後編
「……さん。お嬢さんっ」
ハッと意識が浮上する。ケイトが視線を彷徨わせると、店主が眉を下げて窺うようにこちらを見ていた。
「すみません、少し様子がおかしかったものですから……大丈夫ですか? 」
「あ……いや、大丈夫です」
起きていながら夢を見ていた。痛くて、苦くて、悪夢とは呼べない在りし日の夢だ。ケイトは無意識にチョーカーの石に触れた。今思えば、おかしな点はいくらでもあったのだ。頭を撫でてくれた歌姫は、歌えなくなったらどこかへ消えてしまったし、サーカスが移動するたびに少しずつメンバーは入れ替わった。理由なんて想像したくもない。そして、違和感の最たるものは自分自身だった。ケイトは自嘲するように唇を歪めた。サーカスにいた歌姫たちは楽器の名を冠していたにも関わらず、自分に与えられたのは鮮烈なカナリーイエローの愛らしい姿も鈴を転がすような声も、華のない自分にはあまりにも不似合いな小鳥の名。それでも、名に恥じように歌えるようになれということだと、期待されているのだと、当時は本気で思っていたのだからお笑い種だ。実際は災厄を感知し、代わりに被る単なる身代わり。金糸雀は金糸雀でも、自分は炭鉱の金糸雀だった。
「その玩具が欲しいの?」
聞き覚えのある声が背後から聞こえて、ケイトは条件反射で振り返った。
「欲しいなら買いましょうか?」
甘やかに垂れた目尻をさらに下げて言うのは、あの日と何も変わらない、この世のものとは思えぬほどに美しい女。
「いや……見せてもらっていただけ。それよりどこに行っていたの」
「あら私からしてみれば、いなくなったのは貴女のほうよ?」
不思議そうに返されて、ケイトはムッとして言い返そうとするもついていかなかった自分にも非はあると思い直す。完全な納得には遠いものの、見つけたのはシャルロッテで、見つけられたのはケイトだ。その事実は揺るがない。
「……はい」
苦虫を噛み潰したような顔をするケイトを見て、シャルロッテはころころと笑った。そうかと思えば金糸雀の玩具とその隣の猫の形の玩具を手に取った。猫の方の身体はくすんだ銀色で、使われている硝子は青系で統一されている。
「ねえ、こちらを頂くわ。おいくらかしら」
「ありがとうございます。銀貨四枚です」
シャルロッテを見ても驚いたように目を見開いただけだった店主の精神力は感嘆に値するとケイトは思った。しかし、それよりも問題なのはシャルロッテの方だ。
「ちょっと待って。何で買うの、しかも猫のまで……」
「んーただの気まぐれよ。それに」
一羽じゃ寂しいでしょ、なんて、きっと思ってなんかないくせに。
「でも残念ね。折角動物の形をしてるのに、金属の身体じゃどこにも行けないわ」
シャルロッテは手に持った玩具を空にかざしながら言った。弾んだ口調で言う内容ではない。悪意なく虫を殺す子供のように無邪気な残酷さだ。店主とシャルロッテのやりとりを眺めていたケイトは、ついと目を逸らし、雑踏に隠すように小さく呟いた。
「案外、動けたとしてもどこへも行かないかもしれないよ」
結局、本日の目的地であるホテルに辿り着いた時にはとっくに太陽は沈んでしまっていた。ホテル内部は光源を絞ってあり、飴色の木目と銅でまとめられている。足元を動く自動人形のおかげで床には塵一つない。
「間に合った……もう、シャルロッテが連れ回すから」
「ケイトだって楽しんでたじゃない」
忙しなくチェックインを済ませて、部屋に入った瞬間、思わずケイトは叫んだ。
「何でベッドが一つしかないの」
「ここしか空いてる部屋がなかったんだもの」
渋面のケイトに対して、シャルロッテは何か問題がと言わんばかりに、鏡台の前に腰かけて装飾具を外している。
「昔は一緒に湯浴みしたりもしてたのに今更何を恥ずかしがってるの」
「五年は前の話でしょ」
昔の話を持ち出されてケイトの頬が赤く染まる。そしてシャルロッテは名案と言いたげに笑って言った
「じゃあ一緒に入る?」
「入らないっ」
