第9話 我々は、ここにいる
深夜のテレビ局は、情報の奔流が一時的に眠りについた、巨大な抜け殻だった。その静寂は、死のそれに似て、不気味なほどに深く、そして冷たい。だが、その夜、三人の亡霊が、その抜け殻の中枢神経へと、音もなく侵入していた。
正面玄関の、幾重にも張り巡らされた赤外線センサーと電子ロック。それは、人間の知性が作り上げた、侵入者を阻むための鉄壁の守りのはずだった。だが、新田祐樹が、その制御盤にそっと手を触れ、彼の腕に宿った「第三の口」が、低く、しかし絶対的な権威をもって何かを囁くと、壁のセキュリティランプは、まるで忠実な僕のように、一斉にその色を赤から緑へと変えた。
ロックが、クリック音一つ立てずに解除される。それは、ハッキングなどという陳腐な言葉では表現できない、より根源的な、システムの「意味」そのものを書き換える行為だった。
三人は、眠らない城の心臓部、
祐樹が、吸い寄せられるように、メインコンソールへと歩み寄る。彼の瞳には、もはや人間の知性の光はない。あるのは、巨大なネットワークの奔流を映し出す、深淵のような空虚だけだった。彼が、その細い指をコンソールパネルに置いた瞬間、異変が起きた。
祐樹の腕を這う黒い紋様が、まるで生きているかのように脈打ち、青白い光の回路となって溢れ出した。その光は、彼の指先から機械の中へと侵食し、コンソールの上を、まるで電子的な蔦のように広がっていく。目の前のモニター群が、一斉に放送中の深夜番組の映像から、ノイズの砂嵐へ、そして、あの忌まわしい、見る者の理性を侵食する幾何学的な紋様へと、その表示を変えていった。
「始まったぞ……!」
佐伯誠が、血走った目で叫んだ。彼は、部屋の隅でラップトップPCを開き、凄まじい速度でキーボードを叩いている。彼の画面には、もはや人間の理解が及ぶプログラミング言語ではない、明滅するルーン文字や、蠢く触手のようなデータ、そして、時折、苦悶に満ちた人間の顔のようなイメージが一瞬映っては消える、冒涜的な情報の濁流が押し寄せていた。
「奴ら、気づきやがった! この放送システムを乗っ取ろうとしている我々の意図を読み、逆に、この回線を通じて我々の精神をハッキングしようとしている! このままでは、我々がシステムごと奴らに喰われるぞ!」
佐伯は、人間の矮小な論理と、かつて培った科学知識のすべてを武器として、宇宙的狂気の侵食に必死で抗っていた。それは、荒れ狂う大嵐の中で、小さな手漕ぎ舟の舵を握りしめるような、絶望的な戦いだった。
その時、建物の外から、空気を切り裂くようなヘリコプターのローター音が響き渡り、やがて階下から、統制の取れた複数の足音と、金属的な怒号が聞こえ始めた。桐島蓮の部隊が、ついに突入してきたのだ。
ガン! ガン! ガン!
副調整室の、銀行の金庫室のように分厚い防音扉が、外側から激しく、そして執拗に叩かれ始めた。特殊な破城槌か、あるいは爆薬でも使っているのだろう。扉が、悲鳴のような軋み音を上げる。
時間の猶予は、もはやない。
遥は、扉の向こうの喧騒と、佐伯の絶叫と、そして、コンソールと一体化しながら冒涜的な詠唱を続ける祐樹の姿を、まるでスローモーションのように見ていた。恐怖は、とうに限界を超え、今はただ、奇妙なほどの静けさが、彼女の心を支配していた。彼女は、静かに目を閉じ、そして、覚悟を決めた顔で、隣接するメインスタジオへと続く扉を開けた。
「祐樹くん、今よ!」
佐伯の、喉が張り裂けんばかりの叫びが響く。その声に応えるかのように、祐樹の全身が、まるで感電したかのように激しく痙攣した。彼の腕の「口」が、これまでで最も大きく、甲高い、非人間的な絶叫を上げた。
その瞬間、佐伯のラップトップ以外の、副調整室の全てのモニターの表示が、ぴたり、と静止した。蠢いていた幾何学模様が消え、完全な暗転。
そして日本中の、いや、この星の夜空に浮かぶ衛星が受信できる限りの、全てのテレビ、PC、街頭ビジョン、スマートフォンの画面が、一斉に同じ映像を映し出した。
そこは、テレビ局の広大なメインスタジオだった。無数の照明が、ただ一点だけを照らし出している。その光の輪の中に、一人の女性が、静かに立っていた。水無月遥。その姿は、あまりにも小さく、儚げに見えた。
だが、彼女の背後で、異変が起きていた。スタジオの巨大な背景パネルが、まるで水面のように歪み、そこから、次々と、大きさも形も様々な「口」が開いていく。天井の照明器具が、肉の蕾のように膨らみ、唇を形成する。床のケーブルが、黒い蛇のように蠢き、その先端が、囁く口へと変貌する。祐樹の絶叫に共鳴し、スタジオそのものが、シャンたちの聖域、巨大な祭壇へと変貌を遂げていたのだ。
そして、それらの口が、祐樹の囁きに導かれるように、おぞましい合唱を始めた。
その、地獄の聖歌隊を背にして、しかし、遥の声は、マイクを通して、驚くほど明瞭に、そして冷静に、世界中のスピーカーから流れ始めた。
「皆さん、こんばんは。あるいは、こんにちは。水無月遥と申します。突然、あなたの大切な時間を中断することをお許しください」
彼女は、まるで長年の友人に語りかけるかのように、穏やかな口調で続けた。その瞳は、カメラのレンズの奥にある、無数の、顔の見えない視聴者たちを、一人一人、見つめているかのようだった。
「ですが、どうか、聞いてください。今、あなたの隣で、あなたの家で、あなたの街で囁いているのは、気のせいではありません。それは、ストレスや、幻聴などではないのです。それは――」
彼女が、この静かなる侵略の、その冒涜的な名を告げようとした、その刹那。
ドォォン!!
凄まじい爆発音と共に、スタジオを隔てていた巨大な防音扉が、蝶番から吹き飛び、火花と煙を撒き散らしながら内側へと倒れ込んだ。
逆光の向こうの、黒いシルエットの中から、怒りと憎悪に顔を歪ませた桐島蓮が、銃を構えて姿を現した。彼の背後には、狂気の合唱に耳から血を流しながらも、なおその職務を遂行しようとする、亡霊のような部下たちの姿があった。
遥は、一瞬だけ、その破壊の化身へと視線を向けた。そして、再び、何事もなかったかのようにカメラを見据える。その唇の端に、微かな、しかし確かな、挑戦的な笑みが浮かんでいた。
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