8-2
◆
放課後の旧図書室は、蛍光灯が半分だけ点いていて、棚の影がやわらかく伸びた。
「——先輩?」
呼ばれたほうに向くと、まひるが片手で、白いイヤホンの先を揺らしていた。
「分けっこ、しませんか?」
いたずらっぽく微笑む彼女に頷き、ふたり、対面に座る。片耳ずつイヤホンを分け合うと、世界からひとつ音が消えた。
代わりに、ぼくたちの間にだけ流れる、秘密の気配が満ちていく。
スマホから再生されるのは、古びたアップライトピアノで弾かれたような、少しだけくぐもった優しい音色。一音、また一音と、静寂の中に澄んだ雫が落ちて、波紋が広がるように耳を満たす。
やがて——まひるのハミングがふわりと乗った。目を閉じて奏でる、言葉にならない旋律。息が触れる距離で、彼女の体温を乗せた音が、もう片方の鼓膜を満たす。
音がぼくらの心をつないでいく。
「……ねえ。それ、何語?」
ゆっくりと目を開けて、唇の端に、小さな笑みを浮かべた。
「フィンランド語です。雪と海の間の、氷の国のことばですよ」
「意味、わかるの?」
「半分だけ」
言われてみれば、その言葉の響きは、遠い雪国の、凍てついた森の奥で静かに灯る、ランプの光みたいに温かかった。
「何だか、先輩に聴いてほしくなっちゃって。……ふふ、変ですよね」
そう言って、小さくハミングを続ける。
その歌声からは、今まで知らなかった、彼女の一面を感じられて、どうしようもなく胸が高鳴った。
机がぼくらのわずかな呼吸を反射する。世界は狭く、静かで、温かい。
曲が途切れる。
まひるがイヤホンをいったん外した。銀の髪がさらさらと、肩でほどけた。
「……試したいことが、ありまして」
「うん?」
「呼び方、です。ずっと“先輩”だったけど……、今日は、えと。その」
緊張からか、指先でイヤホンのコードをきゅむ、とつまんで、ねじった。
その瞬間、ことん、と軽い音が立った。
スマホが床に落ちた。ぼくが拾おうとして、しゃがむと。
まひるの膝が、机の下で小さく寄り、靴のつま先がとん、と床を蹴るのが見えた。
「ごめんなさい、落としました。……自分で拾えますから」
少し慌てた様子で、彼女もしゃがむ。
ふたり同時に机の上へ戻った。彼女は、耳の縁をほんのりと朱に染めていた。視線は合わせず、しきりに髪をかき上げて。
やがて、覚悟を決めたその瞳が、ぼくをまっすぐに捉えた。
「“藤野さん”、って、呼びたくて」
胸のどこか、柔らかい場所を指で突かれたみたいに、息が止まった。
けど。
「苗字で、いいの?」
「……ふぇ」
小動物みたいな声をあげた。
「
一瞬ぽかんとした、まひるは。
次の瞬間、ぽん、と灯が点るみたいに顔を赤く染めた。熱でもあるんじゃないかと思うくらい、真っ白な肌が、首筋や、耳まで色づく。
視線が泳いで、喉の奥で小さく飲み込む音。そこまで動揺することなのかな?
「……な、な。ない。……うう」
彼女は、瞳を熱っぽく潤ませて、恥ずかしそうに。
でも逃げずに、ゆっくりと唇を開いた。
「
名前は、まっすぐに、胸の中へ落ちた。
あまりの心地よさに、ぼくは思わず笑ってしまった。反射的に、顔を赤くしたままの彼女の頬が、ぷうっと膨れた。
「もう。何ですか、その笑いは」
「ごめんごめん、あまりにも嬉しくて。……もう一回、お願い」
「……しょうがないですね」
彼女は少し呆れたふりをして、でもその瞳の奥は楽しそうに輝いている。
すっと立ち上がる。ぼくの隣に回り込み、耳元に顔を寄せた。
そして、吐息だけで囁くように。
「……旦那様」
「えっ?」
「冗談です。先輩——」
言いかけて、まひるは口を押さえる。
「……
口を押さえた指先が、小さく震えている。顔だけじゃなく、指まで赤い。
「幸せすぎて——ずっと、夢を見ているんじゃないかって、思うんです」
潤んだ黒曜石の瞳が、助けを求めるようにこちらを見て、それから恥ずかしそうに逸らした。
そして、またぼくを見た。
「愛しています」
そして——思い切ったように、桃色の唇で、額へキス。
向こうは、やっぱり、顔真っ赤。
くらり、とめまいがした。
「……反則だよ、それ」
「こっちのセリフ、です。……合格ですか?」
「満点。もう一回、言って?」
赤らんだままのまひるは、悪戯っぽく微笑むと、ぼくの頬を両手でそっと包み込んだ。
「愛しています。わたしだけの旦那様……」
引き寄せられる。唇が重なる。いつもの、長く、やさしいキス。
濡れた音が響くたび、旧図書室の空気が一段、甘くなる。
ぼくらはバカップルだ。わかっている。けれど、ぼくだって幸せすぎてやめられない。
キスの最中、手を伸ばして、彼女の耳の後ろの銀糸を、そっと払った。
そのまま、肌に触れないギリギリの距離で、指先を止める——白く細い首筋に、寸止め。
まひるの肩が、かすかに震えた。
ほんの少しだけ離れた唇の間で、吐息が重なる。
「……絞めてください」
——そんな酷いことは、できない。
ただ絹のような肌の首筋に触れたかっただけだ。
彼女は、ぼくが行おうとする行為なら、すべてを受け入れようとしてしまう。
その危うさから守りたい、と願いながら、ぎゅうっと大切に、身体を抱き締めた。
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