Green-eyed monster
文鳥
前編
子供が遊んだ後の積み木のような街だった。絶妙なバランスで積み上げられた建物たちは頑丈そのものなのに、ちょんと指で突けば崩れ落ちそうな危うさがあった。
うっすらと雨の匂いがするなかに灯されたガス灯のオレンジ色が、彩度の低いこの街を柔らかく染めていた。通りはそれなりに賑わっていて、その場の雰囲気は熱気とは言えないまでも仄かに温度を感じさせる。扉と扉の間を埋めるように露店が並んでいて、店主達は思い思いに物を売っていた。
路傍の手品師が子供たちに渡した風船が銅色やセピアばかりの景色に色を添える。空はいつも通りの曇天で、空気は微かに濁っていて、何に追われるでもなく人々は帰路を急いだ。
けれど、ある二人組を目にした瞬間、性別も年齢も関係なく彼らの頬にサッと朱が差した。
「わぁ……綺麗……」
思わずという風に声を漏らした女児の手から離れた風船の桃色が灰色の空に映えた。二人組の一人はフードを深くかぶっているせいで性別さえも知ることはできない。せいぜい小柄な体躯から少年か少女であると推測するのがやっとだ。
当然のことながら、人々の目を奪ったのはもう一人のほうだった。チョコレイト色の長い巻き毛の女だ。瀟洒な臙脂色のドレスに身を包んでいる。長い睫毛に縁どられた大きな青みがかった緑色の瞳が印象的で、一人だけ麗らかな春風に取り巻かれているような薔薇色の頬をしている。全てのパーツが極上で、小さな顔の中に完璧なバランスで配置された、神が特別に作り上げたとしか思えないほどに美しい娘だ。石畳の上で軽やかにヒールを鳴らす嫋やかな足に、瞳と同じ色の石の飾りをつけた手折れてしまいそうな首に、誰かがごくりと喉を鳴らした、と同時に彼らの背に悪寒が走った。
威圧感の元はフードを被った例の人影。下から見上げるように睨んだ拍子にフードが外れ、藁色の髪が露わになる。射るような視線を投げるその瞳は一見灰色にしか見えないブルーグレイ。吊り目だからか、襟足が長く顔の周りの髪が跳ねた髪型のせいか、どことなく猫のような印象を与える少女だ。整った顔立ちではあるものの色彩のせいかあまり目立たず、可憐と言うには愛想に欠ける。首には青色の石が付いたチョーカーをつけており、この国の女子にしては珍しいパンツスタイルで中性的という言葉がよく似合った。少女は女に声をかけ、通り沿いの小さなカフェーを指さすと、不思議そうな女の手を引いて向かっていった。
そして、女をコーヒーの香りの中に押し込むと、背後を一睨みして自身も店内に足を踏み入れ、扉を閉めた。
オレンジ色の灯りに満ちた店内で、少女と女が向かい合わせに座っていた。他の客は彼女らの方に目をやっては、テーブルの上のケーキやコーヒーにそそくさと向き直るのを繰り返している。落ち着いているのはカウンターの中でカップを磨くマスターと彼女ら自身のみで、ウェイトレス達は閉店後に大目玉を食らうこと間違いなしだ。
「シャルロッテ」
据わった目を向けて、咎めるような響きで少女が正面の女に呼びかけた。年頃の娘にしては低いハスキーボイスが空気に溶ける。シャルロッテと呼ばれた女は湯気の経つコーヒーの入ったカップをソーサーに置いてから応えた。
「なぁに、ケイト」
「貴女もフードを被るなりなんなりして。ただでさえ人目を惹くんだから」
そう苦言を呈されたシャルロッテはケイトを見つめて小首を傾げた。
「どうして?」
「は? はぁ……だから、良からぬ輩が寄ってきたらどうするの」
「あら、そんな人たちにどうこうされるほどやわじゃないわ」
それはそうだ。そんなのは自分が一番わかっているし、自分だってそこらのゴロツキに負けるつもりは毛頭ない。そう考えて、ケイトはハッとした。いけない。丸め込まれかけている。
「そうじゃなくて……貴女に狂って道を踏み外す人間が哀れだと言っているの」
ケイトの脳裏には惚けたまま立ち尽くす人々や注文を取りに来たウェイトレスの可哀想な程赤く染まった顔が浮かんだ。
