(3)

 ラケットで送り出したシャトルがふわりと弧を描き、相手もそれをとらえて柔らかく打ち返す。てんっ、てんっという気の抜けるような音が延々と続くことが、私は嬉しくてたまらなかった。

 大賑わいの児童館で、私たちは奇跡的にバドミントンのコートを確保することができた。お互いラケットの正式な持ち方もルールも知らない。だけど、ただシャトルを打ち合っているだけで面白かった。

 帽子をかぶったミケが、ネットの向こう側にいる。時おり目が合って、どちらからともなく笑う。

 私たちは今、うるさくない喧騒の中にいた。もしマンカラの箱を見せられたって、そんなの全然眩しくない。

「あっ、ごめん!」

 ミケが叫ぶと同時に、シャトルがあらぬ方に飛んでいった。

「大丈夫大丈夫! とってくるね!」

 つるつると床を滑っていったそれを追いかける。手を伸ばして、それを拾おうとしたとき。

「ソラちゃん?」

 頭上から声が降ってきた。

「アイちゃん、カオルちゃん」

 顔を上げた私がそう言うと、それが合図だったみたいに、あの日と同じ二人がそばに寄ってきた。

「バドミントン?」

「誰と来てるの?」

「えっと……親戚の子」

 私がコートを振り返ると、二人もそちらを覗き込んだ。気づいたミケが、まん丸の目でこっちを見つめ返している。

「二年生くらい?」

「ねえ、私たちも入れてくれない? バドやりたいんだけど、コートあいてなくて」

 正直、嫌だなと思った。でも二人はこの前、私を仲間に入れてくれたし、私も「また遊ぼうね」と言ってしまった。

 選べる言葉はひとつしかなかった。


「あっつい!」

「休憩休憩!」

 アイちゃん、カオルちゃんがラケットを放り出し、床に座り込んだのを見て、私とミケはほっと目配せしあった。

 ただラリーを続けていたときと違って、二人は試合みたいにスマッシュを打ってきたりするから、のんびりした雰囲気は一気に掻き消えてしまった。二人に振り回されて、慌ててラケットを持つ腕を伸ばしたり、走ったり。しかも二人はバドミントンが上手いわけじゃなかったから、結果的に四人全員がバタバタした動きになって、コートの外にシャトルが飛んでいく頻度も増えた。それを回収しに走ったから、余計に疲れたし、汗もかいた。

「……大丈夫?」

 汗だくのミケにこそっと話しかける。口じゃなくて頭のお皿で水を飲むミケは、一度も水分補給ができていない。その上、お皿を隠すためにかぶっている帽子のせいで、熱がこもって余計に暑いはずだ。なのに。

