タケノコの夜
をはち
タケノコの夜
春の夜、朧な月が竹林を淡く照らしていた。
雲は薄く、湿った空気が竹の葉を重たく濡らす。
月光はまだらに地表を照らし、竹林に細長い影が幾重も揺れる。
どこかで、土が軋む音がした。
かすかだが、確かに。竹林の奥で、何かが蠢いている。
佐藤健一、42歳。保険会社の営業マン。
17年間、変わらぬ机で書類に埋もれて、上司の不機嫌に耐えてきた。
部下のミスは彼の責任となり、課長の失態は彼の夜を奪った。
妻の美奈子とは言葉を交わさなくなり、娘の彩花は高校生になって部屋に閉じこもる。
かつて「パパ」と笑顔で抱きついてきた子は、今や彼を避けた。
健一の背広の内ポケットには、彩花が小学生の頃に書いた「パパがんばって」のメモが、折り畳まれたまま入っている。
触れるたび、胸の奥で何かが軋む。
その夜、健一は同期の高橋の送別会にいた。
居酒屋の個室は、ビールの泡と焼き鳥の煙で濁っている。
壁に貼られた「高橋、独立おめでとう!」の寄せ書きが、妙に目につく。
高橋は笑いながら言う。
「もう上司の尻拭いともオサラバだ! 俺、自由になるぜ!」
健一はグラスを握り、顔にありったけの笑顔を貼り付けた。
胸の中で何かがひび割れる。高橋は愚痴を共有できる唯一の存在だった。
こいつがいなくなれば、全てのしわ寄せが俺にくる。考えるだけで腹が煮えた。
何がめでたいモノか――そうして、健一は日本酒を煽り、記憶を濁らせた。
送別会が終わり、ふらつく足で駅への近道を求めた健一は、住宅街の裏手に広がる竹林の小道に踏み込んだ。
月光が竹の葉を透かし、地面にまだらな影を揺らす。
湿った風が辺りを深い静寂に包み、竹林のささやきすら飲み込んだ。
足元で、土がわずかに動いた気がした。
健一は気づかず、ネクタイを緩める。汗で湿ったシャツが肌に張り付く。
ポケットに伸ばした指先に、娘のメモが微かに触れた。
突然、竹の根に足を取られ、健一は土の上に倒れ込んだ。
仰向けのまま、月を見上げる。空は遠く、月は冷たい。
いびきが喉から漏れ、酒の重さに意識が沈む。そのとき、首元に冷たい感触があった。
土から突き出たタケノコの穂先が、ネクタイの隙間に滑り込んだ。
鋭い先端は布を押し広げ、健一の首元をのぞき込む。
健一のいびきは変わらない。タケノコは、ただそこにあった。
竹林は静かだった。
春の土は柔らかく、雨と暖かさがタケノコの成長を促す。この時期、条件が良ければ、一晩で7センチ伸びる。
水はけの良い斜面に倒れた健一の体は、まるでその成長を誘うように、土に沈み込む。
タケノコの穂先はネクタイを食い込ませ、布は首を締める。
健一の顔が赤みを帯び、呼吸が不規則になる。
酒に沈んだ意識は、圧迫に気づかない。
土の下で、微かな軋みが続く。
タケノコは伸びる。1センチ、2センチと…穂先はネクタイをさらに押し広げ、布は穏やかに喉へとくい込んだ。
健一の指が一度、土を掻いた。爪の間に土が入り、かすかな血が滲む。
呼吸が細くなり、それきり竹林には、もとの静けさが戻った。
健一は夢を見ていた。彩花が3歳の頃、娘を持ち上げて、高い高いをした。
彼女の笑い声が響き、夕陽が二人を包む。
「パパ、もっと高く!」
健一は笑いながら、大きく育てよ…と高く高く持ち上げた。
月光の下、娘のメモが地面に落ち、風もないのに揺れた。
「パパ」と書かれた文字が、月光に白く浮かんでいた。
朝、竹林を通る農夫の茂が健一を見つけた。
仰向けの男の首には、ネクタイが不自然に食い込み、顔は青紫に変色している。
茂はため息をついた。
「またかよ…」
彼は近づき、健一の体を道の脇に引きずった。
村の道端に遺体を放置するのは見栄えが悪い。
そう思っただけだ。タケノコの穂先がネクタイに絡まり、首元に突き刺さっているのを見たが、茂は気にも留めなかった。
竹林ではよくあることだ。
タケノコが伸びて、服に引っかかる。酔っ払いが転んで死ぬ。それだけだ。
茂はネクタイを緩め、絡まったタケノコを無造作に引き抜いた。
穂先は土に埋もれ、ネクタイの締め付け痕は乱れた布に隠れる。
茂は地面に落ちた「パパ」と書かれたメモを拾い、健一のポケットに押し込んだ。
村人として、死者をそのままにしておくのは気が引けた。それだけだ。
茂は警察を呼び、黙って立ち去った。
警察が現場を調べ、検死官は「窒息死」と記録した。
緩んだネクタイと転倒の痕跡から「事故」と結論づけられた。
タケノコは誰も気にしなかった。
茂は気づいていない。彼の行動が、真相を土に埋めたことを。
その夜、村の飲み屋で茂はビールを片手に語った。
「お前ら、聞いてくれよ。今回で3度目だ! あの竹林で死体を見つけたの、俺なんだぜ!」
村人たちは笑い、グラスを掲げる。
「茂…死体なんてつまらんもん見つけとらんで、小判でも見つけろや!」
茂は笑い声を上げた。
「5年前も、10年前も、俺が最初に見つけたんだ。酔っ払いが竹の根で転んで死ぬんだよ。あの竹林、呪われてるんじゃねえか? ハハハ!」
5年前、若い男が竹林で死んでいた。ネクタイにタケノコが絡まり、首に食い込んでいた。
茂は遺体を道の脇に引きずり、タケノコを土に埋めた。警察は「事故」と片付けた。
10年前、老いた酔っ払いも同じだった。ネクタイにタケノコが刺さり、首に痕を残していた。
茂はまた、遺体を動かし、服を整えた。警察は「事故」と書いた。
茂は気づいていない。毎回、彼の手が真相を隠してきたことを。
タケノコが、ただの植物ではないかもしれないことを。
村人たちは茂の話を笑いものにし、ビールを飲み干した。
「茂さん、次もお前が見つけるぜ!」 誰かが冗談を飛ばす。茂はグラスを掲げ、得意げに笑った。
彼の目には、竹林の奥、月光に揺れるタケノコの影は映らない。
翌春、竹林は再び芽吹いた。
新しいタケノコが土を押し上げ、月光の下で静かに伸びる。
竹林の奥、誰も踏み入れない場所で、土が軋む。
タケノコは待つ。次の春を、次の夜を、次の誰かを。
茂は知らない。次の遺体も、彼が見つけるだろう。
そして、また、真相を埋めるだろう。笑いながら。胸を張りながら。【完】
タケノコの夜 をはち @kaginoo8
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