言った。


「どうしてですか?」


「人との距離の取り方が分からなくて。いつも一人でいる方が楽でした」


「今もそう思いますか?」


「いえ」


森田君が私の方を見た。


「早川さんと話していると、一人でいることの寂しさに気づきました」


私の胸が温かくなった。


「私もです」


「え?」


「森田君と会うまで、友達と呼べる人はひなただけでした。人見知りで、うまく話せないから」


「そうだったんですか」


「でも、森田君となら自然に話せます」


私たちは歩きながら、お互いの過去について話した。森田君は小学生の頃から勉強ばかりしていて、友達と遊んだ記憶がほとんどないと言った。私も、いつも一人で本を読んでいた子供時代を思い出した。


「似ていますね、私たち」


「そうですね」


森田君が微笑んだ。


「だから、話しやすいのかもしれません」


公園の池のほとりで、私たちは立ち止まった。水面に映る雲がゆっくりと流れている。


「早川さん」


「はい」


「僕と友達でいてくれて、ありがとうございます」


森田君の真剣な表情に、私は胸が締め付けられた。友達。私は森田君のことを、本当に友達だと思っているのだろうか。


最近の自分の気持ちを振り返ると、友達という言葉では表現できない何かがある。でも、その気持ちに名前をつけるのが怖かった。


「こちらこそ」


私は曖昧に答えた。


家に帰ると、母が待っていた。


「どうだった?」


「喜んでくれました」


「良かったじゃない」


母は嬉しそうに笑った。


「でも、お母さん」


「なに?」


「友達って、どんな気持ちなんでしょう?」


母が少し考えてから答えた。


「友達は、一緒にいて楽しくて、相手の幸せを願う気持ちかしら」


「それなら、友達以上の気持ちは?」


「それは……」


母が意味深に笑った。


「美咲が自分で気づくものよ」


その夜、私は自分の気持ちと向き合った。森田君といると楽しい。彼の幸せを願っている。でも、それ以上に、彼ともっと特別な関係になりたいという気持ちがある。


これが恋なのだろうか。


私は初めて、自分の恋心と向き合った。


## 第八章 気持ちの変化


お弁当を作る約束をしてから、私と森田君の関係は少しずつ変化していった。週に二、三回お弁当を作り、一緒に食べるのが私たちの日課になった。


「今日のお弁当も美味しいです」


「ありがとうございます」


私は森田君の笑顔を見るのが好きになっていた。普段は無表情な彼が、お弁当を食べる時だけは本当に嬉しそうな顔をする。


「今度は何を作りましょうか?」


「早川さんの得意料理で構いません」


「得意料理……」


私は少し困った。まだまだ料理は練習中の身だ。


「オムライスはどうですか?」


「オムライス!」


森田君の目が輝いた。


「好きなんですか?」


「子供の頃、母が作ってくれた思い出があります」


森田君が懐かしそうに言った。彼の家族の話を聞くのは初めてだった。


「お母様は、お料理が上手だったんですね」


「はい。でも、僕が中学生の時に亡くなって」


私は言葉を失った。


「すみません、暗い話をして」


「いえ、そんな」


私は慌てて手を振った。


「教えてくれて、ありがとうございます」


森田君が小さく微笑んだ。


「早川さんにだから、話せました」


その言葉に、私の胸が温かくなった。彼にとって私は、大切なことを話せる相手なのだ。


「それじゃあ、明日は特別美味しいオムライスを作りますね」


「ありがとうございます」


その夜、私は母にオムライスの作り方を教わった。


「卵をふわふわに仕上げるのがコツよ」


「分かりました」


「それにしても、最近よくお弁当を作るわね」


「時々だよ」


「美咲、その人のこと好きなんでしょう?」


母の直球な質問に、私は顔を真っ赤にした。


「お、お母さん!」


「図星ね」


母がくすくすと笑った。


「素直になりなさい。自分の気持ちを認めることから始まるのよ」


翌日、私は特に気合いを入れてオムライスを作った。チキンライスをふわふわの卵で包み、ケチャップでハートマークを描こうとして、結局ぐちゃぐちゃになってしまった。


「ハートはやめておこう」


