青より出でて青より愛し

文鳥

青より出でて青より愛し

「何です、藪から棒に」

 出来るだけ自然体を装って問うた俺に、一拍ののち師匠は、表情一つ変えずに返してきた。その後ろには大量の派手な色の箱やケースに入ったままのトランプ、刃の潰してある剣なんかが積み上がっていて、肩身の狭そうな家具は上に乗せた異国の置物や方位磁針のせいでその優美さを発揮できていない。壁に飾られたカラフルなガーランドやいくつもの仮面のせいもあり、何だか子供の秘密基地や玩具箱の様な印象を与える。艶のある木製の椅子に腰かけた彼の手には今しがたポケットから顔を出したばかりの小さな旗達が仲睦まじく揺れている。師匠が珍しく途中で手を止めていたことに気づき、瞠目する。けれど、それも仕方のないことだろうと思い直した。貴方にとっての愛とは何か、なんて急に問われて、すぐに答えられる奴はきっとどうかしている。……まぁ困惑も狼狽もしないこの人も、それに慣れてしまった俺も、おかしいのかもしれないけれど。逸れかけた思考を強制的に戻し、はぐらかされてなるものかと師匠の顔を見る。白磁の肌に陽の光で染め上げた絹糸のようなふわふわとした髪。それと揃いの金に近い亜麻色の長いまつげに縁どられた瑠璃の瞳は澄んでいて、桜色の唇はゆるりと弧を描いている。本当に人なのかと疑うほどの美貌に湛えられた、完璧すぎる微笑み。これ以上なく精巧につくられたビスクドールなのだと言われた方がまだ納得できただろう。

「別に、気になったから聞いただけです。それより、答えて下さい」

「本当に可愛くない弟子ですねぇ」

「何を今更、可愛くなくて結構です」

「そういうところですよっ」

 いつの間にか旗をしまった師匠が立ち上がり、ぐしゃぐしゃと俺の髪をかきまわした。あちこち跳ねる短い髪を撫でる手つきが見かけよりずっと優しいことはとうの昔に知っている。今はもう自分と高さのほとんど変わらない碧眼に映りこんでいるのは野良猫のように無愛想な黒髪黒目の青年。呑まれそうな青に思わず目をそらしてしまい、俺は自分の負けを悟った。


 結局うやむやになり、消化不良のまま問答は中断となった。問答と言っても、答えはなかったけれど。紅茶を入れたカップを二つ、一つは彼の前にある机の上に、一つは部屋の中央にあるテーブルの上に。テーブルの傍のソファに腰を下ろし、本を読む彼を横目でみやると、通りに面した窓から差し込んだ夕日で髪が金色に光っている。その色には覚えがあって、カップから立ちのぼる湯気を見ているうちに、頭の中に昔の光景がゆらめいた。







 この帝国の人々の大半は魔力を持っている。魔力の質や量は皇帝を最高として、そのあとに皇族、貴族、平民と続く。けれど、何事にも例外というものはある。時折、全く魔力を持たない子が生まれるのだ。皇族だろうが貴族だろうが平民だろうが同じように。身分なんてものは関係なく、ある意味それこそが平等なのだとでも言うように。それでも平民の生まれならばまだいいほうだ。他者と自分との差を日々痛感しながらも生きていくことは出来る。問題は皇族や貴族として生まれた場合だ。プライドの高い彼らにとって、自分と同じ血をひくものが誰でも持っているものを持っていないというのは恥以外の何物でもないらしく、皇族や高位の貴族ほど、この傾向が強まり、ほぼ確実に殺される。しかし、捨てられたり、売られたり、逃がされたりして、ごく稀に幸か不幸か生き延びることがある。

 そして、そんな子供たちはいつしか一か所に集まるようになった。協力するわけでもなく、ただ世間の目から逃れたいがために、自分の血族に見つからないために。そうして城や貴族たちの屋敷のある東側とは反対に街の西側を覆うようにスラムが形成された。どこからか拾ってこられた廃材で作られたであろう建物もどきが所狭しとひしめき合う、昼でも薄暗い其処には孤児のほかにも大手を振って表を歩けないような輩が居つき、どんどん劣悪な環境になって行った。

 人身売買、追剥に殺人。犯罪が蔓延り、弱者は同胞があっけなく命を散らすのを見て、明日は我が身と震えながら朝日が昇るのを待つ。まさにこの世の地獄。けれどそこから抜け出す術を持たない子供が生きるには自らも手を汚すしかない。奪われる前に奪う側に回るしかない。そうしてみんな蹴落とし合って生きていた。

 かくいう俺もその一人だったし、ずっとそうして生きていくのだと思っていた。あの日までは。

 



 いつものように獲物と決めた奴の背後から近づき、隙をうかがっていた。着ている者は今までの奴らと違い、ごてごてと飾り立てられてこそいなかったが、上等なものであることは素人の俺でも一目でわかった。おおかた箱入りのお坊ちゃんがここがどんな場所かを知らずに迷い込んだのだろう。背はそこそこ高いものの細身だからか、威圧感などはなく、顔は見えずとも華奢な優男だろうと予想がつく。おまけに大人しくしているのが馬鹿らしくなってくるほど隙だらけ。これなら楽に勝てる。そう判断を下し、蟀谷に狙いを定め、地面を蹴る。振り上げた拳は真っ直ぐに男の右側頭部に向かっていき、刹那、薄暗がりに青が閃いた。

 ―――からん

 握りしめていた石が手から落ちた。気づけば汚い路地に尻餅をついていて、男に手首をまとめて壁に押さえつけられていた。

『なんだ、まだ子供じゃないですか』

 口調とは裏腹に、驚きなど微塵も感じられない態度。男が振り返った一瞬で、殴りかかった腕を取られて引き倒されたのだと気づくまで少し時間がかかった。打ち負かされ、そればかりか拘束されているという事実と男の言葉に頭に血が上りそうになるのを抑え、顔を上げて睨む。手首を押さえる力は強くない、我武者羅に暴れて、手が緩んだ隙に逃げるか。いや、やめておこう。男は先程と何も変わっていない。けれどどれだけ隙があるように見えても、突っ込んでいけば絡め捕られて終わりだろう。先ほどの俺がまさにそうだ。腹立たしいが言葉通りに子供だと侮ってくれたらまだ可能性があるのに。

『……うん。気に入りました』

 歯噛みをする。影になっていて男の顔は見えない。売られるのだろうか、それとも見世物にでもされるのだろうか。俺の髪と目の色はそれなりに珍しいらしく、人攫いに目を付けられたこともあった。この男もそういう類なのかもしれない。どうにかして逃げなくてはと更に男をねめつける。

『ねぇ、貴方』

 自分が呼ばれたのだとすぐにはわからなかった。そんな丁寧な口調で孤児、しかも自分を襲った子供に話しかける奴なんて今までいなかったから。罵倒なら耳にタコができるほど聞いたけれど。こいつ頭がおかしいのではと疑問が首をもたげた。けれどそんなことはすぐにどうでもよくなった。正確には他のことに気が向いて忘れてしまったというべきか。太陽の位置が変わり、男の容貌が白日の下にさらされた。

