第29話 公務執行妨害

 満腹になったら集中力が切れて、原稿を書く気も失せてしまった。歩美が膳を下げるのを見届けてから、伊勢谷くんの部屋を訪れてみることにした。

「伊勢谷くん」

 ドアをノックしても返事はない。寝ているのか? ドアノブを回してみると、鍵はかかってなくて開いた。無用心だ。

「伊勢谷くん、寝ているのかい?」

 顔を覗かせて見た。部屋の中に伊勢谷くんの姿はない。一体、どこへ行ってしまったのか。と考える間もなく、直感が働いた。そのまま部屋の中に入り、窓の障子戸を開ける。

「やっぱり!」

 土砂降りの雨の中、巨大井戸の傍らに傘を差した人物が一人。伊勢谷くんに間違いない。鱒沢警部に見つかったら今度こそ大変だと、僕は慌てて部屋を飛び出した。

 階段を降りて居間を覗くと、鱒沢警部の姿はなかった。僕はそのまま足音を忍ばせて玄関へ向かい、傘を差して外に出た。

「伊勢谷くん」井戸の中に手を突っ込んでいる伊勢谷くんに声をかけた。

「何だ、鳴瀬くんか」

「何だ、じゃないよ。勝手にそんなことして鱒沢警部に見つかったら……」

「まあまあ。そんなことより、こっちのほうが大事なんだ」

「大事って、一体何をしているんだい?」

「水質調査だよ」

「この前やってたじゃないか」

「うん。でも、もう少し詳しく調べたくてね」

「調べるって何を?」

「この井戸の秘密を、さ」

 そういった瞬間、稲光が射して伊勢谷くんの姿が不気味に照らされ、僕は恐怖で身震いした。続いて起こった、鼓膜を突き刺すような雷鳴で身が竦んでしまう。

「秘密って、それよりこんな所にいたら危険だよ。雷が落ちてくるとも限らない」

「よし」伊勢谷くんは井戸の中に突っ込んでいた手を抜き出すと、「じゃあ、部屋に戻るとしようか」

「あの書物には何が?」旅館へ足を向けながら僕は訊いた。

「あの井戸の、この村の秘密だよ」伊勢谷くんはニヤッと微笑む。

「秘密秘密って、きみは何も教えてはくれないんだね」

「ちゃんと教えるさ。でも今はまだその段階じゃない」

「その段階はいつくるのさ?」

「一連の事件の犯人、魔女の末裔の正体を掴めたら、すべて包み隠さず教えるよ」

「すべてってことは茜ちゃんの、つまり密井戸の謎も?」

「密井戸ね! ハハハ。うん、そのカラクリは解けたよ」

「何がおかしい?」僕は少しムッとした。

「いや、すまない。ただ、そんなに難しく考えるほどのことでもないからさ」

「でもきみは、それもまだ教えてくれないんだろ?」

「うん。来たるべき時が来たら、すべて白日のもとに晒すよ。それまで待っていて欲しい」

「もったいぶるんだな。そんなとこまでホームズの真似をしなくてもいいのに」

「そうやってムクれるところはワトソンそっくりだね」伊勢谷くんが笑い声を上げる。

「何がそんなにおかしい?」

 鱒沢の声だ。振り返ると旅館の玄関に、鱒沢警部と警官が二名立っている。嫌な予感がした。

「何がそんなにおかしいのかと訊いているんだ」鱒沢は急に真剣な表情になり、伊勢谷くんと僕を交互に睨みつけてきた。

「あの井戸の秘密がわかりかけてきたところなんですよ」空気をまるで読まない伊勢谷くんは、上機嫌な口調で答えた。

「そうかなるほど。どうやら俺の忠告はまるで無駄だったらしい。おい」

 鱒沢警部は隣にいる警官に顎で合図を送る。警官二人は頷き、僕らのほうへ歩み寄ってきた。

「な、何ですか?」僕は一瞬、逃げ出そうかと思った。

「こっちへこい」

 僕と伊勢谷くんは警官に腕を掴まれ、成す術もなく鱒沢警部の前へと引っ張られてしまう。

「腕を出せ」鱒沢は抑揚のない声で命じてきた。

「一体、何です?」

「いいから腕を出せ」

 僕の言葉を打ち消すように鱒沢警部は怒鳴り声を上げる。僕と伊勢谷くんは仕方なく言われた通りに両腕を突き出した。

「公務執行妨害で逮捕する」

 そう言ったかと思うと、鱒沢警部はポケットから手錠を二つ取り出し、僕と伊勢谷くんの腕に素早くかけた。

「え!」

 平凡な人生の中で、まさか手錠をかけられる瞬間がくるとは夢にも思っていなかった僕は、素っ頓狂な声を上げてしまった。

「え、じゃない。俺はちゃんと忠告したはずだぞ」

「不当逮捕ですよ」伊勢谷くんはどこかおもしろがるような口調で言った。

「しばらくあの蔵の中で大人しくしていてもらおうか。捜査のほうは、俺たちに任せておけばいいから、ご心配なく」鱒沢は勝ち誇ったような笑顔を浮かべ「おい、連れて行け」と警官二人に命じて、旅館の中へと入ってしまった。

