第28話 容疑

 部屋に戻るとすぐ原稿を書き始めたものの、途中で行き詰まってしまった。茜の死体が湖に移動した謎を解き明かさなくては、事件は解決しない。

 僕は窓辺に立ち、障子戸を開けて、土砂降りの雨に打たれている巨大井戸を眺めた。遠くのほうから時折、稲光がして雷鳴が聞こえてくる。

 僕は目を閉じて、事件が起こった時の状況をもう一度思い出してみることにした。あの夜僕は由衣の部屋で、由衣の書いた小説を読んでいた。すると、どこかから突然、

 キィ――キィ――キィ――キィ――

 という音が聞こえてきて……そうだ、あの時、隣の部屋から歩美が顔を出して、由衣は窓のほうへ顔を向けていた。それから何かが水の中に落下する音が聞こえてきて、

『茜ちゃんが井戸の中に落ちた』

 由衣にそう言われて、慌てて外に飛び出して井戸のほうへ駆けた。そして井戸の中を覗き込むと、茜が両腕を上げて何かに引っ張られるようにして、井戸の底へと沈んでいく姿が見えたんだ。茜は確かにあの井戸の中に沈んだはず……。

 いや、そもそも茜はどうやってあの井戸の中に入ったんだ? 金網には、茜が通り抜けられるような隙間なんてなかった。鱒沢警部の話では、形状記憶合金でも何でもない普通の金網だということだ。しかも事件の後にはずっと、あの井戸の周辺には警官の見張りがついていた。不審な人物が近づけば、僕と伊勢谷くんがそうだったように追い払われるに決まっている。

 ダメだ。僕にはさっぱりわからない。頼みの綱は伊勢谷くんの推理だけだけど、もったいぶって何も教えてくれない。

 座布団に腰を下ろして書きかけの原稿を見つめながらため息を吐いた。しばらくボンヤリしていると、お腹が鳴った。時計に目をやると十二時を過ぎていた。ちょうどその時、ドアがノックされた。

「はい?」

「お昼食をお持ちしました」歩美の声だ。グッドタイミング。

「どうぞ」

「失礼します」

 食欲をそそる匂いが漂ってくる。

「警察の方が見張っていてくれたので、睡眠薬なんて入ってませんから安心してくださいね」歩美は微笑しながら膳を並べる。

「歩美ちゃんも昨日はすぐに眠ってしまった?」

「はい。賄い料理にも睡眠薬が入れられていたみたいです」

「ふーん。犯人はかなり用意周到な人物だね」僕は早速、料理に箸をつけながら言った。「じゃあ昨日は全員、睡眠薬入りの料理を食べたってこと?」

「いえ」歩美は何やら訳あり顔で否定した。

「食べてない人がいたの?」

「はい」

「誰?」

「淳司さんと怜子さんです」

「淳司だって? やっぱり!」僕は思わずピシャリと自分の膝を打った。

「やっぱり?」歩美が、驚いた顔をして僕を見つめる。

「あ、いやこっちの話。何でその二人は起きていたの?」

「昨日の夜、山向こうの街に出て食事をしていたからです」

「それはしょっちゅうあることなの?」

「はい。むしろ最近は家で食べることのほうが珍しいぐらいです」

「へえ」

 やはり淳司は最近になって相当、金回りがよくなったらしい。いや、それとも無理をしているのだろうか? あの怜子とかいう若妻のわがままに振り回され、本当は金欠で借金だらけ。すぐにでも、そして確実に章造の遺産を受け取りたいがために、こんなにも急いで殺人を犯している。という推理は伊勢谷くんに一度否定されたんだっけか。でも、僕の頭の中にはもうすっかり淳司犯人説が定着してしまっている。後は決定的な証拠を掴むだけだ。

