8-2


 放課後の旧図書室は、蛍光灯が半分だけ点いていて、棚の影がやわらかく伸びた。


「——先輩?」


 呼ばれたほうに向くと、まひるが片手で、白いイヤホンの先を揺らしていた。


「分けっこ、しませんか?」


 いたずらっぽく微笑む彼女に頷き、ふたり、対面に座る。片耳ずつイヤホンを分け合うと、世界からひとつ音が消えた。

 代わりに、ぼくたちの間にだけ流れる、秘密の気配が満ちていく。

 スマホから再生されるのは、古びたアップライトピアノで弾かれたような、少しだけくぐもった優しい音色。一音、また一音と、静寂の中に澄んだ雫が落ちて、波紋が広がるように耳を満たす。

 やがて——まひるのハミングがふわりと乗った。目を閉じて奏でる、言葉にならない旋律。息が触れる距離で、彼女の体温を乗せた音が、もう片方の鼓膜を満たす。

 音がぼくらの心をつないでいく。


「……ねえ。それ、何語?」


 ゆっくりと目を開けて、唇の端に、小さな笑みを浮かべた。


「フィンランド語です。雪と海の間の、氷の国のことばですよ」

「意味、わかるの?」

「半分だけ」


 言われてみれば、その言葉の響きは、遠い雪国の、凍てついた森の奥で静かに灯る、ランプの光みたいに温かかった。


「何だか、先輩に聴いてほしくなっちゃって。……ふふ、変ですよね」


 そう言って、小さくハミングを続ける。

 その歌声からは、今まで知らなかった、彼女の一面を感じられて、どうしようもなく胸が高鳴った。

 机がぼくらのわずかな呼吸を反射する。世界は狭く、静かで、温かい。


 曲が途切れる。

 まひるがイヤホンをいったん外した。銀の髪がさらさらと、肩でほどけた。


「……試したいことが、ありまして」

「うん?」

「呼び方、です。ずっと“先輩”だったけど……、今日は、えと。その」


 緊張からか、指先でイヤホンのコードをきゅむ、とつまんで、ねじった。

 その瞬間、ことん、と軽い音が立った。

 スマホが床に落ちた。ぼくが拾おうとして、しゃがむと。

 まひるの膝が、机の下で小さく寄り、靴のつま先がとん、と床を蹴るのが見えた。


「ごめんなさい、落としました。……自分で拾えますから」


 少し慌てた様子で、彼女もしゃがむ。

 ふたり同時に机の上へ戻った。彼女は、耳の縁をほんのりと朱に染めていた。視線は合わせず、しきりに髪をかき上げて。

 やがて、覚悟を決めたその瞳が、ぼくをまっすぐに捉えた。


「“藤野さん”、って、呼びたくて」


 胸のどこか、柔らかい場所を指で突かれたみたいに、息が止まった。

 けど。


「苗字で、いいの?」

「……ふぇ」


 小動物みたいな声をあげた。


ないとでいいよ。まひるが、よければ」


 一瞬ぽかんとした、まひるは。

 次の瞬間、ぽん、と灯が点るみたいに顔を赤く染めた。熱でもあるんじゃないかと思うくらい、真っ白な肌が、首筋や、耳まで色づく。

 視線が泳いで、喉の奥で小さく飲み込む音。そこまで動揺することなのかな?


「……な、な。ない。……うう」


 彼女は、瞳を熱っぽく潤ませて、恥ずかしそうに。

 でも逃げずに、ゆっくりと唇を開いた。


ないとさん」


 名前は、まっすぐに、胸の中へ落ちた。

 あまりの心地よさに、ぼくは思わず笑ってしまった。反射的に、顔を赤くしたままの彼女の頬が、ぷうっと膨れた。


「もう。何ですか、その笑いは」

「ごめんごめん、あまりにも嬉しくて。……もう一回、お願い」

「……しょうがないですね」


 彼女は少し呆れたふりをして、でもその瞳の奥は楽しそうに輝いている。

 すっと立ち上がる。ぼくの隣に回り込み、耳元に顔を寄せた。

 そして、吐息だけで囁くように。


「……旦那様」

「えっ?」

「冗談です。先輩——」


 言いかけて、まひるは口を押さえる。


「……ないとさん。すみません、まだ、慣れなくて」


 口を押さえた指先が、小さく震えている。顔だけじゃなく、指まで赤い。


「幸せすぎて——ずっと、夢を見ているんじゃないかって、思うんです」


 潤んだ黒曜石の瞳が、助けを求めるようにこちらを見て、それから恥ずかしそうに逸らした。

 そして、またぼくを見た。


「愛しています」


 そして——思い切ったように、桃色の唇で、額へキス。

 向こうは、やっぱり、顔真っ赤。

 くらり、とめまいがした。


「……反則だよ、それ」

「こっちのセリフ、です。……合格ですか?」

「満点。もう一回、言って?」


 赤らんだままのまひるは、悪戯っぽく微笑むと、ぼくの頬を両手でそっと包み込んだ。


「愛しています。わたしだけの旦那様……」


 引き寄せられる。唇が重なる。いつもの、長く、やさしいキス。

 濡れた音が響くたび、旧図書室の空気が一段、甘くなる。

 ぼくらはバカップルだ。わかっている。けれど、ぼくだって幸せすぎてやめられない。


 キスの最中、手を伸ばして、彼女の耳の後ろの銀糸を、そっと払った。

 そのまま、肌に触れないギリギリの距離で、指先を止める——白く細い首筋に、寸止め。

 まひるの肩が、かすかに震えた。

 ほんの少しだけ離れた唇の間で、吐息が重なる。


「……絞めてください」


 ——そんな酷いことは、できない。

 ただ絹のような肌の首筋に触れたかっただけだ。

 彼女は、ぼくが行おうとする行為なら、すべてを受け入れようとしてしまう。

 その危うさから守りたい、と願いながら、ぎゅうっと大切に、身体を抱き締めた。

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