私は苦笑いして、普通にケチャップをかけた。


公園で森田君にオムライスを渡すと、彼は本当に嬉しそうな顔をした。


「わあ、本格的ですね」


「頑張りました」


森田君が一口食べて、しばらく無言だった。私は心配になった。


「不味いですか?」


「いえ」


森田君が顔を上げると、目が潤んでいた。


「母の味に似ています」


「え?」


「とても懐かしくて……ありがとうございます」


森田君の感謝の言葉に、私は胸がいっぱいになった。偶然かもしれないが、彼の大切な思い出の味に近づけたことが嬉しかった。


「早川さん」


「はい」


「僕にとって、あなたは特別な人です」


森田君の言葉に、私の心臓が大きく跳ねた。


「特別?」


「はい。今まで一人でいることに慣れていましたが、早川さんと過ごす時間は、僕にとってかけがえのないものです」


私は森田君の真剣な表情を見つめた。彼の言葉は、友情以上の何かを感じさせた。


「私も、森田君は特別です」


私は正直に答えた。


「本当ですか?」


「はい。森田君といると、ありのままの自分でいられます」


私たちは見つめ合った。公園の静寂の中で、何か大切なことが起ころうとしているような気がした。


「早川さん」


森田君が私の名前を呼んだ。いつもより声が少し震えている。


「はい」


「僕は……」


その時、公園に子供たちの声が響いた。遠足らしき一団が近づいてきて、私たちの静かな時間は破られた。


「あ」


森田君が我に返ったような顔をした。


「すみません、変なことを言って」


「いえ、そんな」


私は慌てて首を振った。でも、森田君が何を言おうとしていたのか、とても気になった。


その日の午後、私たちはいつもより早く別れた。森田君も私も、何となく気まずい雰囲気になってしまった。


家に帰って、私は自分の気持ちと向き合った。森田君の「特別な人」という言葉が、頭の中で何度も繰り返された。


私も彼のことを特別だと思っている。それは間違いない。でも、この気持ちは友情なのか、それとも……。


「美咲」


母が部屋に入ってきた。


「どうしたの?元気がないけど」


「お母さん、恋ってどうやって気づくものなの?」


母が椅子に座って、私の顔を見つめた。


「突然どうしたの?」


「その人のことを考えると胸がドキドキして、会えない日は寂しくて、笑顔を見ると嬉しくて……これって恋なの?」


「美咲」


母が優しく微笑んだ。


「それは間違いなく恋よ」


私は母の言葉で、やっと自分の気持ちを理解した。私は森田君を愛している。


でも、彼の気持ちは分からない。今日、何か大切なことを言おうとしていたような気がするが、結局聞けずじまいだった。


「お母さん、恋をしたらどうすればいいの?」


「素直に気持ちを伝えることよ」


「でも、断られたら……」


「それでも、伝えなければ始まらないわ」


母の言葉に、私は勇気をもらった。明日、森田君に会ったら、正直に気持ちを伝えてみよう。


そう決心して、私は眠りについた。


## 第九章 告白の決意


翌日、私は朝からそわそわしていた。今日こそ森田君に気持ちを伝えようと決めたものの、どう切り出せばいいのか分からない。


「美咲、お弁当忘れてるわよ」


母に指摘されて、私は慌てて台所に戻った。昨夜作ったサンドイッチが冷蔵庫に入ったままだった。


「ありがとう、お母さん」


「頑張ってね」


母は意味深に微笑んで、私を見送ってくれた。


大学に着くと、いつもより早く図書館に向かった。森田君はまだ来ていなかった。私は席について、告白の言葉を考えた。


『森田君、私はあなたが好きです』


シンプルすぎるだろうか。


『森田君と一緒にいると幸せです』


これも直接的すぎる気がする。


そんなことを考えているうちに、森田君がやって来た。


「おはようございます」


「おはようございます」


私は努めて普通に挨拶をした。


「今日もお弁当を作ってきました」


「ありがとうございます」


森田君も、昨日と同じように少し気まずそうだった。


私たちは無言で勉強を始めた。でも、集中できない。森田君の横顔を盗み見ては、告白の言葉を考えて、また本に目を戻す。そんなことを繰り返していた。