「それで、あの二人がこっちへ戻ってきたのは?」

「今朝方、わたしが由衣ちゃんを連れて大浴場に行く三十分ほど前です」

「朝?」

「はい」

「証人は?」

「わたしです」

「歩美ちゃんが?」

「はい。朝起きてトイレに行こうと廊下に出たら、庭のほうから車の音が聞こえてきたので見に行くと、淳司さんと怜子さんがちょうど帰ってきたところだったんです」

「ふーん」

 それはアリバイ証明にはならない。僕がそう考えているのを察したのか、歩美はなぜか少し顔を赤らめた。

「あの二人が、朝まで街にいたという証拠はちゃんとあるそうです」

「証拠って?」

「その、ホ、ホテルの」

 歩美の顔がさらに赤らむ。なるほど。街にあるラブホテルに泊まっていたというアリバイでもあるのだろう。だけどそんなアリバイ、どうにでも偽装できる。僕はあくまでも淳司犯人説にこだわっていた。

「淳司さん、警察の護衛はいらないって突っ撥ねたそうです」

「護衛はいらないか」それは、自分たちが犯人だから命を狙われる心配はない、と言っているようにも取れる。

「あともう一人いるんです」歩美はそちらのほうが大事な情報だと言わんばかりの口調だった。

「もう一人? 昨日ここの食事を取らなかった人間がってこと?」

「はい」

「それは?」僕は箸を置き、歩美の顔を覗き込むようにして訊いた。

「あの奥の部屋に泊まっているお客さんです」

「宇田?」意外な人物の名前が挙がった。

「はい。昨夜は胃の調子が悪かったらしく、永井さんに漢方薬を処方してもらって、食事は一切取ってません」歩美は何やら深刻な表情を浮かべている。

「そういえば昨日の夜、寝る前に大浴場に行った時、宇田と会ったなぁ」

 僕はそれをさして重要なこととは思わず、独り言のように呟いた。けれどそれを聞いた途端、歩美は目を丸くして僕の顔を見つめてきた。

「本当ですか?」

「う、うん。どうかしたの?」

「実は」と言いつつも、歩美は口を噤んでしまう。

「何? 気になるじゃないか」

「さっき警察の方からちらっと聞いたんですけど、この前、鳴瀬さんと一緒にここへ来られて失踪してしまった……」

「山口?」

「はい。その方と宇田さんは顔見知りらしいんです」

「何だって!」僕は思わず大きな声を出し、歩美を驚かせてしまった。「ごめん、ごめん。それで顔見知りというのは?」

「はい。以前、宇田さんの事務所に所属するタレントの女の子を、山口さんが撮影したらしいんです」

「なるほど」

 ということは、どこかその辺に潜伏している山口と一緒に、宇田が犯行に及んだのだろうか? だけどそれなら、こんな天候の中、山口は一体どこに隠れているというのか? それに、茜ちゃんの事件の時は、宇田はこの旅館にはいなかった。

「だけどその時、裁判沙汰になったらしいです」

「裁判沙汰?」

「はい」

「どうして?」僕が訊くと、歩美は何やら喋りにくそうな様子を見せた。それでピンときた。「もしかして宇田の承諾を取らずに、山口が勝手にヌード写真を撮ったとか?」

「はい」

「そのタレントの女の子というのは、まだ未成年だった?」

「はい。当時まだ中学生だったらしいです」

「なるほど。だけど今回の事件との関連性が見えてこないな。裁判沙汰になったくらいだから、山口と宇田が共犯てことはありそうにないし。何より、魔女の末裔と名乗る理由がわからない」

「そうですね。でも何だか怖いです。茜さんも明恵さんも、変な写真を撮られた後に殺されたんじゃないかと思って」

 歩美は恐怖で身を震わせた。無理もない。同世代の二人が立て続けに殺され、しかもその死体を目の当たりにしたのだから。

「歩美ちゃんも気をつけて。部屋にいる時は戸締りをしっかりして、少しでも何か異常を感じたら、すぐに警察を呼ぶ。いいね?」

「はい。ありがとうございます」歩美は微笑を浮かべ、会釈しながら部屋を後にした。

「宇田と山口か。うーん」

 そう呟くと、僕は箸を手に取り食事を再開した。一瞬、外で稲光が射したかと思うと、さっきよりも近い場所から雷鳴が聞こえてきた。

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