『私の弟子になりません?』

 色の白い、触れるのが躊躇われるほど嫋やかな手が差し伸べられる。倒される前に見た、稲妻のような青の正体を悟った。瞬きを忘れた。その場全ての音が掻き消えた。きっと俺の口はぽかんと開いていて、間抜け面をしているだろう。発せられた声は歌を聞いているようで内容などまるで入ってこない。綺麗だ。熱に浮かされたようにぼんやりする頭でそう思った。こんな煤けた場所など似合わない。俺のような薄汚れた餓鬼が彼の視界に入っていいのか。どうか、見ないでくれ。罪悪感に似た劣等感が湧き上がるも目が離せない。これまで生きてきて、学のなさを恥じたことはなかった。むしろ、上っ面だけの礼儀作法やおべっかの使い方なんかを学んで、俺を捨てたくそ野郎どものようになるのはまっぴらごめんだと思っていた。けれど俺が無知でなかったら、この人をもっと違う言葉で表せたのだろうか。相応しい言葉なんてありはしないのかもしれないけれど、それを探すことは賞賛になるだろうか。それとも不敬だろうか。言動だけを見れば怪しすぎる彼の誘いにどう答えたのかは覚えていない。けれど一つ確かなことがあるとすれば。あの日、俺は彼の手を取ったのだ。



 家へ向かう道中、俺たちはものすごく目立った。もちろん、悪い意味でだ。珍しい黒髪黒目のみすぼらしい子供と、絶世の美人が手を繋いでいるのは人々の目を引いたようだった。俺の輪郭を舐める、好奇心や懐疑に嫌悪、侮蔑の混じった視線。殴り飛ばすわけにもいかず唇をかむ。

『……少し手を離しますよ』

 まさか、置いて行かれるのか。血の気が引き、冷や汗が出る。そう思ったのもつかの間、彼は上着を脱ぎ、俺にかぶせると、手を繋ぎなおした。

『大丈夫。すぐ其処です』

 汚してしまう。狼狽える俺の心を読んだかのように、彼は繋いでいない方の手で布越しに俺の頭を撫でた。




 彼の家は主に赤茶と黄土色の煉瓦と褐色の瓦で出来ていた。周りの家と比べても遜色がなく、それどころか少し大きめなうえに二階建てで木枠の窓には高価なはずの透明な玻璃が嵌っている。今になって、この人は何者なのか不安になった。年齢はわからないが外見は若く、十代後半と言っても通じるだろう。貴族のお坊ちゃんかと思っていたが、家を見る限りはそういうわけではなさそうだ。随分と稼ぎのいい平民と言ったところか、でもその職業とはいうと皆目見当がつかない。

『ほらほら、何突っ立ってるんですか。遠慮せず入ってください』

 家の前で立ち止まっていた俺を不審に思ったのか、軽く背中を押される。家の中に入ったもののどうすればいいかわからず立ち尽くす俺を尻目に彼は帰ってから動きっぱなしだ、と思った矢先、彼が急に寄ってきた。

『お湯を張ったので、湯殿で湯浴みをしてきてください』 

 手をひかれ、湯殿という部屋に案内される。壁も床もタイルで覆われた其処には壁には鏡がかかり、台にはいくつかの瓶。そして、なみなみとお湯の入った大きな入れ物があった。彼は俺の手を引いたまま入ると、脱いだ衣服は部屋の外の籠に入れる。体を洗う時は白い瓶、髪を洗う時は青い瓶のものを使う。泡は目や口に入らないように気をつけ、よく流す。そのあとはきちんと大きな入れ物、湯船の中のお湯につかって温まる。といった風に一つ一つ教え始めた。

『あ、大事なことを言い忘れてました』

 何を言われるのかと思わず身構える。

『タイルで滑ったり、湯船で溺れたりしないようにくれぐれも気をつけてくださいね』

 何か起きたり、わからないことがあったりしたら呼べと言って彼は、拍子抜けする俺を残して出て行った。




 湯浴みを終え、籠に置いてあった服に着替え、彼のいる部屋に向かう。扉を開けると美味そうな匂いが漂ってきて、腹の虫が盛大に鳴いた。くすくすと笑う声が聞こえてきて、カッと顔が熱くなる。言い訳をするより先に彼がこちらを見て目を丸くしたあと近づいてきたので思わず後ずさった。何かしてしまったのだろうか。

『髪がびしょびしょじゃないですか』

 そういえば、髪は体と違って拭かなかったな。自然に乾くからいいかと思った。後ろを振り返れば、湯殿から今いる場所まで水の跡が続いている。蝸牛が這った跡のようだ。怒られる。衝撃に備えて目をぎゅっと瞑っていると、頭が何かふかふかしたものに包まれた。