お昼になって、いつものように公園に向かった。しかし、なぜか今日は人が多い。大学生らしきグループがあちこちでお昼を食べている。


「今日は賑やかですね」


「そうですね」


私たちは人の少ない場所を探して、ベンチに座った。


「今日はサンドイッチです」


「美味しそうですね」


森田君は嬉しそうにサンドイッチを食べてくれたが、いつもより会話が少ない。私も緊張していて、なかなか言葉が出てこない。


「あの……」


意を決して口を開いた時、近くで学生たちの大きな笑い声が聞こえた。私は萎縮してしまった。


「何でしょうか?」


「いえ、何でもありません」


結局、告白のタイミングを逃してしまった。


午後の講義中も、私は森田君のことばかり考えていた。いつになったら勇気が出るのだろう。このまま何も言えずに時間だけが過ぎていくのだろうか。


講義が終わって、私は重い足取りで図書館に向かった。森田君は既に席に着いて、勉強していた。


「お疲れさまでした」


「お疲れさまです」


私も席に着いたが、全く勉強に集中できない。教科書を開いても、文字が頭に入ってこない。


「早川さん」


森田君が声をかけてきた。


「はい」


「今日は調子が悪そうですが、大丈夫ですか?」


「え?」


「さっきから、同じページを見ているようですが」


指摘されて、私は自分が三十分間同じページを見ていたことに気づいた。


「あ、はい。ちょっと考え事を」


「そうですか」


森田君は心配そうな顔をした。


「何か悩みがあるなら、聞きますよ」


彼の優しさに、私の胸が痛くなった。こんなに優しい人に、私の気持ちを押し付けていいのだろうか。


「ありがとうございます。でも、大丈夫です」


「そうですか」


森田君は少し寂しそうな顔をした。


夕方になって、私たちは図書館を出た。駅まで一緒に歩きながら、私は最後のチャンスだと思った。


「森田君」


「はい」


「あの……」


私は立ち止まった。森田君も足を止めて、私の方を向いた。


「森田君は、恋愛について、どう思いますか?」


突然の質問に、森田君は目を丸くした。


「恋愛ですか?」


「はい」


「正直なところ、よく分かりません」


森田君が困ったような顔をした。


「今まで考えたことがなくて」


「そうですか」


私は落胆した。彼には恋愛感情というものが分からないのかもしれない。


「でも」


森田君が続けた。


「最近、気になることがあります」


「気になること?」


「はい。誰かと一緒にいたいと思ったり、その人のことを考えると胸がドキドキしたり」


私の心臓が大きく跳ねた。


「それって……」


「恋なのでしょうか?」


森田君が真剣な顔で私に聞いた。私は答えに困った。彼の気持ちの対象が誰なのか分からない。


「多分、そうだと思います」


「そうですか」


森田君が安堵したような表情を見せた。


「その人って……」


私が聞こうとした時、森田君の携帯電話が鳴った。


「すみません」


彼は電話に出ると、少し困った顔をした。


「はい、分かりました。今から向かいます」


電話を切ると、彼は申し訳なさそうに私を見た。


「研究室から急な用事で呼ばれました」


「そうですか」


またしてもタイミングを逃してしまった。私は運命に見放されているような気がした。


「また明日」


「はい」


森田君は急ぎ足で去っていった。私は一人、駅前に取り残された。


家に帰ると、私は自分の部屋にこもって考えた。森田君も誰かを好きになっているらしい。でも、その相手が私かどうかは分からない。


もしかしたら、他に好きな人がいるのかもしれない。そう思うと、胸が痛くなった。


## 第十章 すれ違う想い


次の日、私はいつものように図書館に向かった。しかし、森田君の席は空いていた。待っても待っても、彼は現れない。


昼休みになっても、森田君は来なかった。私は一人でサンドイッチを食べながら、心配になった。体調でも崩したのだろうか。


午後の講義も上の空で、夕方になって再び図書館に行ったが、やはり森田君はいなかった。


「美咲、今日は元気ないね」


ひなたが心配そうに声をかけてきた。


