また春が来るから

朧月アーク

約束の向こう側

 母の余命を告げられたのは、大学に入学してすぐのことだった。


 医者が口にした「数ヶ月」という言葉を、最初は冗談だと思った。どこかで映画のような展開を期待していた自分がいたのだと思う。奇跡的に回復して、元気になって、「びっくりしたでしょ」と笑う母の顔を――。


 でも現実は、そんな都合よくできていなかった。


 母は病に蝕まれていった。抗がん剤の副作用で髪が抜け、頬がこけ、肌が透けるように白くなって、声までもが弱々しくなっていく。


 それでも母は、俺の前では笑っていた。


「大学、楽しい?」

「ちゃんと友だち、できた?」

「サークルは入ったの?」


 それはまるで、子どもに話しかけるような優しい口調だった。あの日から、俺は毎日のように病室へ通っていた。講義が終わればその足で電車に乗り、母の病室に向かった。バイトは辞めた。金なんかいらなかった。代わりに、母のそばにいた。


 あんなにも強かった母が、こんなにも弱っていく。その事実を受け止めきれずに、俺は何度もトイレの個室で泣いた。


***


「航太」


 病室で、母が俺の名を呼んだ。


 その日は珍しく、母が先に起きていて、窓から外を眺めていた。


 春だった。桜が風に舞っていた。母は、病院の外の景色を見ながら、ぽつりと呟いた。


「もう少しだけ、生きたかったなぁ」


 それは祈りのようだった。誰に向けるでもなく、ただ空気に溶けるように吐き出された願いだった。


「……お願いがあるの」


 母が、俺のほうを向いて言った。目の下には深いくまができていて、声も枯れていた。でもその眼差しは、子どもの頃に見たままの強さを湛えていた。


「大学……ちゃんと卒業してね」

「うん」

「社会人になって、元気に生きて」

「……うん」


「ちゃんと、約束して」


 母は、俺の手を握った。


「生きて。お母さんがいなくなっても、生きて。ちゃんとごはんを食べて、眠って、笑って。あなたが生きてるってことを、世界に残してほしいの」


 泣いてしまいそうだった。でも、泣いちゃいけないと思った。母に泣き顔を見せたら、母まで泣いてしまう。そう思った俺は、精一杯の笑顔で言った。


「約束するよ。俺、生きる。母さんがいなくなっても、俺、生きるよ」


 母は安心したように微笑んで、俺の手を撫でた。その手のぬくもりを、俺は今でも忘れられない。


***


 その日の夜、母は静かに旅立った。


 心電図の音が、病室に静かに鳴り響いた。看護師が駆け寄り、俺が呆然と母の手を握る中で、淡々と処置が進められていった。


 「最期まで、穏やかでしたよ」


 医師のその言葉に、俺は頷くしかできなかった。何もかもが、あっという間だった。現実が追いついてこなかった。


 母のベッドが空になったとき、やっと俺は、声を上げて泣いた。


 泣いて、泣いて、喉が潰れるまで泣いた。天井の白さが憎らしくなるほどに、涙が止まらなかった。


***


 あれから四年が経った。


 春。卒業式の日。キャンパスに桜が咲き誇っていた。


 袴姿の学生たちが笑い合う中、俺はスーツを着て、母の写真を胸ポケットに入れていた。卒業証書を抱えて、静かに校門をくぐる。母が最後に見た季節と同じ、やさしい春の陽射しだった。


 式が終わった後、俺は一人で墓地へ向かった。駅から歩いて二十分。手には、母の好きだったガーベラの花束。


 墓の前に立つと、風が吹いて頬を撫でた。誰もいない墓地で、俺は静かに語りかけた。


「母さん、聞こえる?」


 墓石に語りかけるのは、これが何度目だろう。でも今日は、特別だった。


「俺、卒業したよ。ちゃんと、やりきったよ」


 言葉にした瞬間、こみ上げるものがあった。


「約束、守ったよ。途中で何度も心が折れそうになった。逃げたくなったこともあった。だけど……母さんとの約束だけは、守りたかった」


 涙が頬を伝う。


「生きてるよ。ちゃんと、生きてる。朝起きて、ごはん食べて、夜になったら寝る。泣くこともあるけど、笑うこともある。母さんが望んだとおりの毎日を、俺なりにちゃんと生きてるよ」


 空を見上げた。高く、どこまでも澄んだ青だった。


「ありがとうね、生んでくれて。育ててくれて。あのとき、約束してくれて」


 風がまた、そっと吹いた。どこかで、母が笑っているような気がした。


 俺は墓の前にそっと手を合わせた。


「次は俺の番だ。俺も、誰かと、こんな約束を交わせる人になるよ。誰かの人生の力になれるような人に、きっとなる。……だから見ててね、母さん」


 頬に伝った涙は、今までのどの涙よりも、温かかった。






■あとがき

約束とは、過去と未来をつなぐ祈りの形。

僕はそう考えています。


生きることを諦めそうになったとき、

思い出す誰かの声が、また明日へと背中を押す。

それが、きっと「約束」の力なのだと。

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