『言わなかった私も悪いですけど、濡れたままだと風邪をひきますよ』

 着替えと一緒に籠に入っていたものと同じような布でわしゃわしゃと髪を拭かれていた。

『やっぱり服のサイズ、少し大きかったですね。明日、必要なものを買いに行きましょう』

 頭上から声が降ってくる。怒られなかったことに胸をなでおろしつつ、手をひかれて彼の向かいの席に座る。薬や毒が入っている可能性がよぎるが、湯気の立つ見たこともない食べ物に唾をのみ、言われるまま、見よう見まねで手を合わせた。




 食事の後、テーブルには紅茶とやらの入ったカップが置かれた。彼が席に着くのを見計らって口を開く。

『なあ、あんたは何者だ?』

 膝の上で拳をきつく握る。彼は紅茶で唇を湿らせた。瞳が三日月みたいに細くなって、薄く開かれた唇の奥で赤い舌が覗く。カップを置くカチャリという音がやけに存在感を伴って部屋の中に落ちた。

『奇術師ですよ』

『……キジュツシ?』

『まあ、無理もないですね』

 見てもらった方が早いからと彼がいい、二人してテーブルを離れて立つ。彼は部屋の隅から黒い背高の帽子を取って戻ってきて、中に何もないことを俺に確認させた後、帽子を逆さにした。

『さあさあどうぞご覧あれ。種も仕掛けもございます』

 突如、芝居がかった口調で述べられた口上に何か言う暇もなく、帽子から勢いよく花と鳩が飛び出した。呆気にとられる俺の上に花弁が落ちる。気の抜ける鳴き声と共に白い羽根が舞った。

『なんっ……はあっ?』

『吃驚しました?魔法を使わずに、仕掛けと己の技術で奇跡を起こし、

 人を魅了する。其れが奇術です』

 言葉を失うとはこのことか。得意げな笑みに対して、状況が呑み込めずに目を白黒させていると、俺の髪についた花弁を彼の指先がつまむ。ほとんど反射でその腕をつかんだ。彼は、おやと声を漏らしたものの、其の表情は変わらない

『あんたのことはわかった。なら、奇術師サマが俺みてーなのを選んだ理由は何だ。スラムには子供なんざ山ほどいるし、きっと弟子になりたい奴は街にだって掃いて捨てるほどいるだろ』

 そいつらが技術目当てか、この人目当てかは知らないが。俺と彼の間を沈黙が支配する。このまま答えないでくれ。質問したのは自分なのに、身勝手な思いが胸に澱む。それでも聞かずにはいられなかった。そんな自分に反吐が出そうだ。

『……それともなんだ。同情か?物珍しさか?』

 そんなのいらない。彼が答える隙を与えず捲し立てた。いつか失望させられるくらいなら、今嫌われたかった。傷が浅いうちに、俺が温もりに慣れるまえに、裏切ってほしかった。

『スラムに行ったのは、骨がある子が良かったからですが。たしかに同情の念が全くなかったとは言い切れません』

 ほらやっぱり。安堵を覚えていることに気づき、自嘲する。

『でも、あなたを選んだことにあなたの色彩は関係ありません。これは自信を持って言えます。たとえ出会いは偶然だとしても、私は貴方を気に入った。それに、』

 決めるのは貴方だと彼は言った。あの路地での選択を気の迷いにするか、そうでないかを。目の奥がつんとした。それを悟られてなるものかと意図的に眼差しを鋭くする。

『……薬と殺し以外のきたねえことは大体やった。あんたのことも裏切るかもしれねえぞ』

 手を離すなら今が最後のチャンスだと言外に告げる。それはどちらに向けてだったのだろうか。結局俺は怖いだけなのだ。信じるのも、裏切られるのも。それなのに突き放そうと足掻くのだから救えない。これでは無知な子供が喚いているだけだ。