「森田君に会えなくて」


「あー、彼のこと好きになったのね」


ひなたの指摘に、私は頬を赤くした。


「そんなに分かりやすい?」


「顔に書いてあるよ」


ひなたがくすくすと笑った。


「でも、彼も美咲のこと気に入ってるんじゃない?いつも一緒にいるし」


「分からない。他に好きな人がいるみたい」


「え?そうなの?」


私は昨日の会話をひなたに話した。


「うーん、でもそれって美咲のことかもしれないよ」


「そうかな」


「だって、美咲以外に親しくしてる女の子、見たことないもん」


ひなたの言葉に、私は少し希望を持った。でも、確証はない。


翌日も、森田君は図書館に現れなかった。私は心配になって、理学部の建物に行ってみることにした。


しかし、森田君を見つけることはできなかった。友達に聞こうと思ったが、彼には友達がいないと言っていたし、私も理学部に知り合いはいない。


三日目の午後、私は偶然森田君を見かけた。食堂で一人で食事をしている彼を見つけて、私は駆け寄った。


「森田君!」


彼は振り返って、少し驚いたような顔をした。


「早川さん」


「図書館にいらっしゃらないので、心配していました」


「申し訳ありません。研究が忙しくて」


森田君の表情は、以前より疲れているように見えた。


「体調は大丈夫ですか?」


「はい、大丈夫です」


でも、彼の答えには元気がなかった。


「お弁当、作ってきたんですけど……」


私が鞄からお弁当を取り出すと、森田君は困ったような顔をした。


「すみません、今日は時間が」


「そうですか」


私は落胆を隠せなかった。


「また今度、お時間のある時に」


「はい」


森田君はそう言って、急ぎ足で去っていった。


私は一人、食堂に取り残された。何だか森田君の様子がおかしい。以前の優しさが感じられない。


もしかして、私が重荷になっているのだろうか。毎日お弁当を作って、時間を割いてもらって。彼には迷惑だったのかもしれない。


そんな不安が頭をよぎった。


その夜、私は母に相談した。


「お母さん、もしかして私、迷惑をかけてるのかな」


「どうして?」


「森田君が、最近よそよそしくて」


母は私の話を聞いて、少し考えてから答えた。


「美咲、男の人は時々、自分の気持ちが分からなくなって混乱することがあるのよ」


「どういうこと?」


「好きな気持ちが大きくなりすぎて、どう接していいか分からなくなるの」


「そうなの?」


「美咲がそう思うなら、少し距離を置いてみたら?」


母のアドバイスを聞いて、私は決めた。しばらく森田君にお弁当を作るのをやめて、図書館にも行かないでおこう。


もし彼が私を必要としているなら、きっと連絡をくれるはずだ。


## 第十一章 心の整理


私が森田君との距離を置いて一週間が経った。お弁当も作らず、図書館にも行かず、いつもの生活パターンに戻った。


でも、彼のことを忘れることはできなかった。ふとした瞬間に彼の笑顔を思い出しては、胸が苦しくなった。


「美咲、最近元気ないわね」


心配した母が、夕食の時に声をかけてきた。


「大丈夫」


「森田君とは、どうなったの?」


「分からない」


私は正直に答えた。


「連絡はないの?」


「ない」


実際のところ、森田君からのメールも電話もなかった。やはり、私は彼にとって重荷だったのかもしれない。


「美咲」


母が優しい声で言った。


「時には、待つことも大切よ」


「でも……」


「あなたがその人を本当に大切に思うなら、相手の気持ちも尊重しなければならない」


母の言葉に、私はハッとした。確かに、私は自分の気持ちばかり考えていて、森田君の立場を考えていなかった。


彼が忙しいと言っていたのに、私はお弁当を押し付けようとした。彼のペースを尊重するべきだった。


「分かった」


私は母の前で微笑んだ。


「もう少し待ってみる」


でも、心の中では不安が大きくなっていた。


翌日、大学で私はひなたと一緒にお昼を食べていた。


「美咲、森田君と何かあったの?」


「どうして?」


「この前、一人で食堂にいるの見かけたから」


私は胸が痛くなった。森田君も一人でお昼を食べているのだ。


「ちょっと、お互い忙しくて」


