第3話『唐揚げとラストイリュージョン』





夕暮れのオレンジ色が、街路樹の影を長く伸ばしている。映画のチケットの半券を指でいじりながら、私、高橋美咲は、隣を歩く彼、拓也の横顔を盗み見た。今日のデートも、もうすぐ終わりだ。名残惜しさが、胸に重く募る。


「楽しかったね、今日の映画」

私がそう言うと、拓也は少し照れたように「ああ、うん」と頷いた。


改札がもうすぐそこに見えてきた、その時だった。勇気を振り絞って、私は立ち止まった。


「ねえ、うちに来ない?」


その言葉は、拓也の思考回路を焼き切るには十分すぎた。

「え?」

彼の目が、見たこともないくらい大きく見開かれる。嬉しいとか、そういう次元の話ではない。あまりにも飛躍しすぎた展開に、脳が完全にフリーズした。


「いや、あのさ、急に押しかけても悪いし…」

我ながら、なんて律儀な人だろうか。頭に浮かんだ、一番模範的な断りの文句が、そのまま口から滑り出たみたいだ。私は、ぱあっと顔を輝かせる。

「え? 全然悪くないよ! うちのお母さんの唐揚げ、絶品なんだから!」


「ハハハ……」

食い下がる私に、拓也は乾いた笑いを漏らすしかなかった。

「まいったな……いや、そういうことじゃなくて」


「じゃあ、なんで?」

「……いや、だって、『うち』って……実家だろ?」

彼がぽつりと呟くと、私は「うん!」と満面の笑みで頷いた。

「女の子の実家に、さ。男がいきなり上がるのって」

勇気を振り絞って口にした言葉は、自分でも驚くほどか細かった。

「……まずいだろ?」


彼の葛藤が痛いほど伝わる。これはもう、個人の内面や二人の関係性の問題じゃない。私の「家族」という、彼にとって未知のコミュニティに、たった一人で飛び込む覚悟を問うているのだ。彼の人生設計という壮大な物語に、私の家族という新しい登場人物を、いきなり投げ込むようなものだから。


私の笑顔が、すっと消える。掴んでいた彼の袖の力が、少し弱まる。さっきまで気にならなかった電車の通過音が、やけに大きく耳に響いた。


「……それって」

私は、わざと俯いて震える声で呟いてみた。

「私の家族に会うのが怖いってこと…? それとも、私たちの将来、考えられないってこと…?」


「違う! 全然違う!」

咄嗟に、拓也は私の両肩を掴んでいた。一番言わせたくない、というか、現時点では考えたくもない単語が飛び出してしまったことに、彼自身が狼狽えている。

「そうじゃなくて! 大事だから…美咲のことが、すげえ大事だから、だからこそ、なんていうか…俺の覚悟が、まだ…追いつかないっていうか…」


顔が熱い。何を言っているんだ俺は、とでも言いたげな彼の表情。それでも、本心を伝えてくれたことが、たまらなく嬉しかった。


私はしばらく目を丸くして、ぽかんとしていた。そして、ふっと息を吐き出すと、次の瞬間、くすっと笑った。


「拓也って、ほんと面白い」

夕日に照らされた彼の頬は、私の顔と同じくらい、赤く染まっているように見えた。

「……じゃあ、行こっか」

「え?」

「拓也の『覚悟』が本物か、うちの家族に証明してきてよ」

悪戯っぽく笑う私に、拓也はもう、白旗を上げるしかなかった。



「た、ただいまー…お客さん、連れてきたよー…」

玄関のドアを開け、私が恐る恐る声をかけると、拓也はコンビニで買った高級カステラを震える手で握りしめている。


「あら、拓也くん!いらっしゃーい!」

エプロン姿の母が、満面の笑みで現れた。

「話は美咲から聞いてるわよ!ささ、上がって!ちょうど唐揚げが揚がったところだから!」


当たり前のように名前を知られ、当たり前のように食卓に案内される。彼はもう、まな板の上の鯉だった。


「なにか飲む?」

「あ、ああ!」と、ソファで直立不動の拓也に、私は尋ねる。


と、その瞬間、彼の目はリビングの隅にあるガラスケースに釘付けになった。

そこに鎮座していたのは、伝説のイリュージョニスト、プリンス天功がかつてショーで使用したという、いわくつきの「脱出ボックス」のミニチュアレプリカ。その横には、サイン入りのシルクハットとステッキまで飾られている。


「うわ、これ…! 初代プリンス天功のラストイリュージョンで使われた『奇跡の箱』の公式レプリカセットじゃないか! しかも友の会限定販売のシリアルナンバー入り! お父さん、これ持ってたのか!」


「……え?」

今度は私が目を丸くする番だった。

「な、なんで知って…」

「え、俺、親父の影響で大好きなんだよ! 小さい頃、ビデオが擦り切れるまで見てたもん!」


そう言って、拓也は無意識に、覚えたてのカードマジックの指つきでシャッフルする素振りを見せていた。


「あらあら、拓也くん、奇術が好きなの?」

キッチンから顔を出した母が、嬉しそうに言う。

「うちのお父さん、週末は地域の子供会でマジックショーやるのが趣味なのよ。きっと話が合うわ!」


拓也は、手に持っていたカステラの箱が手汗でふやけていくのも忘れ、その場で固まっていた。

覚悟がどうとか、人生設計がどうとか、駅前で悶々と悩んでいた彼の姿はどこかへ消え去っていた。彼の前に立ちはだかっていた「家族」という巨大な壁が、まるでイリュージョンのように、あっけなく消え去ったのだ。


照れくささと、自分の不甲斐なさと、そしてどうしようもない安堵感を隠すように、少しぶっきらぼうな声で言った。

「ほら!」


カステラの箱を差し出すと、私はそれを受け取りながら、彼の耳元でそっと囁いた。

「ね、言ったでしょ。証明してきてって」

花が綻ぶような、満開の笑顔で私は言う。


「さあ、拓也くん!唐揚げ、冷めないうちに食べて!レモンかける?」

母の声に、拓也はもう、何もかもどうでもよくなっていた。


この家に、彼がいる。

そして、彼の少し変わった趣味を、私の父が共有してくれている。

揚がりたての唐揚げの香ばしい匂いに包まれながら、彼は、ありえないはずの奇跡が現実になるという、甘く幸福な「ラストイリュージョン」の目撃者になっていた。


現実の家族関係は、もっと複雑で、困難なことの方が多いのかもしれない。

でも、今はそれでいい。

こんな奇跡みたいな瞬間が一つあるだけで、きっと、私たちはどんな未来だって受け入れていける。


実家に呼んで、本当に良かった。

私は拓也の隣に座り、レモンを搾りながら、心からそう思った。

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『君の部屋まで、あと何センチ?』 志乃原七海 @09093495732p

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