8-1
◆
けたたましいサイレンは、夜の端で小さくなって、やがて聞こえなくなった。
ぼくたちは、まるで世界の全てから切り離されたかのように、静まり返った路地を並んで歩いた。
彼女の左手から伝わる温もりが、ささくれだったぼくの心を、一枚、また一枚と、優しく剥がしていくようだった。
隣を歩く、まひるの横顔をそっと盗み見る。すると、ぱちりとした大きな瞳と視線が合った。
何度でも、彼女は同じタイミングで見返してくれる。黒曜石の瞳に街灯の輪が灯っては、消える。
「……疲れてない?」
問いかけると、彼女はふるふると首を横に振った。
街灯の琥珀色が、銀の髪を蜂蜜みたいにやわらかく染める。
「先輩の手、すごく温かいですから。……疲れなんて、吹き飛んじゃいます」
そう言ってぼくの手を、自分の頬に、きゅっと寄せた。
触れた肌は、冬の夜気にもかかわらず、ほんのりと熱を帯びている。すべすべで、ぷにっと、柔らかくて。
頬骨の少し下が、安心する場所なのだろうか。ポジションを定めて、瞳をうっとりさせた。
「……まひる」
「はい」
「ありがとう。……今日、そばにいてくれて」
彼女は、ぼくの手の甲に頬をすり寄せながら、黒曜石の瞳でじっと見上げる。
それから甲に、小さく、短い口づけを落とした。
「……っ」
まひるの肩が、ほんの少し、恥ずかしそうに揺れた。
「わたしは、あなたの彼女ですから。……当たり前のことです」
当たり前。
……きみは、どれほど、ぼくを救ってくれたか。
歩みを止めた。手をそっとほどいて、代わりに細い肩を抱き寄せた。
「……先輩?」
びく、と身体が小さく震える。
「ごめん。……今、こうしてないと、おかしくなりそうなんだ」
ぼくの腕の中で、彼女はこくりと頷いて、おずおずと、頭を胸に預けてくれた。
甘くて、女の子らしい、まひるの香り。
「好きだ、まひる」
「……わたしも、です。わたしも……、ずっと、ずっと前から……先輩だけが、好きでした」
嗚咽混じりの声が、胸を熱く濡らす。
彼女の言っていた、十年という、途方もない時間。
ぼくが間違った光を見ていた、その間ずっと、彼女はぼくだけを見ていてくれた。
「これからは、ぼくがまひるを守る。絶対に幸せにするから」
「……はい。……信じて、ます」
どちらからともなく、顔が近づく。
街灯の光を浴びて、きらきらと濡れた彼女の唇に、そっと重ねた。
最初は、羽が触れるような、優しいキス。
それが次第に熱を帯びて、お互いの存在を確かめ合うように、深くなっていく。
長い、長いキスの後、唇を離す。ぼくたちの間には、銀色の糸が一本、きらりと光って消えた。
「……ばか」
「え?」
「こんなところで……、誰かに見られたら、どうするんですか」
潤んだ目で、睨むふりをして。
頬を真っ赤に染める彼女が、愛おしくてたまらない。
「……むしろ、見せつけたい。まひるは、僕の彼女なんだって」
「先輩の、ばか……」
そう言って、もう一度唇を塞ぐ。
何度も、何度も。
彼女は胸が大きいから、どうしても、ぼくの腹部にふにっとした重さが沈んで。離れてはまたくっついて。
もう何十回目だろう、顔を近付けると、彼女は指先でそっと止めた。
額をつん、と突いて、悪戯っぽく笑った。
「続きは、お家で、です。……わたしの、旦那様?」
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