「そう?でも、なんか寂しそうだったよ」


ひなたの言葉に、私は動揺した。森田君が寂しそうだったということは、私のことを思い出してくれていたのだろうか。


午後の講義中、私は集中できなかった。森田君の寂しそうな顔を想像すると、胸が締め付けられた。


講義が終わって、私は迷った。図書館に行こうか、それとも家に帰ろうか。


結局、私は図書館に向かった。もし森田君がいたら、話しかけてみよう。


三階の数学書コーナーに行くと、いつもの席に森田君がいた。一人で本を読んでいる姿は、以前と変わらない。


私は少し離れた席に座って、彼の様子を見た。確かに、どこか元気がないように見える。


どうしようか迷っていると、森田君が顔を上げて、私に気づいた。


「早川さん」


彼の声には、驚きと、そして安堵のような響きがあった。


「こんにちは」


私は軽く手を振った。


森田君は本を閉じて、私の方に歩いてきた。


「お久しぶりです」


「はい」


私たちは立ったまま、見つめ合った。


「お元気でしたか?」


「はい。森田君は?」


「僕も……」


森田君が言いかけて止まった。


「実は、早川さんにお話ししたいことがあります」


私の心臓が大きく跳ねた。


「何でしょうか?」


「ここではなく、静かな場所で」


森田君の真剣な表情に、私は緊張した。


「分かりました」


私たちは図書館を出て、いつもの公園に向かった。平日の夕方で、人はまばらだった。


ベンチに座って、森田君は深呼吸をした。


「早川さん」


「はい」


「この一週間、ずっと考えていました」


森田君が私を見つめた。


「僕の気持ちについて」


私は息を呑んだ。


「そして、結論が出ました」


森田君の次の言葉を、私は固唾を呑んで待った。


## 第十二章 それぞれの想い


「僕は、早川さんが好きです」


森田君の言葉に、私の時間が止まった。


「え?」


「恋愛感情として、好きです」


森田君は真っ直ぐに私を見つめて言った。


「でも、僕には恋愛の経験がありません。どう接していいか分からなくて、混乱していました」


私は夢を見ているような気分だった。森田君が、私を好きだと言ってくれた。


「この一週間、早川さんに会えなくて、やっと気づきました。僕にとって、あなたはかけがえのない存在だということに」


「森田君……」


「早川さんは、僕をどう思っていますか?」


森田君の質問に、私は涙が溢れそうになった。


「私も、森田君が好きです」


「本当ですか?」


「はい。ずっと前から」


私の告白に、森田君の顔がぱっと明るくなった。


「良かった」


彼は安堵のため息をついた。


「僕なんかでいいんですか?友達も少なくて、不器用で」


「そんなこと言わないでください」


私は慌てて首を振った。


「森田君は優しくて、頭が良くて、素敵な人です」


「早川さん……」


「私の方こそ、不器用で失敗ばかりで」


「それがチャーミングだと言ったでしょう」


森田君が微笑んだ。その笑顔を見て、私の胸は幸せでいっぱいになった。


「では……」


森田君が少し照れながら言った。


「僕たち、恋人同士ということになるんでしょうか?」


私は頬を赤くして頷いた。


「はい」


公園の夕日が、私たちを温かく照らしていた。桜の花は散っていたが、新緑が美しく、鳥たちが楽しそうにさえずっている。


「早川さん」


「はい」


「改めて、よろしくお願いします」


森田君が深々と頭を下げた。


「こちらこそ」


私も頭を下げた。


「あの……」


森田君が恥ずかしそうに言った。


「名前で呼び合いませんか?」


「え?」


「美咲さん」


森田君が私の名前を呼んだ。その響きが、とても新鮮で嬉しかった。


「和希君」


私も彼の名前を呼んでみた。和希君の頬が、ほんのり赤くなった。


「なんだか照れますね」


「そうですね」


私たちは顔を見合わせて、くすくすと笑った。


「明日から、またお弁当を作ってもいいですか?」


「ぜひお願いします」


和希君が嬉しそうに答えた。


「今度は、彼氏のためのお弁当ですね」


「彼氏……」


私はその言葉の響きに、胸がきゅんとした。


