横断歩道
松葉あずれん
横断歩道
かなり遠目だったものの、彼女が童顔である事は理解出来た。紐が両肩についた白いワンピースに、足元は恐らくビーチサンダルだろう。それはB級の夏のボーイミーツガールを絵に描いたような光景だった。目の前が横断歩道でなく踏切だったならば、一瞬だけ強い風が吹き、彼女が麦わら帽子を頭に押さえ付け、黒く艶のある髪を靡かせると思えば、路面電車がかなりのスピードで二人の間を横切るに違いなかった。しかし、こう書いてしまえば我々が相対している舞台を読者に大きく錯誤させてしまうかもしれない。二人きりの世界の背景は日射しを乱れて反射させる海と、無秩序に生えた雑草の中で一際目立つ稲穂が車道沿いに何本も生えている…という具合に。今私が見ている景色はそれと極めて対蹠的である。第一に我々は一対一でない。車道を挟んで向こう側には、白いハンカチで汗を拭うサラリーマンとベビーカーを引く主婦が立っている。こちら側には私と私の妻の二人である。第二に、ここは田舎ではない。横断歩道の奥には大きいビルが立ち、ビルのガラスが太陽を真っ直ぐ反射している。読者の想像とせめてもの共通点を挙げるとすれば、ビルの側面に絡まる蔦に緑を感じられるくらいであろう。背景がこんなにも違うのならなぜ、踏切の例を出したのかという疑問を口にする者がいるかもしれない。それはその少女が存在だけで、人々の推測する情景を現実と全く異なるものに180°変えてしまう力を持っていると解釈していただきたい。そしてもう既に信号機の赤い目盛りが後一つという所まで来ている。私は左隣の妻と右斜め前に遠く見える少女を比べた。青になった。私が右足を出すと、妻が少し遅れて左足を出した。今となっては並んで歩くことも珍しいように思える。ましてや、手を繋いで歩いたのは何年前だろうか。すると、ウーンというサイレンが鼓膜に響いた。救急車である。私たちは歩みを止め、それが横切るのを待った。すると自転車が間に合うと思ったのか距離を見誤り、救急車が横断歩道を踏む直前に向こう側からスピードを出して通りすぎていったのであった。私は慌てて妻の腰を引き寄せようとしたが、反射的に妻の腰は左方向への抵抗を生み出し、少しぎこちない動作になってしまった。あわや衝突の危機であったが、自転車に乗った若者は少し会釈をしたと思えば、私が振り返ると逃げるように立ち漕ぎをしていた。救急車が横切るのを今度こそ見守り、私たちは再び歩き出す。その時例の少女が中央分離帯で立ち止まっているのが見えた。まだ信号は青である。どうして立ち止まっているのだろうか。それは私の胸に不思議と同時に恐怖を植え付けた。この子は果たして生身の人間であろうか。よって私は車道を横断しながら妻に尋ねる。
「あの子、見える?」
「うん。どうしたんだろう。」
妻は不思議そうに私と目線を合わせた。やがて私たちは中央分離帯に辿り着き、信号に捕まってしまった。あの少女との距離は顔がはっきりと見えるほどに近づいていた。なるほど至って普通の少女である。背丈からすると14、15くらいであろうか。私はその少女の顔に若かった妻の面影を見た。少女に聞こえないくらいの声量で妻に話しかける。
「ねえ彼女、君に似てない?」
「そうかしら。」
私はなんだか懐かしい気持ちになって、話しかけることにした。
「どうしてさっき、渡りきらなかったの?」
すると少女は目を細め、私の耳元でこう囁いた。
「あなたは振り向かないで。」
彼女のその言葉に私は、目線を少女に向けたまましばらく固まってしまった。少女は私に見向きもせず、真っ直ぐ前を見つめている。やがてその少女が歩き出した。私は妻に
「青だよ。」
と言われ、慌てて右足を出した。すると背後で小銭を落としたような音がする。私は反射的に顔を後ろに向きそうになるのを理性で抑えた。妻が振り返り屈んだのが横目で僅かに見えたので、私も拾ってあげようかという考えが一瞬よぎったが、私はそれに気付かないふりをしてそのまま歩き続けた。私達はずっとそのようにしてやってきたのである。しかし私は、車道を渡り終えるまで通低して後ろを気にし続けることになる。まるで動く歩道を逆方向に歩いているように、心理的な足は少しも前へ進もうとしなかったのである。きっといつものように、すぐ駆け足で戻ってくることだろう。その間、私は妻との関係について考えていた。いとも自然に彼女の手を取る事が出来なくなったのはいつからだろうか。それは明確に妻の失踪後である。もう十五年になろうか、家に帰ると妻の姿は無く、一日、一週間、一ヶ月経っても彼女が帰ってくることは無かった。今思い返すと、あまりにも空虚な一年を過ごしたものである。妻が帰宅するまでは永遠のようで、一瞬だった。私は依然、彼女にあの空白の一年を聞き出せずにいる。そして妻は明確に以前と異なっていた。何か母性のようなものが生まれた気がするのだ。私は向こう側の歩道との距離が縮んでいくにつれて、ある一つの結論が固まりつつあった。この信号を渡り切ったら、妻の手を取り、十五年前の事を聞いてみよう。彼女は驚くかもしれないが、きっとわかりあえる。そう思い渡りきると、斜め後ろに妻の姿が無いことに気付いた。意識的に後ろを見ないようにしていたからである。そもそも、私はなぜあの少女の言ったことに従わなければならないのか。彼女が私に何を言おうと、私には関係ないのである。そう思うと、目の前のヘッドホンをつけた若者が突然、目を見開いた。腰を抜かしたかと思うと真反対へ走っていった。何があったかと振り返ろうとしたその時
「実、ごめんなさい!」
という泣き声が聞こえ、見ると妻と少女が取っ組み合っている。よく見れば少女は手に包丁を持っていた。
「うるさい!お前がいなきゃパパは!」
と言って妻を勢いよく押し倒したかと思うと、少女は刃が下向きになるように柄を両手で強く握りしめた。妻は目を最大に開いて、見たこともない表情をしていた。人の死の間際は醜いものである。だが私は目をそらさなかった。両手を少女に向けて抵抗する妻に、少女は胸を目掛けてナイフを振り下ろした。それは一瞬のようで、永遠だった。よくあるB級のアクション映画のように、撃たれた人間が血を流しながらゆっくりと膝をつき倒れたのではない。絵コンテを何百枚もけちったアニメーションのように、コマ送りに見えたのであった。その後も少女は妻の体から包丁を抜いては刺し、抜いては刺しを繰り返した。それはB級のサスペンスドラマを絵に描いたような光景だった。
横断歩道 松葉あずれん @Sata_Cd
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