「でも、それは私のせいではないわ。彼らが勝手にそうなっただけ。そうでしょう?」
ゆるりと顔を傾けて、シャルロッテは言った。優美でありながら幼気な仕草と、蕩けるような微笑みがどうにもアンバランスで途方もない色気を生み出している。そういうところだとケイトは半眼になった。
「せっかく色々なお店があるのだから楽しまなくては損よ」
シャルロッテの声はいつも同じ温度をしているとケイトは思った。柔らかで、くるくると色を変えるのに、嘘か真か聞き分けて見せろと言われたら、きっと何年でも立ちつくしてしまうだろう。そこまで考えて、ケイトは思考をプツリと切った。そして、目の前でカップを傾ける美しい女を睨みながら、艶やかなチョコレイトでコーティングされたオペラをフォークで一掬いして口に運ぶ。深みのある甘さが溶けてしまうと、ほろ苦さだけが舌に残った。
舞うような所作のせいで気がつきにくいが、楽しそうに笑みを浮かべて、あちこちに視線を投げては近寄っていく割にシャルロッテが歩むスピードは速い。対して、ケイトは遅れまいと必死だった。そもそも体格に差があるうえに、シャルロッテに見惚れた人たちは夢でも見ているようにぼんやりしていて、ぶつかりそうになっても避けてはくれない。夢見心地な彼らを避けたり、ぶつかったりしていると、いつのまにか彼女の姿はどこにも見当たらなかった。
「はぁ……」
目的地は把握しているし、心配することなど何も無いが、彼女を野放しにしていてはこちらの心臓がもたない。いや、いっそ彼女のことなど忘れるくらいにこの場を楽しんでやろうか。そう考えて、カフェーで、楽しまなくては損だと微笑んだ彼女の言葉を思い出す。ケイトの口がへの字に形を変え、眉間に皺が寄る。それが意識的なものであると彼女自身だけが知っていた。一瞬ピクリと口角が動いたことに気がつく者はいなかった。
様々な色や形の洋服に、精緻な細工のアクセサリー。柔らかそうなぬいぐるみや、目にも鮮やかな切り花の数々。小さな敷地の中に所狭しと詰め込まれた品々を眺めて歩く。視界の隅をチョコレイト色が掠めやしないかと考える自分にはもちろん知らないフリをして。そしてある露店でケイトは足を止めた。
「おや、そちらがお気に召しましたか?」
ケイトの存在に気が付いた店主が声をかけた。白い口髭を蓄えて丸眼鏡をかけた好々爺だ。
「あ、いえ……」
ケイトの視線の先にあったのは合金でできた掌に載るくらいに小さな玩具だった。全体は鈍く光る銅色で鳥の形をしている。目の部分には緑の硝子玉が嵌められており、羽の複雑な模様部分にはプリカジュール・エナメルが用いられていて、鮮やかな黄色から青みがかった緑色にだんだんと色を変える色硝子が光に透き通っている。
「それは玩具なのですよ。蒸気機関が内部に組み込まれていて動くのです」
店主は慣れた手つきで小鳥の胸の扉を開き、中にある皿に油をついで浸した芯にライターで火を点けた。そして背中の蓋を開けると水差しを手に取って水を注ぎ入れ、その下についているゼンマイを巻いた。
「わっ……」
微かに嘴が動いたかと思えば、かぱりと開いて、澄んだ旋律が流れ出し、拍子に合わせて羽がゆっくりと上下している。そのたびに色硝子を通った光が表情を変えて、机の上に淡い模様を描いた。
「
息が詰まった。喉がヒュッと音を立てる。落ち着いた声がどこか遠くに聞こえる。摺り硝子越しの記憶がだんだん鮮明になっていく。
「この玩具は御守りとして買われる方も多いんですよ。なぜだか知っていますか?」
続きを言わないでくれと強く思った。けれど、願いは大抵叶わない。期待は往々にして裏切られる。この後に続く言葉を知っていた。ゆらゆらと声が重なって鼓膜を揺らす。爪が掌に食い込むほどに握りしめても、意識はいつかに吸い寄せられる。時計の針が、星の巡りが、光速で逆行するかのような、錯覚。
『金糸雀は危険を知らせてくれるんですよ』
