【第三部:終焉】
第7話 静かに狂う街
逃亡とは、世界から自らの存在を消去していく作業である。水無月遥、佐伯誠、そして、もはや新田祐樹という個人の輪郭を失いかけた「それ」は、東京という巨大な迷宮の中で、影のように息を潜めていた。彼らは、監視カメラの死角を選んで移動し、現金だけを使い、ネオンの光が届かない、都市の血管の末端のような安宿を転々とした。
だが、安息の地など、この星のどこにも存在しなかった。なぜなら、侵略は、もはや特定の場所で起きている現象ではなかったからだ。
それは、まるで空気中に拡散する致死性の胞子のように、あるいは、水道水に混入された無味無臭の毒のように、静かに、そして遍く、この世界を覆い尽くし始めていた。
彼らが潜む安宿の、壁の染みが、ある夜、ゆっくりと瞬きを始める。遥は、それに気づかないふりをして、毛布を頭まで被った。隣の部屋から聞こえてくる、古びたエアコンの室外機の振動音が、いつしか、規則正しい、しかし意味をなさない詠唱へと変わっていく。佐伯は、酒瓶を片手に、その冒涜的なリズムに合わせて、虚ろな目で指を振っていた。
街に出れば、狂気はさらにその濃度を増した。
駅のホームに設置された自動販売機が、商品見本のLEDを、まるでモールス信号のように明滅させながら、「グシュ」と、圧縮空気が漏れるような音を発している。人々は、その異常に気づきながらも、自分の正気を疑うことを選び、見て見ぬふりをして通り過ぎていく。横断歩道の信号機が、赤と緑の光の合間に、一瞬だけ、唇の形をした第三のシンボルを映し出す。子供がそれを指差すが、母親は気味悪そうにその手を引くだけだ。
「口」は増殖し、囁きは、都市が発する無数のノイズの中に、環境音として溶け込んでいった。
そして、世界は、暴力的なパニックに陥る代わりに、もっと陰惨で、救いのない形で、ゆっくりと狂っていった。
テレビのニュースは、原因不明の偏頭痛や、集団幻聴の症例が、全国で爆発的に増加していると報じていた。専門家と称する人物が、現代社会のストレスや、新型のウイルスが原因ではないかと、的外れな分析を繰り返す。人々は、その言葉に僅かな安堵を見出し、処方された精神安定剤を水で流し込み、再び、囁きの満ちる日常へと戻っていく。
街から、会話が消えていった。人々は、イヤホンで耳を塞ぎ、スマートフォンの小さな画面に没頭することで、外の世界から自分を遮断した。だが、そのイヤホンから流れる音楽の隙間にも、スマートフォンのスピーカーの奥からも、あの冒涜的な囁きは、僅かに、しかし確実に漏れ聞こえてくるのだ。人々は、眉間に皺を寄せ、首を傾げ、そして、諦めたように、再び無表情へと戻っていく。
それは、熱に浮かされた人間が、ゆっくりと死に向かっていく過程に似ていた。激しい苦痛や抵抗はない。ただ、静かに、緩やかに、生命の機能が一つずつ停止していく。東京は、巨大な精神の病棟と化していた。
その病棟の、最も重篤な患者が、新田祐樹だった。
彼は、もはや食事も、睡眠も、ほとんど必要としなくなっていた。ただ、部屋の隅で体育座りをし、虚空を見つめ、腕に宿った「第三の口」が発する囁きを、壊れたテープレコーダーのように、ただ忠実に復唱し続けるだけだった。
「……ン・ガイ……ン・ガ……」
「……ヨグ・ソトース……ネブ……」
「……ルルイエ……フタグン……」
その言葉は、もはや単なる無意味な音節ではなかった。そこには、ある種の文法と、おそろしくも一貫した論理性が感じられた。それは、遥や佐伯には理解できない、シャンたちの言語だった。祐樹は、人間としての自我を、彼らの言語に乗っ取られ、シャンという宇宙的ミームをこの世界に媒介するための、生きたアンテナへと変貌しつつあった。
佐伯は、その祐樹が発する冒涜的な言葉を、憑かれたようにノートに書き留め続けた。彼の科学者としての最後の理性が、この狂気の現象の中に、何らかの法則性を見出そうとしていたのだ。彼は、祐樹の囁きと、街の様々な場所から聞こえてくる囁きのパターンを照合し、膨大なデータを前に、何日も何日も、狂人のように計算を繰り返した。
そして、ある朝、佐伯は、血走った目で遥に一枚の紙を突きつけた。そこには、東京の地下鉄路線図と、電力網、そして水道網の図面が、無数の数式と、理解不能な幾何学模様によって、びっしりと埋め尽くされていた。
「……分かったぞ……奴らの狙いが……」
佐伯の声は、絶望と、そして、あまりにも巨大な真実を発見してしまった科学者の、畏怖に満ちた興奮に震えていた。
「これは、単なる侵略や汚染などではない。もっと、壮大で、そして冒涜的な計画だ。これは、『儀式』なのだよ」
彼は、路線図の中心、皇居の地下深くに位置する一点を、震える指で示した。
「奴らは、我々が築き上げた都市のライフライン――電力網、通信網、地下鉄網、水道網――その全てを乗っ取り、東京という都市そのものを、一つの巨大な『詠唱装置』へと作り変えようとしているのだ」
佐伯は、遥の顔を覗き込んだ。その瞳の奥には、正気と狂気の境界線上で踊る、最後の炎が揺らめいていた。
「君にも聞こえるだろう? この街の至る所から聞こえる、あの囁きが。あれは、バラバラに聞こえるが、違うのだ。あれら全ては、一つの巨大な聖歌の、異なるパートなのだよ。送電線の唸りは低音のバスパート、光ファイバーを流れるデータは高音のソプラノ、地下鉄がトンネルを駆ける音はパーカッションだ。そして、祐樹くんのような『感染者』は、その聖歌を導く、司祭の役割を果たしている」
「儀式……? いったい、何のための……」
遥は、か細い声で尋ねた。
「決まっているだろう」
佐伯は、まるで世界の終焉を告げる預言者のように、厳かに、そして絶望的に、その答えを口にした。
「奴らは、この星そのものに、巨大な『口』を開けるつもりなのだ。我々の太陽系が、奴らの故郷である、あの冒涜的な時空と直接繋がるための、巨大な『門』を。そして、この東京で鳴り響いている囁きの合唱は、その門を開くための、呪文の詠唱なのだよ」
その言葉が終わった瞬間、部屋の電灯が、まるで佐伯の言葉に呼応するかのように、一斉に明滅を始めた。そして、壁の向こう、街の至る所から聞こえてくる囁きの合唱が、その音量を、一段、また一段と、確実に上げていくのが分かった。
儀式は、最終段階へと移行しつつあった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます