卯の花腐し

リクトマロン

第1話


 五月の下旬。

 その日も雨が降っていた。強く打ち付ける様な雨だ。傘を差して歩いていても、滴る雨雫が腕や肩を濡らしズボンの裾はビチョビチョになる。

 学校から帰宅途中の少年──雨霧蒼あまぎりあおは、濡れた服の不快感にため息を吐くと、早く着替えたい一心で気持ち早足になった。


「……ん?」


 雨音を聞きながら歩いていると、蒼はぽつんと佇む一つの人影を見かけた。人影は彼よりも少し年上に見える女性だった。

 雨が滴る長髪は美しい濡羽色で、覗く横顔はまつ毛が長く、鼻筋が通っていて目を奪われるほど綺麗だ。だけど生気を感じられ無いくらいに肌が白かった。

 それでも彼女は雨など気にする様子も無くただ茫然と立ち尽くしていた。

 はなくたし。

 梅雨にはまだ幾分か早い旧暦の四月、今で言う五月頃に降るような長雨の事をそう表現する。いわく、雨に長く打たれて美しい卯の花が傷んでしまうのではないか心配になるという意味らしい。

 蒼は目の前で立ち尽くす美しい女性を、そんな卯の花のようだと思った。


「あの……どうかしましたか?」


 だからだろうか、蒼が普段ならかけないであろう声を掛けてしまったのは。

 雨に打たれ続ける女性の姿は、蒼の目には今にも壊れてしまいそうな程弱々しく見えて放って置く事は出来なかった。

 卯の花の様に痛む事は無いだろう。だけど、人間も長く雨に当たるのが良くない事は確かだ。

 蒼はこれ以上女性が濡れないように持っていた傘で雨を遮ると、たちまちに彼の全身は濡れていく。先程まで濡れた服に不快感を抱いていたが今は気にしない。

 女性は降っていた雨を感じなくなった事を不思議に思ったのかおもむろに蒼へと視線を向ける。

 暗くて、濁った目。蒼を見ているようでどこか遠くを見ているような、そう錯覚してしまいそうな目をしていた。

 雨音で聞こえなかったのか、あるいは心ここに有らずだからか、女性は何も応えない。


「えっと、大丈夫ですか?」


 光の無い目で見つめられ一瞬たじろいだが、蒼はもう一度声をかけた。


「…………どうなのかな」


 雨音で掻き消されてしまいそうな声。

 女性はゆっくりと口を開いた。


「貴方にはどう見える?」


 だけど、はっきりした解は無く、逆にそれを求める様に蒼へと聞き返して来た。

 果たしてこの場合何と答えるのが正解なのだろうか。当然だが蒼もその解を持ち合わせていない。


「大丈夫そうには見えない、ですかね」


 なので少し考えてから、蒼は自ら感じた事を正直に伝えた。雨に打たれていたから大丈夫じゃないのか、あるいは大丈夫じゃないから雨に打たれていたのか。どちらかは分からない。けれど、蒼の目には危うく写ったのだけは確かだった。


「そっか……」


 それだけ呟いて女性は黙って俯いてしまう。

 しばらくの沈黙。されど、ふり続ける雨が静寂にはしない。


「あの、傘使ってください」


 沈黙に耐えかねて、蒼は口を開いた。

 既にびしょ濡れであまり意味はないかもしれないが、無いよりはマシだろうと女性に傘を貸そうとする。


「貴方が濡れてしまうでしょ?」

「もう、濡れてるので」

「…………必要無い」


 女性は口を結び、顔を伏せる。

 暗に放って置いて欲しいとその態度は物語っていた。

 蒼はそれを察して一度身を引こうとする。

 だけど、


「だったら、うち来ませんか?このままだと身体壊しちゃいますし。すぐ近くなので」


 更なる余計なお節介。場合によっては他意があると受け取られ兼ねないが、もう一歩踏み込んでみることにした。


「え……?」


 まさか踏み込んでくるとは思って無かった女性は驚いて顔をあげると、じっと蒼を見つめた。

 虚ろな瞳には、僅かな戸惑いや不安があった。

 それも仕方ないのかもしれない。初対面の男性にいきなりそんな事を言われても困ってしまう。というよりは、正常な判断力が有ればまず警戒して然るべきだろう。

 女性は変わらずただじっと蒼を見つめている。綺麗な顔で見つめられ、気まずくなった蒼は思わず顔を逸らしてしまう。

 失敗したかもしれない。蒼もまた雨に濡れたせいか判断力が落ちていたのだろう。やはり傘だけ押し付けて立ち去ってしまおうかと、そう考えていたら、


「…………はぁ、それもいいのかも」


 何を思ったのか、ポツリと女性が呟いた。

 あまりにも小さな声。それは、雨音に掻き消されて蒼の耳には届かなった。


「えっと?」


 聞こえなかった蒼が首を傾げる。女性は何でもないと首を振り、


「お邪魔してもいいかな?」


 そう口にした彼女──霧島きりしま美卯みうの姿はどこか空虚だった。



 *



 マンションの一室。蒼が父と二人暮らしをしている自宅に蒼と美卯は居る。生活感が薄く、家具があまり無いその部屋は男の二人暮らしには広過ぎる様に感じられた。


「どうぞ、カモミールティーです」


 コトリと、ソーサーに乗せたティーカップがテーブルの上に置かれる。優しく、爽やかな香りが広がった。


「ありがと」


 蒼が貸したジャージに着替えた美卯は小さくお礼を言うと、カップへと手を伸ばす。シャワー後でまだ乾ききっていない髪を耳に掛けながら、小さな口をカップへと付ける。その仕草が妙に艶やかに見えて、蒼は惚けてしまいそうになる。


「あ、結構甘い……」


 口の中にまろやかで甘い風味が広がり、美卯は思わず呟く。


「ミルクを足してるんですよ。カモミールはそのままだと苦味がありますから」


 蒼が軽く説明するように口を開いた。

 カモミールはそのままでもほんのり甘い風味なのだが、人によっては薬草のような苦味を感じる。なので、ミルクやはちみつなどを足すとよりまろやかな風味になって飲みやすくなる。今回は身体を温める効果も期待して、ミルクをブレンドした物になった。


「そうなんだ」


 美卯は関心したように呟くと、そのまま飲み進める。


「ごちそうさま。とても美味しかったわ」


 ほっと一息吐いてから美卯は言う。


「それは良かったです」


 蒼は口に合わなかったらどうしようか心配していたが、胸を撫で下ろした。


「うん。それに何だかちょっと落ち着いた気がする」


 ハーブティーのリラックス効果の賜物だろう。暗い目をしていた先程までとは違う。美卯は穏やかな笑みを見せた。


「……っ、おかわり、淹れてきますね」


 そんな彼女に見惚れてしまった蒼は逃げる様にキッチンへと向かう。先程と同じカモミールティーを作りながら、心を落ち着かせようとすると、


「────っ!?」


 美卯にそっと後ろから抱きつかれる。


「あ、あの、急に何を……?」


 僅かに上擦る声。

 背中に当たる柔らかな感触に蒼は顔が熱くなる。


「何って、そういうつもりで私を連れて来たんじゃ無いの?」

「……そういうつもり?」


 何の事だろうかと、惚けてはみたものの察しの悪い蒼では無い。


「あれ、違った? 明らかに弱ってる訳アリの女の子を家に連れ込むなんて、誘ってるとしか思えないんだけど」

「その、俺そんなつもりなくて……」


 蒼は弱々しく否定するが、この場合あまり意味のない否定かもしれない。


「そうだったの?」


 美卯は蒼の耳元に口を寄せる。


「私はそのつもりだったんだけどな……」


 甘く、蕩けるような囁きはゾワリと鼓膜を揺らす。聞こえてしまいそうなほど、心臓の音がうるさい。

 美卯は口元に笑みを作ると、耳を背中に当てる様にくっつける。


「ふふっ、すっごくドキドキしてる」


 熱に浮かされた蒼はされるがままだった。もはや正常な判断力は無い。


「こっち向いて」

「……」


 蒼は言われた通り振り向くと、唇に柔らかい感触を感じる。

 甘い、カモミールの風味がした。

 くらりと、頭が熱でぼーっとする。意識も曖昧になって行く中で、


「ね、ベッドに案内してくれる?」


 彼女の声だけははっきりと聞こえて来た。熱を帯びた視線を向けられて、蒼は頷いてしまう。

 きっと雨に当たり過ぎたせいだ。そう自分にいい聞かせて────


 それから数時間後。

 ベッドに腰を掛けた蒼は、熱が引き冷静になっていた。


(俺はなんて事を……)