「そう? じゃあ先に済ませてくるわね」
浴室に消える後姿を溜息と共に見送って、ケイトは鏡台に近づいた。置かれていたのは耳飾りと髪飾りだけで、いつも通り、首飾りは見当たらなかった。一級品である他の装飾具に比べて特段価値が高いようには見えないそれにケイトが触れたことはなかった。自身のチョーカーについている青い石とはまた違う青みがかった緑色。彼女の瞳と同じ色。青緑なんて味気ない名前でなくて、シャルロッテは別の名で呼んでいた気がする。彼女は何色と言っていただろうか。考えながら、ケイトは石の裏の金属板に指をやって from C to C の刻印をなぞった。
「おいで、ケイト。小っちゃくて可愛い私の子猫」
湯浴みを済ませても、いまだケイトは意地を張っていた。しかし、すでにベッドに横たわり、毛布を持ち上げたシャルロッテに呼ばれてしまえばなすすべはなかった。レースがふんだんに使われた白いネグリジェがしなやかな肢体を包み、チョコレイト色の髪がシーツに散る。一枚の宗教画のようだった。仕方ない風を装うためにケイトはわざと大袈裟な仕草で近づき、ベッドに潜り込んだ。
「ねえ、シャルロッテ」
「なあに? それにしてもキティは温かいわねえ、本当に子猫みたいだわ」
「からかわないで、貴女の首飾りの石の色ってなんていうんだったか聞きたいだけ」
「あら、忘れてしまったの? いいわ、もう一度教えてあげる」
「……ありがとう」
「この色はね、シュバインフルトグリーンというのよ。別の言い方だとエンペラーグリーンね。昔ある皇帝がこの色を愛して亡くなったそうよ。あと極東の国では花緑青なんて呼ばれてもいるわ」
「……亡くなった?」
「ええ。この色の顔料はね」
毒なのよ。赤い唇がそう紡ぐのがやけにゆっくりとして見えた。首飾りをいじる仕草が思わせぶりで、砂糖菓子のような容姿に妖艶さが滲み、大きな青緑の瞳がとろりと溶けた。
「皇帝の亡骸は日にちが経ってもほとんど腐敗が進まなかったらしいわ。さあ、そろそろ寝ましょうか」
「……シャルロッテ、最後にもう一ついい」
「なあに?」
「何でその首飾りだけずっとつけてるの」
「さあね。初めに手に入れたものだからかしら。ずっと使っているからそれなりに愛着があるのかも」
「何でそんなに曖昧なの……おやすみなさい」
「おやすみなさい」
シャルロッテが枕元に置いてある小さなガス灯を消すと、部屋の中を青い闇が満たした。ケイトはシャルロッテが寝息を立てだした後、そっと目を開けた。目が暗さに慣れてくると、こちらを向いて目を閉じるシャルロッテがぼんやりと見える。色が白いせいで肌が青白く輝いている。人を絡め取って離さないあの青みがかった緑色は瞼の裏だ。何かが腑に落ちた気分だった。シュバインフルトグリーン。美しさゆえに人を殺す魔性の緑。瞼を閉じると浮かぶのは灯りが消される前に一瞬見えた首飾りのチャームの裏側。From to Cの刻印がケイトの脳裏に焼き付いていた。
シャルロッテは夢を見ていた。生まれ故郷の夢だった。自然が豊かで、長閑といえば聞こえはいいが、何もない街だった。いや、シャルロッテが生まれたときから、何もない街とは言えなくなった。崇高なまでの美貌、犯しがたい完璧。あらゆる人の多くの感情が彼女に向けられたが彼女の足を絡めとるにはどれも足りなかった。どんなに贅を尽くした贈り物も彼女の心を捉えはしなかった。彼女はいつも人の来ない花畑で本を読んでいた。けれど、ある時、その日常は終わりを告げた。花畑を訪れる人間がシャルロッテの他にも一人増えたのだ。
『ねえ、明日もここに来てもいいかな』
『勝手にすればいいじゃない』
季節が何巡かしたころ、花畑はまたシャルロッテ一人になった。同じころに、葬式が一つあったのだと風の噂で知った。それ以来、シャルロッテがその人と会うことはなかった。ありふれたものばかりよこす人だった。つまらないことばかり話す人だった。星や花の名前は教えるくせに、肝心なことは一つも教えてはくれなかった。墓石を見た時の言いようのない感情の名前も、それ以来春の日差しの中でも隙間風が吹くような寒さを感じるわけも、特別の意味も、シャルロッテにはわからなかった。だって彼の人は教えてくれないままいなくなった。
