第8話 最後の抵抗

​ 絶望とは、時間の流れがその意味を失い、未来という概念が地平線の彼方へと完全に消え去った状態を指す。佐伯誠の告白の後、水無月遥たちの時間は、まさしくその状態に陥った。彼らが潜む安宿の一室は、世界の終わりを待つための、小さな棺桶と化した。


​ 窓の外では、儀式が着々と進行していた。街全体が、巨大な共鳴板となり、シャンたちの言語を、冒涜的な交響曲として奏で続けている。それは、もはや隠蔽できるレベルのものではなかった。桐島蓮率いる「対策オフィス」の、あれほど徹底していた情報統制も、この規模の物理現象の前では、焼け石に水どころか、嵐の海に投げ込まれた一粒の砂に等しかった。


​ 世界は、終わりへと向かっている。それは、誰の目にも明らかだった。しかし、その終わり方が、あまりにも静かで、陰惨だった。人々は、原因不明の精神疾患として処理され、自らの正気を疑い、薬漬けにされながら、ゆっくりと狂気の淵へと沈んでいく。

 誰も、本当の敵が誰なのかを知らない。誰も、この囁きの意味を理解しない。人類は、まるで実験室のフラスコの中で飼育される培養菌のように、観察され、管理され、そして、何が起きているのかも知らぬまま、静かに滅菌処理されようとしていた。


​ 佐伯は、その運命を完全に受け入れていた。彼は、知りすぎたのだ。敵のあまりの巨大さと、その計画の完璧さを。彼は、床に転がった酒瓶を新たな腕のように抱きしめ、壁にもたれかかりながら、同じ言葉を呪文のように繰り返した。


「もう終わりだ。我々は、屠殺を待つだけの家畜なのだ。抵抗など、無意味だ。静かに、静かに眠らせてくれ……」


​ その言葉が、遥の心の奥深くに突き刺さった。


​ 家畜。


​ その一言が、彼女の中で、麻痺していた思考を、凍てついていた感情を、暴力的に揺り起こした。


​ そうだ、と彼女は思った。私たちが今、強いられているのは、そういうことなのだ。餌を与えられ、管理され、そして、理由も知らされずに屠殺場へと送られる。桐島の言う「管理された安寧」の、その悍ましい本質は、ここにある。彼は、人類を救いたいのではない。ただ、家畜が暴れ出さないように、管理したいだけなのだ。


​ 遥は、部屋の隅で虚空を見つめ、何事かを呟き続けている祐樹の姿を見た。彼は、もう人間ではないのかもしれない。彼の自我は、シャンという宇宙的ミームの奔流に飲み込まれ、その肉体は、冒涜的な言語をこの世に響かせるための、ただのスピーカーと化してしまった。だが、その唇から漏れる声は、紛れもなく「敵」の声だった。その腕で蠢く「口」は、紛れもなく「敵」の姿だった。


​ 敵は、ここにいる。目に見え、耳に聞こえる形で、確かに存在しているのだ。


​ なのに、このまま黙って喰われるのを待つのか?


​「……嫌だ」


​ 遥の唇から、か細い、しかし鋼のような硬質さを帯びた声が漏れた。


「絶対に、嫌だ」


​ 佐伯が、虚ろな目で彼女を見た。


「何を言う……」


「隠されたまま滅ぶなんて、絶対に嫌だ」


 遥は、立ち上がった。その瞳には、絶望を焼き尽くすほどの、激しい怒りの炎が燃え上がっていた。


「たとえ、明日、この星が丸ごと奴らの『門』になろうとも。たとえ、人類全員が、残らず狂い死ぬ運命だとしても。私は、家畜のように黙って殺されるのはごめんだ」


​ 彼女は、佐伯の胸ぐらを掴み、無理やりその顔を上げさせた。


「私たち人間は、確かに弱くて、愚かかもしれない。でも、少なくとも、自分たちの敵が誰なのかを知り、その名を叫びながら滅びる権利くらいは、あるはずでしょう!? それが、人間としての、最後の尊厳じゃないの!?」


​ 遥は、佐伯に、そして自分自身に、言い聞かせるように叫んだ。


「テレビ局の電波をジャックする。そして、この真実を、日本中に、いや、世界中に、放送する」


​「正気か!?」


 佐伯が、初めて焦りの声を上げた。


「そんなことをすれば、世界は大パニックに陥るぞ! それこそ、奴らの思う壺だ! 第一、どうやってやるというんだ! 我々には、金も、機材も、力も、何もない!」


​「彼がいる」


​ 遥は、静かに、祐樹を指差した。


「……彼を、使うというのか?」


 佐伯の声が震えた。遥は、冷徹に言い放った。


「ええ。祐樹くんは、シャンの端末になった。だからこそ、彼は、シャンが構築したネットワークに、誰よりも深く接続できる。彼の口ずさむ詠唱の中には、時々、通信衛星の制御コードや、放送システムの暗号キーに酷似したデータが混じっている。あなたなら、それが分かるはずよ。科学者なんでしょう、佐伯さん」


​ その計画の、あまりの狂気と、そして、悪魔的なまでの実現可能性に、佐伯は絶句した。シャンに対抗するための最後の切り札が、シャンそのものの一部と化した、かつての人間。これほど皮肉で、冒涜的な作戦があろうか。


​「……君は、悪魔だ」


「ええ、そうよ。でも、神が救ってくれないのなら、悪魔にでもなるしかないじゃない」


​ 佐伯は、長く、長く、沈黙した。部屋には、祐樹の呟きと、壁の向こうから聞こえる街の詠唱だけが響いていた。やがて、彼は、床に落ちていたノートとペンを拾い上げた。その諦観しきった瞳の奥で、かつて彼を天才科学者たらしめていた、知性の残り火が、微かに、しかし確かに、再び燃え上がった。


「……滅びるなら、せめて派手に、な。奴らの顔に、一発殴りかましてからにしてやろうじゃないか」


​ 計画は、その夜から始まった。それは、人類の歴史上、最も無謀で、そして最も悲壮な、最後の抵抗だった。


​ 決行の前夜。


 三人は、ターゲットである在京キー局の本社ビルが見下ろせる、古い雑居ビルの屋上にいた。潜伏生活で手に入れた、わずかな食料を分け合いながら、眼下に広がる光景を眺めていた。


​ 東京の夜景は、もはや、かつての美しい光の絨毯ではなかった。それは、無数の「口」が明滅し、囁き、蠢く、巨大で冒涜的な祭壇そのものだった。街全体が一つの巨大な回路となり、おぞましい儀式のために、膨大なエネルギーを溜め込んでいる。


​ 遥は、スマートフォンを取り出すと、自らのサイト『深淵通信』に、最後の記事を作成し、タイマーでの予約投稿を設定した。


​ タイトル:『これを読んでいるあなたへ』


​ 本文には、これまでに起きたことのすべてを、ありのままに、しかし感情を排して記述した。そして、最後の行に、こう付け加えた。


​『我々は抵抗する。

 たとえ、この抵抗が、より大きな絶望を招くのだとしても。

 我々は、家畜ではない。

 我々は、人間だ。我々は、ここにいる』


​ 投稿ボタンを押すと、遥は立ち上がった。眼下には、巨大な狂気の祭壇が、儀式の開始を今や遅しと待ち構えている。冷たい夜風が、彼女の髪を撫でた。


​「さあ、始めましょうか」


​ 彼女の声は、不思議なほど穏やかだった。


​「私たちの、最後の放送を」

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