『そのときは、私の目が節穴だっただけのことです。そういえば、名前を教えていませんでした』

 あっけらかんとした返答にこちらが面食らった。それと同時に鳴りを潜めていた疑問が確信に変わる。こいつは頭がおかしい。あんた馬鹿だろ。そう言った声はやけにゆらゆらと空気を震わせた。

『失礼ですねぇ』

 むくれた子供みたいに唇を尖らせる。けれど、すぐに笑みを浮かべ、一礼した。

『私は、———といいます。貴方は?』

 良く似合う名だと思った。落ち着いた声のせいもあってか、染み込むように心地よく耳に馴染む。こんな綺麗な名前を知る栄誉が俺みたいなのに与えられていいのか。神を信じたことはないけれど、もしもいるとすれば、きっと、目の前で笑うこの人は心底神に愛されている。俺を心底嫌った神に。彼の名前も、もしかしたらそいつが付けたのかもしれない。

『名前はない』

 スラムで使われたことのある呼び名を思い起こして途中でやめた。じゃあ私がつけてもいいでしょうかと言われたので是認すると彼は顔をほころばせた。なにがそんなに楽しいのか。さっぱりだ。

『では、貴方の名前は———。今日から貴方は私の弟子です』

 小波のように鼓膜が震えた。思えば、この人の声は出会った時からずっと柔らかかった。顔が情けなく緩みそうになり慌てて引き締める。気づかぬうちに青ではなく橙を孕んでいた陽光が彼の髪を金色に縁どる。右手を差し出しながら、これから宜しくと言う彼に、利害の一致だと返しながら、その手を握る。路地や街中ではそれどころではなかったが、白いばかりだと思っていた掌の皮は案外硬く、豆も出来ていた。けれどあの身のこなしを考えれば当然とも思える。向こうが透けて見えるほど淡い薄布を幾重にも重ねたような、深い青が俺の黒い目を射抜いた。仄かに挑戦的なその色を負けじと見返す。奇術師の弟子になった日、俺は海の広さを知るより先に、その色を知った。

『……宜しく』




『出かけましょうか』

 そういった彼は既に外套をまとっている。確認のために窓の外を見ると太陽はもう、半分以上没していた。突拍子もない言動に眉をひそめる。

『はあ?今日はもう遅いし、あんたこれから仕事……』

 最後まで言い切る前に、ある可能性に思い当たる。まさかと思い彼を見上げると、師匠は悪戯っぽく笑った。

『ええ。貴方が弟子入りしてから半年がたちますし、腕前はともかく、知識は増えてきました。ですから見ておいた方がいいかと思いまして』

 一言余計だ。けれど言い返す言葉は持ち合わせておらず、ただ睨むにとどめる。手に取った、予想と違う数字のカード。蓋を開けた箱の中で何本ものナイフに貫かれ、無残な姿をさらす林檎と刃先から滴る透明な果汁。修行の成果を思い出す。家事は多少はできるようになったし、読み書きや計算だって教えてもらったおかげで、簡単なものならわかるようになった。けれど、肝心の奇術だけは一向に上達しない。

『それとも、今度にします?』

『……行く』

 悔しいが、好奇心の方が勝った。何より、奇術師として舞台に立つこの人を見てみたかった。絶対言ってはやらないけれど。気づけば夕陽の最後の一欠片は地平線へと姿を消し、夜の帳が落ちていた。俺が怒ったと思ったのか、困ったように笑いながら謝るその人に、大げさに拗ねたふりをして、明後日の方を向いた。