「来い」

 僕らは警官に引っ張られて、ログハウスの裏にある白漆喰の外壁をした土蔵へ連れて行かれた。

「警部の許しが出るまで、ここで大人しくしているんだ」

 暗い土蔵の中に入ると、警官は僕らの腕から手錠を外して足早に立ち去った。扉の外からきっちりと錠をかけられ、僕らは軟禁状態にされてしまう。

「ほら、言わんこっちゃない」

 僕は早速、伊勢谷くんを責めた。けれど伊勢谷くんは、そんなことには耳を貸さず、床に置いてある段ボールに腰かけて古い書物を開き始める。

「暗いだろ」僕は電気のスイッチを探して点けてあげた。

 四十㎡ほどの蔵内は左右に段組みがされ、その中に整然と物が置かれている。奥には調理室にあったのと同じ業務用の冷蔵庫と、その隣に同じく業務用の、上開き式の冷凍庫が設置されている。

「伊勢谷くん、それには一体、何が書かれているんだい?」

 伊勢谷くんの隣に腰かけ、ミミズがのたくったような文字と意味不明な記号が並ぶ書物を覗き込みながら訊いた。

「朝霧村ができる以前の、この土地の歴史だよ」

「だから、具体的に何が書かれているんだい。その意味不明な記号は」

「鳴瀬くん、少し黙っていてくれないか。魔女の末裔の犯行の動機がわかりかけてきたんだ」

「動機が? それは一体……まあいいさ。無能な助手は口を閉じておくのが、一番懸命だね」

「気を悪くしたなら謝るよ」

「いいや全然。きみは一人で勝手に推理していればいい。ああ喉が渇いた。何かないかな」

 僕は立ち上がり、冷蔵庫のドアを開けた。野菜ばかりが並んでいる。その中からパック入りの牛乳を見つけ出し、魚肉ソーセージとともに失敬した。

 ドアを閉じて、隣にある冷凍庫に目をやると、ドア部にチェーンが巻きつけられ、南京錠がかけられていることに気づいた。

「勝手にそんなもの食べていいのかい」隣に腰かけると、伊勢谷くんは呆れ顔を向けてきた。

「文句を言うなら、こんな所に閉じ込めた鱒沢に言ってくれよ。それよりあの冷凍庫の中、もしかしたら高級な肉でも入っているのかもしれないよ」

「冷凍庫?」

「うん。厳重に鍵がかけられているんだ。松坂牛、米沢牛。それとも大間のマグロでも入っているのかな?」

「鍵……」伊勢谷くんは何か思案しながら立ち上がり、冷凍庫へ歩み寄って行く。

「どうしたんだい?」

「いや」南京錠をガチャガチャと弄り、「ちょっと気になることがあって」鍵がかかっているのを確認すると、伊勢谷くんは僕の隣に戻ってきて腰かけた。

「気になることって?」

「いや、何でもない」

「偏屈な秘密主義者」

「どういたしまして」僕の揶揄も意に介さず、伊勢谷くんは再び黙り込んで思索に耽り始めた。

 蔵の屋根や外壁を打つ土砂降りの雨、強風、雷の音が絶え間なく鳴り続け、静寂の時間は一瞬たりともない。もしかしたら四方の山が一斉に土砂崩れを起こして生き埋めになってしまうのではないかと、よからぬ不安が脳裏に浮かび始めた。

「ねえ伊勢谷くん」

「何だい?」

「この村は元々、土砂崩れで埋まってしまった土地の上にできたんだろう?」

「そうらしいね」

「じゃあこの村も、同じ運命を辿る可能性がまったくないとは言い切れないわけだね」

「歴史は繰り返すとはよく言うけど、恐らくその心配はないだろうね」

「でも、現にさっき土砂崩れが起きたじゃないか」

「昔より防止対策は整っているだろうからね。村全体が埋まってしまうことは、恐らくないよ」伊勢谷くんは書物に目を通しながら言う。本当に何も心配していないようだ。

「犯人何だけど」

 しばらく沈黙した後、歩美から聞いた話を思い出して僕は口を開いた。

「うん?」

「さっき、歩美ちゃんから聞いたんだけどね。宇田って客がいるだろ」

「ああ、芸能事務所の社長とかいう?」

「そう。あいつと山口が顔見知りらしいんだ」

「顔見知り? どう言う?」伊勢谷くんは少し興味を抱いたらしく、書物から顔を上げた。僕が歩美から聞いた話をすると、

「ふーん。それはまた偶然とは思えない結びつきだね」伊勢谷くんは顎を撫でて思索のポーズを取りながら呟く。

「だろ? 昨日の夜、睡眠薬入りの食事を取らなかったっていうのも、何だか怪しい。淳司か宇田。犯人はこの二人のどちらかだと、僕は睨んでいるんだ」

「なるほどね。ただ、当てずっぽうで犯人捜しをするわけにはいかないよ。証拠を見つけ出さなければね」

「証拠か」僕は頭を悩ませた。証拠なんて何一つ見つかっていないのだから。

「まあそういう僕も、犯人に関する証拠はまだ何一つ見つけていないんだ」伊勢谷くんはそう言って苦笑いを浮かべると、再び書物に目を戻した。

「魔女の末裔、犯人……」僕はぶつぶつ呟きながら目を閉じ、旅館にいる人々の顔を一人一人脳裏に思い浮かべた。

「ねえ鳴瀬くん」

 しばらくして伊勢谷くんは、急に思いついたように口にした。

「何で昨夜、宇田は食事を取らなかったんだい」

「胃が痛かったらしい。眉唾ものだけどね。ご丁寧に永井さんに漢方薬まで処方してもらっているところが、何とも心憎いよ」

「漢方薬。ふーん」

 伊勢谷くんはそう言うと、なぜか急に暗い表情になり、ムッツリと黙り込んでしまった。僕がいくら話しかけても上の空。仕方がないから、僕は僕で犯人探しの推理に耽ることにした。

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