星だけが灯る夜の下、はしゃぎ回る子供の笑い声が響く。上等の生地に身を包んだ老夫婦がそばを走り抜けた子供らを見て微笑んだ。よれた服を纏い疲れた顔をして一人で歩く人もいれば、声を弾ませて手を繋ぐ家族連れもいた。誘われるように夜道を行く人々は手に小さな紙切れを握りしめている。
『さあさあご覧になる方はお急ぎくださいっ。まもなく開演ですっ』
そこそこ大きくてやたらと上背がある以外は何の変哲もない薄汚れたテントの前で声を張り上げるのは、派手なツギハギの衣装を着て顔を白く塗りたくったピエロだ。笑みを浮かべた顔に描かれた涙模様が滑稽で客の笑いを誘う。テントに足を踏み入れた人々の瞳が灯りを弾いて輝いた。赤と白の縞模様をした柵が花道を残して、ぐるりとゲストとホストを隔てている。一階はもちろん二階席も満員で、上から見られても何ら問題はないという自信が透けて見える造りだ。白い円形ステージの周りで直方体に足が生えた鳥のような自動人形がガシャガシャと音を立てながらよたよたと歩き回り、口から花弁とシャボン玉を吐いている。歯車をむき出しにした兎が奏でる調子はずれのトランペットの音が木霊して、ステージの上に太った男が一人現れた。二階席の子供が突いたシャボン玉が弾けて消えるのと、開幕の合図はほとんど同時だった。
『レディースアーンドジェントルメンっ』
このサーカスの団長である男のでっぷりと脂ののった体を包むのは赤の差し色が目立つベージュの衣装。金鎖と歯車と鳥の羽でゴテゴテと飾りたてられた、衣装と同色のシルクハットを取って一礼し、大仰に手を広げて観客を見渡す様は凄まじいほどに馬鹿馬鹿しい。けれど、この場においてはあまりにも正しかった。その証拠に人々の歓声はテントを割らんばかりに膨らんでいく。そして舞台袖から、長い髪を持つ幼い少女もまた、頬を紅潮させてショーの始まりを見ていた。
その藁色の髪の隙間から覗くブルーグレイの瞳が煌めいた。
数羽の鳩とアシスタントを連れた手品師が悠々と戻ってくるのと入れ替わるように、少女よりも少し年嵩の娘が艶やかな毛並みの獅子を従えて舞台袖からステージに出ていく。
『金糸雀っ見てないで手伝ってちょうだいっ』
『は、はいっ』
露出の多いミニドレスを纏った妍姿艶質たる娘が堂々と猛獣を操る様に、観客のように見惚れていた少女、もとい金糸雀は他のメンバーに呼ばれて、名残惜し気に歓声に背を向けた。
『風琴のドレスの紐を締めてっ。それが終わったら角笛と自鳴琴の髪飾りと靴を出してっ』
『はいっ』
椅子に座っている風琴に寄って行き、後ろに回り込んで腰のあたりから垂れる紐を手に取る。
『ちょっとくらい強く締めても大丈夫よ』
その言葉に甘えて爪先が浮き上がるほどに体重をかけて紐を引き、蝶結びにする。
『ありがとうね』
礼にはにかんだ笑みで応えて他の娘の準備を手伝うために走る。衣裳部屋に行き、箱を重ねて抱えて戻ってくる。前を見るのもやっとな大きさの荷物のため足元がおぼつかない。自然と歩みが遅くなり、気ばかりが急くが、落とすことも転ぶこともなく辿り着いたことにほっと息を吐く。
『はぁ……髪飾りと靴持ってきましたっ』
『あぁ、ありがとう』
『ありがとう。嵩張るから大変だったでしょ』
『いえ、大丈夫ですっ』
歌姫と呼ばれる娘たちが最後の仕上げと言わんばかりに靴を履き替え、髪飾りをつける様子を金糸雀は瞬きもせずに見つめる。三人の娘は声も顔も全く似ていなかったが、皆が皆美しい声と容姿をしていた。金糸雀の視線に気づいた自鳴琴が細い指で梳るように藁色の髪を撫でた。
『心配しなくても、金糸雀もきっと立派な歌姫になるわ』
金糸雀はブルーグレイを細めて花がほころぶように笑った。
国から国へ、街から街へ誰のためにも芸を届けるサーカスが好きだった。いつからサーカスにいたのかは覚えていなかったが、綺麗な声で囀る鳥の名を与えられたからにはきっと自分も歌姫になってステージに立つのだと信じていた。無垢で愚かな少女は疑いもせずに信じていた。信じて、いたのに。