 夜に街を歩くのも、中心にある劇場に行くのも初めてで、悔しさも忘れ、胸が弾む。道端の街灯の火が生き物のように形を変えるのが面白い。酒場の客引きの声に誘われてふらふらと灯りに群がる蛾のような輩を避け、師匠の後を追いかける。彼は足の長さの割に歩くのが遅いので見失うことはない。石畳の上を歩いていくと、遅い時間にもかかわらず、劇場の周りには人が溢れていた。皆一張羅を着て口々に何か語らっている。その中に貴族も交じっていることに気がつき、師匠の上着の裾を掴む。彼は前を向いたまま、堂々としていなさいと言った。一歩後ろの辺りまで近づき、横顔を見上げる。この人がいれば大丈夫だと思った。今は真似でしかなくても、前を向く。開演時刻はまだ先なのに、チケット売り場には蟻のように長い行列ができている。ショーを待つ人々の声は興奮が隠しきれていなくて、知らず口元が緩んだ。




 裏口から入ると師匠は慣れたように挨拶と俺の紹介をして回った。直接弟子だと師匠に言われるのは何だか変な感じがする。挨拶は握手と共に少し言葉を交わすだけなので、そう時間はかからない。けれど最後に一人、厄介なのがいた。なかなか師匠の手を離さないうえに値踏みするような目でじろじろと見る、目が痛くなるような服の下にでっぷりと脂肪を着込んだ男。口はまわるようだが割れた玻璃のような声が耳障りだ。結局そいつは他の奴が呼びに来るまでそのままで、いつものことだと微苦笑する師匠に苛立ちが募った。けれど、舞台袖に連れて行かれたので、一度自分の両頬を叩いて気合を入れる。師匠は準備のために何処かへ消えた。もうすぐ幕が上がる。


 客席の照明が落ち、深紫色の幕が引き上げられた。スポットライトが照らす華々しい壇上に男が一人立っている。目元を覆う白と金の仮面をつけており、その瞳の色を窺い知ることはできないが、その口元は微かに笑んでいる。左頬には黒い雫の化粧。鼻梁はすっと通っていて、半分隠れていても背筋が凍るほど整った顔をしていることは容易に察せられた。彼が丁寧に礼をする。開演前はあんなにざわついていたのに今はそれすら懐かしくなる、静寂。観客は皆、瞬きすら惜しいと言わんばかりに彼を見つめている。その美貌が、雰囲気が、一つ一つの仕草が、すべてを圧倒する。劇場の中にいる観客は一人の男に完全に掌握されていた。

『紳士並びに淑女の皆様。ショーにお越しいただいたこと厚く感謝申し上げます。ご安心を、後悔はさせません。今宵、皆様に夢のようなひと時をお約束いたします』

 大仰な口上の後、彼は上着のポケットから首飾りを取り出した。細い銀の鎖に鮮やかな翠の石が付いている。すると俺の横をすり抜けるように、女が一人、舞台に出ていった。彼女は男から首飾りを受け取ると、それを持ったまま短く何事かを唱えた。その瞬間彼女の左の掌の上には顔ほどの大きさの水の玉が現れ、右手の首飾りの石が眩く光った。石は水の玉が観客の頭上を一周する間は光り続けていたが、それが消えると同時に光を失った。女は首飾りを返すと、観客に向かってお辞儀をして捌けた。男はそれを首につけると笑みを深めた。

『さあさあ皆様。これよりお見せする奇跡には、種も仕掛けもございます』

 彼が取り出したハンカチーフは手の中で一瞬のうちに鳩に姿を変え、劇場の二階席まで飛んだあと、戻ってきて彼の指先にとまった。首飾りの石は光っていない。数秒の空白。そして、拍手の音で劇場が揺れた。観客は、顎が外れたような顔で固まっている者。言葉を失い、涙を流す者。種を見破ろうと躍起になる者と様々だ。

『すげえ……』

 慌てて両手で口をふさぐ。その間にも、男は観客が選んだ色のカードを同色の花に変えて見せた。どうやら声は聞こえていないようだ。ほっと息をつく。本当に仕掛けがあるのか疑いたくなるような不可思議。どれもまだ習っていないものばかりで舞台袖から見ても、その仕組みは見当もつかない。熱狂の渦の中、笑みを崩さない男の横顔。仮面の奥の瞳の色はやはり窺うことはできなかった。




