第16話 馬油を塗る

 小龍シャオロンは無邪気に顔をほころばせ、茶杯を手に取り中身に口を付ける。そして、ゆっくり飲み干すと、ほぅ、と息をついた。

「喉元を通り過ぎた後にほのかに残る、蜜のような風味。こんなおいしいお茶、初めて飲みました」

「おや、その味わいがわかるか」

「詳しくはわかりませんが、その辺で味わえるものではないということはわかります」

 目をくりくりと輝かせ、屈託ない笑顔を浮かべる小龍を前に、私は僅かに首をかしげる。

(考え過ぎであったか?)

 先程まで布越しの濡れた肢体を見せつけて、あざとく誘引アピールしているように見えた小龍ではあるが、今はそれを全く忘れ去ったかのように茶を楽しんでいる。それに、着替えを補佐する侍女に対しても、にこやかに丁寧に礼を述べていた。

(ひょっとすると最初から計算でもなんでもなく、ただただ天真爛漫な仕草であったか)

 そう思うと、恥じ入る思いがした。

(かつての自分が計算ずくでした行為と似ていたからとて、この者まで同じ心根とは限るまいに。清い心の若者相手に、私は何という邪推を)

 詫びと言うわけではないが、私は棗と胡桃の菓子を小龍へ与える。

「小龍、食すがよい。わらわのお気に入りじゃ、美味であるぞ」

蓮花リェンファ様! ありがとうございます、いただきます!」

 ぱあっと顔を輝かせ菓子に手を伸ばす小龍の姿に、つい頬が緩む。孫の暁明シァミンに菓子を与えた時のように心が和んだ。


「あっ」

 菓子をもぐもぐとんでいた小龍が、突如自分の手を見つめた。

「どうした」

「れ、蓮花様、申し訳ございません」

 小龍はしょんぼりと眉を下げる。

「せっかく蓮花様に触れる時のために、手指もすべすべに手入れしていたのに、先ほどの掃除で少し荒れてしまいました」

 小龍は指と指をこすり合わせ、その感触に肩を落とす。

「これでは蓮花様に触れられません。面首失格です」

(やれやれ、世話の焼ける子よ)

 可愛らしいドジに苦笑しつつ、私は鏡台の引き出しから馬油バーユを取り出す。

「小龍、使うがよい」

「いいんですか? ありがとうございます!」

 小龍は嬉しそうに微笑み、遠慮なく馬油を指先で掬い上げる。

「あっ」

「今度は何じゃ」

「取り過ぎちゃいました」

 小龍の人差し指の先にこんもりと乗っかった馬油を見て、私は吹き出した。

「そちは、本当にそそっかしいのぅ。次から次へと」

 私は手を差し出す。

「どれ、妾も塗るとしよう。過ぎた分はこちらへ寄こすがよい。二人の手なら丁度良い量じゃ」

「本当にすみません。それでは」

 言って、小龍は馬油の半量を私の手へ乗せる。そして自身は手をこすり合わせ、素早く馬油を行き渡らせた。

「手荒れは治りそうか?」

「はいっ、ありがとうございます!」


 声を弾ませ丁寧にすりこんでいた小龍は、やがて「そうだ」と小さな声を漏らす。

「蓮花様、どうぞお手をこちらへ」

「なんじゃ急に」

「僕が、蓮花様のお手にも塗り込んで差し上げます」

 私が困惑していると、小龍は無邪気に私の手を取ってしまう。

「あ、これ」

控鷹監こうようかんで習ったのです。手には、体の不調を緩和するツボがいくつもあると」

 そう言って小龍は馬油を薄く伸ばしながら、私の手を指先で丁寧に押してゆく。

「蓮花様のお手に塗り込めながら、癒して差し上げます」

「んっ」

「今のは労宮ろうきゅう。気疲れや倦怠感を改善するツボにございます」

「そうか」

 明らかに何かが効く手応えがあった。気疲れ、言われてみればあるかもしれない。

 馬油の効果で小龍の指は滑りが良く、指圧も妙に心地よい。

「おぉ」

「ここは合谷ごうこく。緊張を和らげ、痛みを取る効果があるそうです」

「なるほどのぅ」


 一つ一つ説明しながら、小龍は温かな手で揉み続ける。力加減も絶妙で、私はすっかりくつろいでしまった。目を閉じ、ほぐされる快感に身をゆだねる。

「蓮花様」

 艶めいた低めの声が、思いの外近くから聞こえた。瞼を上げると、息もかかるほど間近に、小龍の整ったかんばせがあった。

「なっ……」

「気持ち、いいですか?」

 微かに掠れた声でそう言って、小龍は私の指の間にぬるりと自分の指を絡ませる。快感が背筋を駆け抜けた。

「僕、蓮花様を心地よくして差し上げられていますか?」

 その双眸は熱を帯び、とろりと蜜を含んでいる。

「僕は、蓮花様の指に触れているだけで、とても幸せです」

 再びぬるりと指の間を刺激され、そのはずみで漏れそうになった声を辛うじて飲み込む。

「小龍、そちは……」

 小龍は優美に微笑みながら、指の間を緩急つけて刺激する。爪の先を丁寧に優しくこする。ぬるりぬるりと馬油を塗り広げながら。

「蓮花様」

「……なんじゃ」

「体が火照ってきたのではございませんか?」

(いかん……!)

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