4 〜赤髪の領主は傷を隠す〜

カリナは茫然として、朝を迎えた。

このファングの屋敷の、夫婦の共用寝室。


今、寝台には、自分一人分の温もりしかない。

ファングは既に、隣にはいない。


……初めて迎える肌寒い朝に、どうしていいかわからない。


夜着の上に薄物を羽織って、そぅっと、ファングの執務室を覗く。


ファングはちょうど、こちらに背を向けて着替えていた。

王都のなよなよした若者とも、でっぷりと肉のついた中年とも違う。

分厚く逞しい身体を惜しげもなくさらしている。

背中の無数の傷痕は、戦いで負ったものだろうか。

ファングの手が一瞬、カウチの方へ伸ばされ、だがその脇のテーブルに置かれた衣類をつかんだ。

無造作にばさりと白いシャツを着込み、その傷を隠してしまった。


「……背後に視線を感じるのは、少々気に障る」


ファングが苦笑まじりに言って、此方を振り返る。


「おはよう、カリナ嬢。……旅の疲れは取れましたかな?」


落ち着いた低い声で挨拶してくれる。


確かに大きな寝台に設えられた寝具はどれも高級で、体の痛みもなく、一晩を過ごせた。


だからこそ、余計に。

一人で目が覚めて、……とても不安だった。


「あの昨夜は……私では、その……お気に召さなかったのでしょうか」


震えながらカリナは聞いた。


「……なんだと?」

ファングの目が鋭くなる。


昨夜、寝室を訪れた男の視線が、とても痛くカリナに突き刺さる。


「私の、務めは…………」

かたかた震えながら言うカリナにファングは、ずいと身体を寄せた。


荒っぽくカリナの手首を捕らえ、肩にかかる羽織を払い除ける。


部屋に差し込む朝焼けの光の中、夜着の下の体が透けて見えそうで、カリナは恥ずかしかった。


「……全く。なんて寒そうな格好をしているんだ、カリナ嬢」


ファングの手がそっとカリナの腕を離す。

そしてカリナの髪を優しく、不器用に梳いた。


「……そう怯えるな。何を勘違いしている? 寝室だって、別だったろうが」


そう、ファングは昨夜、寝室へはカリナの様子を見に来ただけだ。

そっと寝台に腰掛けて、カリナに掛け布団の具合を聞いただけで、自分は執務室のカウチで眠ったのだ。


純潔を捧げることへの恐怖は確かにある。

一方で、閨事を求められないことも、カリナは不安だった。


「ですが、婚約は」

「言っただろう、俺は嫁など……」

ファングの言葉に、カリナはぐっと唇を噛んだ。


本当に、治癒師の力だけが求められているのだろうか。

こんなにも異能者が既にいる場所で、本当に自分は必要とされるだろうか。


治癒師として生きていくということは、貴族の妻という身分も得られないという意味にもなる。

そうなれば、王弟の血族である自分は、どうなってしまうのだろうか。


もしローヌルフ卿に婚約を撤回されてしまったら。

自分は再び父の元へ返され、……他の縁談候補のもとへ嫁がされてしまうのだろうか。


父が手を組みたいと考えている先は、この辺境伯やアコー侯爵家以外にもあるのだ。


南の港を仕切る侯爵家は、正妻が亡くなって跡継ぎもおらず、60歳目前の当主が……商家の娘,それも40歳も年下の娘を妾に侍らせながら、爵位の釣り合う後妻を募っていた。


あぁいう家に嫁がされて、異能と銀髪を隠して、ひたすら子を産まされるのだろうか。


考えただけで悍ましい。


貴族の令嬢として、子を産む腹にされるなら。

せめて、この異能と銀髪を受け入れてもらえるほうが良い。


こうなったら、……婚約破棄されないためだけに、……


女から求めるなどはしたないことだけれど。

ここを出されたら行き場のないカリナは、なりふりかまっていられなかった。


「……ローヌルフ卿。……どうか、婚約の撤回だけは、私の、……純潔を、……」


涙をこぼしながら訴えるカリナに、ファングはため息をついた。


こんな、まだ年若い娘に手を付けるなど、どうして出来よう。

自分のような、三十路前の男に穢されるなんてあまりに不憫だ。


閨でどんな苦痛と恥辱を強いられるのかも知らない無垢な娘が。

初夜を拒まれて混乱しているのか。


肌の色の透けるような薄い夜着を纏わされ、望まぬ婚約で娶せられた相手に震えながら身を差し出そうとしているなんて。


己の価値をそこにしか見いだせないなんて。


なんとも痛ましい姿だ。


「……なに、俺はそれなりに頭の古い男でな。成婚までは、そのようなことをせん」


ファングはカリナにそう言った。



ファングの口から成婚と聞いて、カリナの体から力が抜けた。よほど安心したのだろう、また泣きそうになっている。


「……朝餉まで、部屋でゆっくり過ごしなさい。見繕いに侍女の手が必要ならミディを呼べ」


カリナにそう指示して下がらせると、ファングは執務室で頭を抱えた。


正直なところ、カリナをどうするか、決めかねていた。


ビクセル公爵家がこちらに対して為した,婚約者の取り替えは、ローヌルフ辺境伯への侮辱だ。

取り決めをこちらへ一言の相談もなく違えてきたのだから。


本来なら昨日の時点で、カリナの身柄も公爵家に突き返すべきだった。


だが、供もつけず単身で来ている娘をそのまま返すことはできなかった。

しかも、このカリナは、異能持ちだ。

それも治癒の異能。

だから、カリナを雇えるなら雇いたいのは本心だ。


だが、婚約は別だ。

そのやり取りの間はカリナの身柄を預からねばならないし、……昨今の、婚約から成婚までの間の、通い期間が省略される風潮のせいで、夫の家に娘が立ち入り一夜を過ごした時点で、既成事実が懸念されてしまうのも分かっている。


それに、先ほどの朝のカリナの言葉から、察するものがあった。


婚約破棄を回避するために純潔をもらってくれと、令嬢自ら言わねばならないとは。


治癒の異能を認め受け入れることだけでは、この娘は救われない。


公爵家令嬢、それも王弟の血筋という重いものを背負う彼女は、己の政略的道具としての価値も理解しているだろう。


「貴族の令嬢としての教育は、刷り込まれすぎているしな、あの娘」


それに。

おそらく他の貴族がカリナに求めるのは、金髪翠眼の子どもだ。

……カリナにどこまでその自覚があるかは知らないが。


それがもし異能持ちや銀髪の赤子を産んだら、どんなひどい目に遭わされるか。


……望みの子を産めるまで、繰り返し欲望のはけ口にされるだけだ。


跡継ぎを生むことが貴族の女性の宿命だとしても。それではあまりにも酷な人生だ。


稀代の複数異能と、赤い髪と菫色の目を持つ

ファングはそれを身を以て知っている。


「……嫁など、要らんのだがな」



ローヌルフ辺境伯 ファング・ヴァングル・ウリャフトは重く呟くと、執務机に向かった。

家紋を漉き込んだ特別な証紙に、達筆の文字をしたためる。

上質な紙の封筒に書状を入れ、滅多に使わない指輪印章を引き出しから取り出す。

己の家紋、樹上の鷹の印を、深紅の蝋に捺した。


「お前の出番だぞ、ハウクル赤き鷹



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