 割れんばかりの拍手に見送られて舞台袖に戻ってきた彼を引っ張り、その辺にあった大道具の椅子に座らせる。仮面を奪い、汚れるのも構わずに化粧を親指で拭う。されるがままの彼は少し不思議そうだった。それでも、今しかないと思った。一瞬でも遅れてしまえば、取れなくなるような気がしたのだ。仮面が師匠の顔に根を張り、そこから皮膚が硬化して、本当に陶器の人形になってしまう、そんな妄想。

『急に何ですか』

 仮面が取れなくなると思った。何て言えるわけもなく押し黙っていると、師匠はせっかちだと笑って俺の頭を撫でた。この人に頭を撫でられることがどれほど名誉なことかは子供心に理解していて、俺は特別を甘受しながら、その温度にひたすら安堵していた。そして、露わになった瞳を覗き込んでは、いつもの見透かすような深い青が浅瀬のように澄んで、奥に何か透けて見えはしないかと、目を凝らしてみるのだった。




 目を見つめたままの俺に向かって師匠が口を開く。けれどそれはじゃらじゃらと金属同士のぶつかる不協和音に遮られた。

『おおっ奇術師殿ではありませんか。このようなところにいらっしゃったか』

 にやにやと気味の悪い笑みを浮かべ、床を軋ませながら歩いてきたのは、開演前に会った男だった。師匠が俺とそいつの間に立つ。男は師匠の後ろにいる俺には気づいていないらしい。その濁った眼は飾りなのだろうか。

『此度の公演も大盛況、流石ですなっ』

『お褒め頂き光栄です、侯爵殿』

『いやはや奇術師殿は相変わらずお美しくていらっしゃる。ところで例の件ですが……』

『……それは前に断らせていただいたはずです』

 けれど、男はしつこく食い下がる。

『ですがっあなたにとっても悪い話ではないはずだっ』

 今にも掴みかからんばかりの剣幕で叫ぶ男の前に進み出て、何も言わずそいつの細い目を見上げる。

『……この子供は?』

 男は怪訝そうな顔で師匠に尋ねた。

『僕はこの人の弟子です』

 師匠よりも早く答えたのは不味かっただろうかと口にした後で思い至る。そもそも一度師匠が紹介してたのに、覚えてないのだろうか? 呆れてものも言えない。男は驚き、小さな目を見開いて、半歩下がったあと、下卑た笑みを浮かべた。愛想笑いにしても酷すぎるだろ。厚い見た目と違って薄っぺらい奴。

『おおっそうか、今、君の師匠を説得してたんだ。皇帝陛下が奇術師殿を大層気に入られたそうでね。君も、師匠が皇室お抱えになったら誇らしいだろう?』

 頷けと目が言っていた。外堀を埋めれば師匠も断れないと思ったか、子供なら懐柔できると思ったか。誇らしいのはこの人の弟子であることで、皇室なんぞどうでもいいというのに。俺は皇族が嫌いだ。皇帝なんて言うまでもない。貴族もだ。でも、おまえみたいなのが一番大嫌いだ。

『お言葉ですが、師匠が断った以上、この話はすでに終わっているかと。それに、僕自身そういったことに興味はないのです』

 だからさっさと消えろ。口には出さないけれど、ありったけの悪意を込めて笑って見せた。子供に口答えされるとは思っていなかったのだろう。男は真っ赤な顔を歪めて後ずさると、気が変わったらご連絡をと師匠に告げて、どたどたと去って行った。ざまぁみやがれ。くつくつと笑いながら振り返ると、師匠が困っているような、怒っているような顔で立っていた。いつも微笑んでいる彼にしては珍しい。まだ半年しか一緒にいないけれど、その間で見たことのない表情だった。

『危ないことはしないでください。相手が逆上したらどうするつもりだったんですか』

 らしくもなく、僅かに焦りの滲んだ声。師匠がしゃがんで俺と目を合わせる。諭すとき、この人はいつも真っ直ぐに目を見る。見透かすような透明さが、底の見えない深さが、俺の視線を絡め取って離さない。