「バドミントンって楽しいね」

 ミケはそう言って、へにゃっと笑った。

「ねー、暑いからアイス買いに行こうよ」

 そこに二人が割り込んできた。

「外の自販機のやつ。コートももう交代の時間だし」

 思わず、イラッときた。無駄に動く羽目になったのは二人のせいじゃないか。それにアイスを買ったって、ミケは食べられない。そんな可哀想なことできるわけがない。

 無性に腹が煮えてきた。イライラにまかせて、噛みつこうと一歩前へ出る。でも、そんな私をミケがぐっと押し戻した。

「いいね。行こう!」

 どうして。と見やると、ミケはやっぱりへにゃっと笑った。そのこめかみから汗が垂れてきて、顎に向かって一直線に落ちていった。


 児童館の横には自販機が三台ある。

「あれ、ソラちゃんたち買わないの?」

 すでに自分のアイスを手に持った二人が、不思議そうに首を傾げた。

 お小遣いが足りなくて。私が適当な理由をでっち上げようと口を開きかけると、またミケがそれを遮った。

「ソラはどれにするの?」

 ミケの馬鹿。私がアイスを買う前提のその言葉は、引くに引けない状況を作り出した。

 心の中で泣きそうになりながら、私はイチゴアイスのボタンを押した。

「溶ける~!」

「裏行って食べよう! 日陰じゃないと死んじゃう!」

 児童館の裏は林になっていて、虫は来るけど日差しは避けられる。まだミケのアイスを買っていないのに、二人はさっさと歩き出した。好都合だ。

 その後をゆっくり追いつつ、ミケを小突く。

「なんであんなこと言ったの?」

「うーん。あいすってどんな食べ物? 二人きりのときなら僕にも食べられる?」

 質問に答えず、にこにこしているミケはズルいと思った。

「食べられるよ。アイスはあったまると溶けるもん」

「やったあ!」

 ため息をひとつ。イライラや納得いかない気持ちをそれにのせて吐き出すと、空いたスペースにワクワクが満ちた。

「家に帰ったら食べよう。冷凍庫に入ってるよ」

「本当? 楽しみ!」

 無邪気に喜ぶミケを見て、私も嬉しくなった。

 建物の角を曲がる。私たち四人以外誰もおらず、薄暗くて児童館の音もなんだか遠いここは、ちょっと別世界のようにも感じた。

 アイちゃんとカオルちゃんは、私たちを待たずにもう食べ始めていた。アイスにかじりついたまま、ちろりと目だけで私たちの方を見る。

 と、その目が見開かれた。

 ピタリと動きを止められて、私たちも何事かとその場で立ち止まる。アイスを口から離した二人は、ゆっくりとミケを指差した。

「足……」

 そう言われてミケの足に目をやって、私は考えるよりも先に自分の体で二人からの視線を遮った。

「足が緑色……」

「どうしたの、それ」

 両腕を大きく広げて隠そうとしたけど、二人はどんどんこっちに歩いてくる。逃げる間もなく、覗き込まれてしまった。

 途端に悲鳴があがる。

「気持ち悪い! 何これ……蛙?」

「げえーっ、無理無理無理っ!」

 ミケは愕然と自分の両手を見下ろしていた。その手もみるみるうちに緑色に変わっていく。髪の毛もぼうぼうと簑のように戻って、帽子がはらりと落ちた。

「嘴……!」

「えっ、頭にお皿……えっ、えっ?」

 やっぱり無理してたんだ。そう思って、私は二人を仲間に入れたことを、そして休憩や帰るという判断をしなかった自分を悔やんだ。

 私とミケが黙っている間にも、二人のパニックはどんどんひどくなっていく。怯えて悲鳴をあげて泣いていたのが、次第に汚い罵りに変わっていった。

「ほんと最悪! 騙された!」

「変な菌とかバラまいてないよね?」

「化け物が児童館になんか来るなよ!」

「ソラちゃんも、こんなのと遊ぶなんてどうかしてる!」

 カッと頭に血がのぼって、気づけば私はアイちゃんを殴り飛ばしていた。食べかけのアイスが地面に落ちる。鼻血が出たのか、口が切れたのか。赤いものがパッと散った。

 右手が痛い。肩で息をしながら、私は握りしめた拳をさらに握りしめた。

 破壊したい。妬ましい。ひとりぼっちじゃないお前らにはわからないだろう。静寂がどんなにうるさいか。食事という作業がどんなに苦しいか。

 放ったらかしにされて、誰からも見られない。天国なんかじゃない。地獄だよ。

 渇いて渇いて仕方がなかった。そんな私の元に来てくれた慈雨が、ミケだったんだ。

 立ち上がりかけたアイちゃんを、もう一発殴ってやろうと思って一歩踏み出した。そのとき、私の横をヒュッと風が通り抜けた。

 短い悲鳴があがって、アイちゃんが引き摺り倒される。そこに馬乗りになっていたのはミケだった。表情の抜け落ちた顔に、血走った目だけが爛々と輝いている。

 その豹変ぶりに混乱した。一方で、冷静に状況を見てもいた。

 血だ。ミケのお皿に血が飛んだんだ。ミケは、アイちゃんの血を食べた。

 殴りかかろうと、ミケが拳を振り上げた。アイちゃんが咄嗟に両腕で顔をかばう。ハッとしたカオルちゃんが握りしめていたアイスを投げ捨てて、「やめてっ!」と止めに入った。

 でもミケの力は相当強かったみたいだ。全然止めきれなくて、アイちゃんもカオルちゃんもボコン、ボコンと殴られた。痛い、ごめんなさいと声があがった。

 それを見ていた私の喉の奥がクッと鳴った。それから「あっははははは!」と大笑いした。


「たった数滴だよね。なら、もっと注いだらどうなるんだろう?」

 二人が這々の体で逃げて行った後、ミケの動きは止まった。座り込んだままうつろな目をして、萎れた植物みたいに静かになった。

 そんなミケに一方的に話しかけながら、私は頭のお皿に水筒の水を注いでいた。注いだそばから吸収されて、すぐに渇いてしまう。それが少しずつ潤ってきた頃、「ん……僕……」とミケが身動いだ。

「大丈夫?」

「ごめん、変身がとけちゃって……それで……どうなったんだっけ?」

 覚えてないんだ。ふーん。そう思いながら、私は黙ってミケのお皿を見下ろした。吸収が緩やかになって、少しだけ水がたまっている。ミケのお皿だって、たっぷり水をやればちゃんと潤うのだ。

 それを見ていたら、私の中によくわからない衝動が生まれた。

「何するの!?」

 かすかな抵抗を無視して、私はミケの頭をぐっと引き寄せると、そのお皿に口づけた。唇をすぼめて、水を啜る。

「や、やめてよぅ」

 その震える声も無視して、お皿をべろりと舐める。私が潤いを分けてもらっているのか、それともミケに糧を与えているのか。

 唾液でも河童は豹変するんだろうか。

 かすかにミケの息が荒くなったのを感じて、やっぱり河童は人を食べるんだと思った。

 ミケを解放して、口の端をぐいっと手の甲で拭う。

 私は理解した。何を食べて、何を飲んで、何で満たすかというのは大事なことなんだ。それによって生き物は形作られるから。

 家に帰ったらミケに血をあげよう。私はそう心に決めた。

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渇き きみどり @kimid0r1

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