「おはよう、ケイト」
ゆっくりとカーテン越しの白い光が部屋を染めていく中で目を開けたシャルロッテはケイトを起こさぬように小さく零して、その藁色の髪を指で軽く梳いた。
「貴女が尋ねたことは、私が知りたいことでもあったのよ」
誰かが十分前に聞かせた凝った賛美は忘れてしまうのに、何年も前に聞いた飾り気のない言葉がなぜ忘れられないのかしら。どんなに華麗な装飾具を贈られても気にも留めないのに、送り主のイニシャルが抜けた欠陥品の首飾りをなぜ捨てられないのかしら。ただでさえつまらなかったこの世界が彼の人と別れてからはもっと褪せて見えるのは、
「なぜなのかしらね」
翌朝、ホテルをチェックアウトした二人は昨日訪れたカフェーで朝食を取っていた。スープの中からある野菜を掬い上げてケイトはわずかに顔をしかめた。
「この野菜、何だかスポンジみたいな食感……」
「それはナスね。東の方はともかくこっちじゃ珍しいのよ?」
「珍しいかは興味ない」
「美味しいのに。それとも子猫ちゃんにはまだ早かったかしら?」
すでに食べ終えたシャルロッテが悪戯っぽく言うと、ケイトは苦虫を嚙み潰したような顔をして、食事を再開した。
「いい子ね」
「別に……残すのがもったいなかっただけ」
なんとかケイトも食事を終え、会計をしてカフェーを出る。
「行こう。飛行船の時間に間に合わなくなる」
「まだ時間に余裕はあるわよ?」
ケイトは窓の外に目をやった。今日は珍しく晴天で、この街に到着した時よりも通行人の量ははるかに多い。この後の光景を想像すると自然と溜息が漏れた。
「とりあえず、今日こそフードを被って……」
絶対に予定時刻に遅れるわけにはいかないのだ。今日の目的地に向かう飛行船は一日に一便しかないのだから。
空と大地の狭間だった。街がどんどん遠くなって、山を見ろしたかと思えば、それも遠ざかっていく。鳥のようにも魚のようにも見える飛行船の中で、ケイトは僅かに緊張を顔に出して、シャルロッテは悠々と、ガラス張りの壁面から彼方を見晴るかした。
「本当にこんな重量が宙に浮くなんて……」
「蒸気機関の進歩の賜物ね。ケイト、あそこを見てご覧なさい」
シャルロッテの指の先を視線で辿ったケイトの瞳が輝いた。
「わあ……」
空の淡さとはまた違う青が広がっていた。深くて飲まれそうな青は眼下に宇宙があるかのように思わせる。波打つたびに光を反射して煌めく様が美しい。
「海よ」
シャルロッテがささめいた。ケイトはその横顔を見つめ、理不尽だなと思った。あんなに美しい海も特別な存在の前には褪せていくばかりだ。これほど美しい存在は他になく、これ以上などあるはずもない。否応なくそう思わせるほどの麗しさ。ケイトは何も突出せず誰にとっても特別でない自分とは違い、誰もの特別たるシャルロッテの特別の座には誰がいるのかを考えた。思い浮かべるのは首飾りの送り主。けれどどれだけ想像力をかき集めてもあったことのないその人の顔は塗りつぶしたようにあやふやだ。シャルロッテに聞こえぬように心のうちで呟く。
ねえ、名無しの誰かさん。私、貴方が嫌いみたい。
飛行船から降りて、森の中を歩いていく。木漏れ日が斑模様を描き、木の匂いが鼻腔をくすぐった。むき出しの地面を歩くこと数時間。急に視界が開けた。そこにあったのは巨大な塊だった。近づいてみると、苔や土で汚れているものの何かの遺跡だということがわかる。何も付着していない表面部分は光沢があるが、金属にしては視覚的に温かみを感じる。
「凄い……」
そのままぐるりと遺跡の周囲を見て回り、入り口の階段を下りる。内部は床にも壁にもはては天井にも幾何学的な模様が彫られていて、触れるたび、足を踏み出すたびに青白い燐光が爆ぜた。