「僕も、彼女のために何かしたいです」


「何か?」


「まだ分からないですけど、美咲さんが喜ぶことを考えます」


和希君の言葉に、私は幸せな気持ちになった。


私たちは手を繋いで、駅まで歩いた。和希君の手は温かくて、大きくて、とても安心できた。


「美咲さん」


「はい」


「僕たち、不器用同士ですが、一緒に成長していけるでしょうか?」


「はい」


私は力強く頷いた。


「きっと大丈夫です」


駅で別れる時、和希君は少し躊躇してから言った。


「あの……」


「はい?」


「今度、デートしませんか?」


「デート!」


私の声が大きくなって、和希君が慌てた。


「嫌でしたら……」


「嫌じゃありません!したいです!」


私の返事に、和希君がほっとした顔をした。


「それでは、今度の休日に」


「はい!」


## エピローグ 二人の成長


それから三ヶ月が経った。


私と和希君は、お互いの不器用さを支え合いながら、少しずつ恋人らしくなっていった。


「美咲、今日のお弁当も美味しかったです」


「ありがとうございます」


私たちは相変わらず、公園でお弁当を食べている。でも、今では手を繋いだり、時々和希君が私の肩に頭を預けたりするようになった。


「そういえば、来週の文化祭、一緒に回りませんか?」


「文化祭?」


「はい。美咲の文学部の出し物も見たいですし」


「恥ずかしいです」


私は頬を赤くした。文学部では朗読劇をやることになっていて、私も小さな役で参加する予定だった。


「大丈夫です。美咲なら、きっと素敵な演技をしますよ」


和希君の励ましに、私は勇気をもらった。


「和希君が見ていてくれるなら、頑張れます」


「僕も、研究発表があるんです」


「見に行きます!」


私は目を輝かせた。和希君の研究は難しくて理解できないかもしれないが、彼が頑張っている姿を見たかった。


「ありがとうございます」


和希君が微笑んだ。昔は無表情だった彼が、今では自然に笑顔を見せてくれる。


「美咲」


「はい」


「僕、変わったでしょうか?」


「どういう意味ですか?」


「前は一人でいることしか知らなかったけれど、今は美咲と一緒にいることが一番幸せです」


和希君の言葉に、私の胸が温かくなった。


「私も変わりました」


「どんな風に?」


「前は失敗を恐れてばかりいたけれど、今は和希君がいるから、色々なことに挑戦したくなります」


実際、この三ヶ月で私は随分積極的になった。料理のレパートリーも増えたし、人前で話すことも少し得意になった。


「お互いに成長しているんですね」


「そうですね」


私たちは手を繋いで、キャンパスを歩いた。すれ違う学生たちが、時々私たちを見て微笑んでいる。


「氷の王子様も恋をするんだね」


そんな声が聞こえてきて、和希君が少し照れた。


「もう氷の王子様じゃありませんね」


「今は何ですか?」


「美咲の彼氏です」


和希君が恥ずかしそうに答えて、私は笑ってしまった。


「私も、和希君の彼女です」


夕日が校舎を照らして、私たちの影が長く伸びている。もうすぐ夏が来る。きっと、これからも色々なことがあるだろう。時には喧嘩をするかもしれないし、すれ違うこともあるかもしれない。


でも、大丈夫。私たちは不器用だけれど、お互いを思いやる気持ちを持っている。その気持ちがあれば、どんな困難も乗り越えられる。


「美咲」


「はい」


「これからもよろしくお願いします」


「こちらこそ」


私たちは微笑み合った。


不器用な二人の恋の物語は、まだ始まったばかり。でも、お互いを支え合いながら、きっと素敵な未来を築いていけるだろう。


コーヒーをかけてしまった、あの日の失敗が、こんなに幸せな出会いに繋がるなんて、人生は分からないものだ。


でも、だからこそ面白い。


私たちの不器用な恋は、これからも続いていく。


【完】

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ちょっぴり不器用な恋の育て方 トムさんとナナ @TomAndNana

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