8-1


 けたたましいサイレンは、夜の端で小さくなって、やがて聞こえなくなった。

 ぼくたちは、まるで世界の全てから切り離されたかのように、静まり返った路地を並んで歩いた。

 彼女の左手から伝わる温もりが、ささくれだったぼくの心を、一枚、また一枚と、優しく剥がしていくようだった。


 隣を歩く、まひるの横顔をそっと盗み見る。すると、ぱちりとした大きな瞳と視線が合った。

 何度でも、彼女は同じタイミングで見返してくれる。黒曜石の瞳に街灯の輪が灯っては、消える。


「……疲れてない?」


 問いかけると、彼女はふるふると首を横に振った。

 街灯の琥珀色が、銀の髪を蜂蜜みたいにやわらかく染める。


「先輩の手、すごく温かいですから。……疲れなんて、吹き飛んじゃいます」


 そう言ってぼくの手を、自分の頬に、きゅっと寄せた。

 触れた肌は、冬の夜気にもかかわらず、ほんのりと熱を帯びている。すべすべで、ぷにっと、柔らかくて。

 頬骨の少し下が、安心する場所なのだろうか。ポジションを定めて、瞳をうっとりさせた。


「……まひる」

「はい」

「ありがとう。……今日、そばにいてくれて」


 彼女は、ぼくの手の甲に頬をすり寄せながら、黒曜石の瞳でじっと見上げる。

 それから甲に、小さく、短い口づけを落とした。


「……っ」


 まひるの肩が、ほんの少し、恥ずかしそうに揺れた。


「わたしは、あなたの彼女ですから。……当たり前のことです」


 当たり前。

 ……きみは、どれほど、ぼくを救ってくれたか。

 歩みを止めた。手をそっとほどいて、代わりに細い肩を抱き寄せた。


「……先輩?」


 びく、と身体が小さく震える。


「ごめん。……今、こうしてないと、おかしくなりそうなんだ」


 ぼくの腕の中で、彼女はこくりと頷いて、おずおずと、頭を胸に預けてくれた。

 甘くて、女の子らしい、まひるの香り。


「好きだ、まひる」

「……わたしも、です。わたしも……、ずっと、ずっと前から……先輩だけが、好きでした」


 嗚咽混じりの声が、胸を熱く濡らす。

 彼女の言っていた、十年という、途方もない時間。

 ぼくが間違った光を見ていた、その間ずっと、彼女はぼくだけを見ていてくれた。


「これからは、ぼくがまひるを守る。絶対に幸せにするから」

「……はい。……信じて、ます」


 どちらからともなく、顔が近づく。

 街灯の光を浴びて、きらきらと濡れた彼女の唇に、そっと重ねた。

 最初は、羽が触れるような、優しいキス。

 それが次第に熱を帯びて、お互いの存在を確かめ合うように、深くなっていく。

 長い、長いキスの後、唇を離す。ぼくたちの間には、銀色の糸が一本、きらりと光って消えた。


「……ばか」

「え?」

「こんなところで……、誰かに見られたら、どうするんですか」


 潤んだ目で、睨むふりをして。

 頬を真っ赤に染める彼女が、愛おしくてたまらない。


「……むしろ、見せつけたい。まひるは、僕の彼女なんだって」

「先輩の、ばか……」


 そう言って、もう一度唇を塞ぐ。

 何度も、何度も。

 彼女は胸が大きいから、どうしても、ぼくの腹部にふにっとした重さが沈んで。離れてはまたくっついて。

 もう何十回目だろう、顔を近付けると、彼女は指先でそっと止めた。

 額をつん、と突いて、悪戯っぽく笑った。


「続きは、お家で、です。……わたしの、旦那様?」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る