「多分盗掘防止のために人を感知すると中の形が変わって通路が開いたり閉じたりするんだわ」
「……下手したら遭難するってこと」
「そうね」
そのまま何度か目くらまし用の通路に迷いながら進むと広間のような部屋があった。何の変哲もない部屋だった。床から天井まで、ターコイズを砕いたような青みがかった緑に染まっていること以外は。部屋を覗いたシャルロッテが振り返って言った。
「綺麗ね」
「……」
「これ全部が昨日言った緑の毒よ。もしかしたら、もともとは棺か何かがあって腐敗防止の効果を狙ったのかしら。でもそういう跡はなさそうね」
棺も何もない。けれどわかった。ここは緑色の墓なのだ。理解すると同時にケイトはシャルロッテを部屋の中に突き飛ばした。シャルロッテは一瞬目を見開いた後、微笑んだ。あまりに美しく、あまりに凄絶な笑みだった。背中から倒れ込んだシャルロッテにそのまま馬乗りになってナイフを取り出す。出来過ぎているとケイトは思う。昨日自分が首飾りの色について尋ねたことも、今日この遺跡を訪れたことも、自分を拾ったことさえ計算のうちと言われても納得してしまうだろう。チョコレイト色の髪が、鮮やかな毒の床に映えた。
「ねえケイト」
されるがままだったシャルロッテが手を伸ばして自身に跨るケイトの頬に触れた。そして、また一段笑みを深くする。美しい毒の色をした瞳は全てを見透かさんばかりに澄んでいるのに、いつ見ても、何年見つめても底が見えない。ケイトは思う。嫉妬は人の心を弄ぶ緑の目をした怪物だなんて言った偉人がいたが、そんなのは嘘だ。でたらめだ。緑色は煽るだけだ。嫉妬に、欲に、絶望に、火をつけて煽るだけ。人の心を弄ぶつもりなど毛頭なく、無関心と博愛の境界で笑うだけだ。月が欲しくて溺れた亡者が月を罵るのは見当違いも甚だしい。手に入らないというある種の平等に例外などないと思っていた。思っていたから欲しがらずにいられた。けれど結局、勝手に期待して、裏切られた気になって、駄々をこねている。ああなんて無様。シャルロッテが歌うように続きを言う。ケイトは目を見開いた。その声がいつもより少しだけ温度が高いように感じられたからだ。ぬるま湯のようなそれは無関心というには暖かく、けれどもやはり愛というには冷めていた。
「二人旅も存外悪くなかったわ」
ケイトの瞳が揺れる、けれど、グッと唇をかみしめた。嘘つき、それなら罵倒や抵抗の一つくらいして見せろ。マウントポジションを取られているとはいえ、小柄な自分なんて簡単に跳ね除けられるだろうに、そうしないシャルロットに身勝手にも腹を立てた。首筋に突き付けたナイフは圧倒できる力などなくても人を殺せることの証明だ。視界がぼやけたのは気のせいにして、笑う。
「さよなら、シャーリー」
美しい人だった。美しい人が美しいものになった。ただそれだけの事だった。視界を染めるこの緑は人を殺すと同時に死体の腐敗防止の効果があるという。それが良いことなのか悪いことなのかわからなかった。永遠の美を期待しているのか、美しいものがあっけなく朽ちるのが見たいのか、ケイト自身でもわからなかった。金糸雀と猫の玩具を彼女の傍らに置いて、眠っているような亡骸の首から飾りを取り、代わりに自分のチョーカーをつける。首飾りのチャームの刻印の空白部分にナイフでCを書き足して自分の首に着ける。首輪の交換なんて愛の儀式というには醜悪すぎて、戯れというに熱すぎる。ケイトはfrom C to Cの自分が刻んだ歪な一文字を指でなぞって、彼女の胸に光る青を眺めやった。女の恋は上書き保存だと誰かが言った。これが恋だなどとは思わない。名前を付ける気もさらさらない。それでも、最初が名無しの誰かさんでも、彼女の最後は自分だ。ケイトは唇の端を釣り上げた。
ざまあみろ。
Green-eyed monster 文鳥 @ayatori5101
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