 グチャグチャになったシーツ、室内にまだ少し籠った淫靡な匂い。

 チラリと横を見れば、服を着ている途中の美卯の姿が目に写る。


「ん?」


 蒼の視線を感じたのか美卯は振り向いた。一瞬視線が交わって、蒼は直ぐに逸らしてしまう。つい先程まで散々見つめ合っていたのに、今は不思議と直視出来なかった。


「ふふっ、今更恥ずかしがらなくてもいいのに。散々見たでしょ?」

「それは……まぁ、そうなんですけど」


 気まずそうな蒼を見て美卯は笑みを浮かべる。彼女の笑顔はどこか余裕があった。


「はい、もう服着たから、大丈夫だよ?」

「……わかりました」


 蒼は言われて恐る恐る視線を向けた。


「あの、服乾いてました?」


 美卯はジャージ姿ではなく元々着ていた服に着替えていた。蒼がジャージを貸した際にハンガーに掛けてサーキュレーターを回していたのだが、そんなに直ぐ乾く物でもなかった。


「ん……まだちょっと濡れてるけど、大丈夫」

「そうですか。それで、その……すみませんでした」


 蒼は向けられた視線をまだ直視出来ないので、思いきり頭を下げて謝罪する。


「何で謝るの?」


 美卯は謝罪の意味がよく分からずに首を傾げた。


「いやだって、その」


 熱に浮かされしでかした事。蒼はそれに罪悪感を抱いていた。


「気にしなくていいよ。どっちかというと誘ったのは私なんだから……それに私のほうこそごめん」

「え?」


 まさか逆に謝られるとは思っていなかった蒼は、戸惑う。


「その、多分だけどはじめてだったんだよね?それをこんな形で……」


 はじめて。

 その言葉の意味を理解して蒼は途端に恥ずかしくなる。


「そんなこと、全然気にしないでください。ほんとに」


 経験の無かった蒼は、経験者である美卯に終始リードされていた。それを思い出して恥ずかしくなる。


「……うん、わかった」


 恥ずかしそうにしている蒼を見て、美卯は頬を緩めた。

 それからしばらく当たり障りの無い会話をして過ごした。


「それじゃ、私そろそろ帰るね」


 時計を見て時刻を確認した美卯は立ち上がる。


「……送って行きましょうか?」


 蒼はもう少し彼女といたくてそんな提案をする。


「ううん。玄関までで大丈夫」

「そう、ですか……」


 やんわりと断られた。それを察して蒼の胸が痛んだ。


「今日はありがと」


 美卯が靴を履きドアを開ける前に振り返った。彼女が玄関から外へ出てしまったら、今日の出来事は無かった事になるんじゃ無いか。そんな風に思った蒼は口を開く。


「あの──」

「ね、今日の事は忘れてね」


 被せるように美卯が言った。


「え────っ……何で、ですか」

「覚えていてもいい事が無いから、かな。お互いに……ね」


 それは明確な拒絶だった。


「それは……俺は──っ」

「お願い」


 強い拒絶の意思。蒼が何を言おうとしたのか。それは音になる事無く、美卯に明確に拒まれた。


「…………わかり、ました」


 蒼はそれ以上何も言えなくなった。


「うん、ありがとう……それじゃあ、バイバイ」


 美卯は最後に微笑むと小さく手を振って出て行った。

 蒼はしばらくの間その場で立ち尽くしていた。

 それから、重くなった足取りでリビングへと引き返す。


「そう言えば入れっぱなしだったな」


 その途中、キッチンに置いてあったティーカップが目に付く。美卯の為に淹れていたカモミールティーはとっくに冷めていた。飲んでも美味しくは無いので普段なら捨ててしまう。けれど蒼はカップに口を付けた。


「…………苦っ」


 カップから口を離し、蒼は顔を顰めた。

 時間が経ち渋くなっていて、甘いカモミールの風味は感じられなかった。

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