どんな街だっただろうか。果てのない欲望が滲む街だったかもしれないし、蒸気自動車が多くて空気の汚れた街だったかもしれない。確かなことがあるとするならば、強い印象を残すもののない街が最後のショーの開催地であったこと。そして名ばかりの金糸雀は結局歌姫にはなれなかったことだ。
『金糸雀、団長宛ての荷物があるから持って行ってちょうだい』
『はーいっ』
受取った荷物を抱えて団長室に向かう。扉の前に着き、荷物を片腕で抱え直してノックする。
『団長、金糸雀です。荷物を届けに来ました』
『入れ』
団長は椅子に座り、金糸雀をちらと見ることもせずに書類とにらめっこしていた。金糸雀は少し緊張しながら近づいていき、机の端に荷物を置いた。
『中身は』
『あ、えっと、わからないです』
『開けろ』
言われるがままに包みを開けると中身は木箱に詰められた焼き菓子だった。
『……お菓子ですね』
『食べてみろ』
『え、でも』
『聞こえなかったのか。食べろといったんだ』
金糸雀は戸惑いながらクッキーを一つ取って口に運ぶ。きつね色の生地の中心のジャムがいやに赤く、てらてらと光った。サクサクと噛むたびに仄かな甘さとバターの香りが口の中に広がる。真っ赤なジャムは甘酸っぱくて少し苦かった。少し舌にピリリと痛みを感じたから、もしかするとスパイスが入っているのかもしれない。そして最後のひとかけらを嚥下した。その瞬間、足の力が抜けて金糸雀は床に崩れ落ちた。
『は……ぇ……?』
燃えるような熱が喉と胃袋を焼いた。金糸雀は濡れた目で団長を見上げた。
『……そろそろ潮時か、サーカスはいい隠れ蓑だったんだがなあ』
立ち上がった団長は椅子から立ち上がり、扉を開ける直前に振り返り、唇をわななかせる金糸雀を見下ろして嗤った。
『お前の容姿は地味だし、そのかすれ声だ。こういう時のためとはいえ、穀潰しとばかり思っていたが、ちゃんと役に立ってくれたからな。最期にいいことを教えてやろう』
帽子掛けからシルクハットを取って被り、ステージで口上を述べるように腕を広げた。
『金糸雀は危険を知らせてくれるんですよ』
扉が閉まる音がやけに大きく聞こえた。喉よりも腹よりも、胸が一番痛かった。視界が霞み、意識が遠くなっていく。ブルーグレイが瞼の裏に隠れて、暗転。
気がつけばサーカスのテントは影も形もなく、金糸雀はどこかの路地裏に倒れていた。もうどこも痛くはなかったが、指の一本さえ動かなかった。そんな有様なのに視界は明瞭で音もはっきりと聞こえ、石畳の冷たさが皮膚に沁みた。鋭敏な感覚が余計に死の足音を金糸雀に感じさせた。
『まあ、野良猫だと思ったら人間の女の子じゃない』
突然、声が降ってきた。こんな薄暗くて汚い路地裏は似合わない、サーカスの歌姫たちが霞んでしまうほどに甘美な声だった。金糸雀はそろりと眼球だけを動かして声の主を見て、息を飲む。硬い石の感触と埃の匂いがなければ自分はもう死んだものと勘違いしてしまっただろう。初めに、神様だと思った。その容姿が並外れて美妙で輝いているようにさえ見えたからだ。次に、悪魔だと思った。それが最も魅力的な姿で人を誘うと思いだしたからだ。けれど、本当はどちらでもよかったのだ。白魚のような指が自分の首に食い込むとしても、その瞳に焼き尽くされてもかまわなかった。運がいいとさえ思った。最期に見る光景としてはこの上なく上等だったから。それなのに。
『あら貴女の瞳、ただの灰色だと思ったら、少し青いのね。ふふっ子猫みたい……ねえ貴女、私と一緒に来る気はない?』
灰色の空にも一人旅にも飽きてきたところなのと無邪気に笑った彼女は小さな硝子瓶を取り出すと、問答無用で金糸雀の口に中身を流し込んだ。拒絶を許さない美しさで金糸雀を生かした。
『名前がないの? じゃあケイトなんてどうかしら。
よろしくね、小っちゃくてみすぼらしい私の
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます