第036話「信頼という賭け」
夜。
財閥本社ビル六十六階、副総帥室。
眼下には、宝石をちりばめたような東京の夜景が広がる。
その神の視点とも言える玉座で、相川リゲルは静かに執務を続けていた。
その部屋には、もう一人。
昼の戦闘で狼の群れを蹂躙した半吸血鬼、
その態度は、どこかぎこちなく、そして不機嫌そうだ。
口元のマスクは外され、その下にある整った、しかし人間離れした美貌が露わになっている。
彼とリゲル、二人だけの空間。
そこに流れる空気は、昼間のブリーフィングルームのそれとはまったく違う、穏やかで、そして親密なものだった。
やがて、その沈黙を破ったのは獅亞鈴の方だった。
「――あれでよかったのか?」
その声には、昼間の傲慢な響きはない。
ただ純粋な疑問と、そしてわずかな懸念が滲んでいた。
リゲルは山と積まれた書類から顔を上げることなく、にこやかに礼を言った。
「ええ。一芝居お付き合いくださり、ありがとうございます」
「まったく、普通の人間ならアレで心が折れるぞ。再起不能になりかねん」
「折れるなら、その程度の器ということです。
ただ、アキラさんは折れないと私は信じていましたよ。折れるくらいなら、そもそも最初の……あの敵対的買収の無茶な案件を押し付けられた時点で折れていたでしょう」
リゲルの言葉に、亞鈴はふんと鼻を鳴らした。
だが、その瞳の奥にある疑念はまだ晴れていない。
リゲルはペンを置くと、ようやく亞鈴の方に向き直った。
その蒼い瞳は、すべてを見通している。
「亞鈴。あなたは一度、人間に深く絶望した身です。
あなたのその両眼の魔眼に恐れをなして、あなたを迫害してきた者達と同じように、あのアキラさんが映った。そうでしょう?」
「……ああ」
亞鈴は忌々しげに頷いた。
「あの男の目は、あの時の連中と同じだ。
無知で、臆病で、そして弱い。そんな男に俺たちの命を預けろと?」
「でも、それはアキラさんがまだ何も知らないからです」
リゲルは静かに言った。
その声には、絶対の確信がこもっている。
「彼はいい司令官になりますよ。
部下を駒だと思わず、一人の人間として捉えられる。
――きっと君たちのことも、理解さえされれば化け物だとは思われなくなる」
「……」
「あなたが人間を憎む気持ちは分かります。ですが、すべての人間が愚かではないことを、あなたは本当はもう知っているはずだ」
「――リゲルは最初からそうだっただろうが」
亞鈴は吐き捨てるように言った。
彼の脳裏に、三年前の記憶が鮮やかに蘇る。
今の主である大吸血姫・
当時の彼は、まだ人間への憎悪の炎にその身を焼かれていた。
人間は皆、愚かで醜く、そして自分を恐れ迫害する存在。
そう信じて疑わなかった。
砕鈴に紹介された交渉相手は、まだ十七歳の少年だった。
相川財閥の次期総帥。
相川リゲル。
亞鈴は値踏みするように、その少年を見た。
どうせこいつも同じだ。
俺のこの魔眼を見れば恐怖に顔を引きつらせるか、あるいはその力を利用しようと卑しい欲望を剥き出しにするか。
そう思っていた。
だが、リゲルの反応は亞鈴の予想を完全に裏切った。
彼は亞鈴の、その忌まわしいはずの二色の瞳を、まっすぐに見つめると。
何の恐怖も、何の欲望も見せず。
ただ純粋な感嘆の響きをその声に乗せて言ったのだ。
「――綺麗な目ですね」
その目で見られると不幸になる。
化け物の目。
呪われた瞳。
そう言って石を投げられ、家族にすら疎まれてきた彼の魔眼を。
この少年は、ただ美しいと言った。
そのあまりにも真っ直ぐな言葉に、亞鈴は頭を殴られたような衝撃を受けた。
こいつは違う。
俺が今まで出会ってきた人間とは、まったく違う。
その瞬間に、亞鈴の中で凝り固まっていた人間への憎悪の氷が、ほんの少しだけ溶け始めたのだ。
――回想が終わる。
目の前で、リゲルが優しく微笑んでいた。
その顔は、三年前のあの日の少年の面影を色濃く残している。
「はい。不条理に立ち向かってくれる方々は、私にとっていつだって信頼の置ける大切な仲間ですからね?」
その言葉が、亞鈴の心の奥深くにすとんと落ちていく。
そうだ。
この男は、そういう人間だった。
種族も、過去も関係ない。
ただ、その魂の輝きだけを見つめる。
だからこそ、自分も砕鈴も、そしてあの怪物たちも彼に惹きつけられるのだ。
木村アキラという男。
あの男もまた、リゲルが選んだ「仲間」。
――ならば、信じてみるしかないのかも、しれない。
たとえその目が、まだ自分たちを化け物としてしか見ていなかったとしても。
「……好きにしろ」
亞鈴はぶっきらぼうにそう言うと、ソファから立ち上がった。
「だが次はないぞ。次にあの男が判断を誤れば、俺は俺のやり方でやらせてもらう」
「ええ、構いませんよ。その時はどうぞご自由に」
リゲルは楽しそうに笑った。
亞鈴はそんな彼に背を向けると、一言も言わずに副総帥室を後にしていく。
その去り際の横顔が、ほんの少しだけ柔らかく見えたのは――、
夜景がもたらした光の錯覚だったのかもしれない。
中間管理職、怪物共の参謀にさせられる。 ~機密統合戦略室奮闘記~ 天御夜 釉 @yu_amamiya
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