『あなたの教えに従ったまでですよ。言葉で武装しろと言ったのはあなたでしょう』

 事実、彼が言ったことだった。社会の中で、殴って解決できることはそう多くないと。舐められたくないのなら、言葉で武装しなさいと。礼儀作法も敬語も嫌だ。そんなものを学んで何になるのか。そう駄々をこねていた俺は、それ以来必死になって勉強したのだ。

『そうですけれど、あれは私の問題です』

『……け……な』

『え?』

『ふざけるなっ』

 周りに人がいなくてよかった。頭の片隅でそう思うが、きっと、誰かいたとしても俺は同じことをしただろう。付け焼刃の上品さなどとっくに剥がれ落ちていた。

『切欠はあんたかもしれねえが選んだのは俺だっ。俺が流されたなどと思うなっ。あんたが巻き込んだなどと思いあがるなっ』

 身長も奇術の腕もすぐにあんたなんか追い越してやると、吐き捨てた。気が高ぶって酸素が足りないのかくらくらする。そのまま何も言わない彼を睨みつける。その時彼は何と言ったのだったか。生意気だと頭を撫でたのか、出来るといいですねと笑ったのか、どうしても思い出せない。




「おや、起きましたか」

 師匠の声が聞こえて、目蓋を持ち上げるも、頭の中に霞がかかったようにぼんやりする。ああ眠ってしまっていたのか。……懐かしい夢を見た。握った手の中から色とりどりのハンカチーフを取り出す師匠は、出会ったころと何ら変わっていないように見える。初めて劇場に行ったとき、俺は彼に啖呵を切った。周囲に人がいたら、十人中十人が鼻で笑うような大口を叩いた。嘘にするつもりなど毛頭ないし、実際に奇術はともかく、身長はもうすぐ彼を抜かすだろう。

「……昔の夢を見ました」

 この口調も、彼の弟子としての振る舞いも、すっかり板についた。

 青が不可視の線をなぞるみたいに迷いなくこちらに向けられる。

「貴方も昔は可愛げがあったんですけどねえ」

 まるで、俺だけが変わったかのように話すのが気に食わない。中身はともかく彼の頬には傷どころか、シミも皺もないけれど。触れそうになっては躱されて、笑みの仮面の隙間に指を掛けようとしては失敗する。立ち上がって、彼の前に移動すると、自然に見下ろすことになる。失礼かとも思わないでもないが、そのうち見下ろすのが当たり前になるのだと思い直す。清廉に、鮮烈に輝く無上の青。これより美しいものを俺はいまだに知らない。

「あの問答の続きをしましょう」

「……いつの間にそんなねちっこくなったんです?」

「答えてください」

「……愛とは何か、でしたか」

 次の瞬間、彼が述べたのはありきたりな一般論、口調はどこか芝居がかっていて、脳裏にスポットライトがちらついた。

「聞きたいのはそんなつまらないことじゃない、俺が聞きたいのは」

 一人称を戻したのはわざとだ。仮面をしたまま相手の仮面を狙うほど、滑稽なことはない。年々底知れ無さを思い知らせるあの青に、手をのばすのを諦めるには囚われすぎた。俺にとっての愛はこの人の形をしている。

「あんたの答えだ」

 この世で最も多様で不定形なものが、この人にとって何色で、どんな形をしているのかを知りたい。そうしたらほんの少しでも近づける気がした。奇術師殿でなく、あんたの答えが聞きたいのだと、そういった俺に向けた彼の目の奥で蕩けたのが、好奇か、憐憫か、はたまた別の何かだったのか、読み取ることはできなかったけれど、かつて初めて行った劇場の舞台袖で啖呵を切った時に見たものに似ているような気がした。彼は立ち上がり、大仰に腕を広げて、それは美しく笑って、口を開いた。




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