クワガタと君

@maru36

スイカジュース

 手汗がすごい。少し自分で笑うくらいだ。クーラーは肌を包んでくれるが、汗までは吸い取ってくれないのだろうか。君は、笑って振り返り、

「ねえ、喉乾いたし、何か飲まない。」

 と、目を見ながら聞いてきた。

「いいね。そうしよう。」

 目の前にあるフルーツジュースの店を見ながら、頷いて返した。

「何にしようかなあ。たくさんあるよ。」

 指差されたメニューを見ると、本当にたくさんの種類がある。

「私は、いちごジュースにしようかなあ。」

「いいね。じゃあいちごジュースふた…。」

 いや、待てよ。彼女の幼少期に好きだったものは虫とりで、一番好きな虫はクワガタと言っていた。あの時教えてくれた、彼女の目の輝きは忘れられない。ほんの仕事の合間の数分話せただけだったけれど。つまり、好みはクワガタなんだよな。ということは、クワガタは何が好きかというと、スイカだったはずだ。待てよ、スイカジュースはあるのか…。あった。ということは、選ぶべきジュースは、いちごじゃない。

「すみません。いちごジュース一つと、スイカジュース一つでお願いします。」

 はあ、危なかった…。まあ、ギリギリでベストな判断をできた自分を褒めたい。すぐに店員さんは、生まれたての出来立てほやほやジュースを差し出してくれた。水分が非常に体に染みた。

「どう?スイカジュース。」

 君は、ストローから口を離して聞いてきた。無言でジュースを飲み続けていたことに、今気が付いた。

「あ、ああ。おいしいね。飲みやすいよ。」

「飲んでもいい?」

「あ、うん。どうぞ。」

 水滴に気をつけて、君にスイカジュースを渡す。

「…あ、おいしい!さっぱりするね。」

 よかった…。スイカジュース選んでよかった…。一安心した。君にクワガタっぽさを少しでもアピールできただろうか。そんなことを忘れさせるほど、君は笑顔だった。ちなみに、今日の服装はいつもとは違う。黒いシャツに、ダークグレーのパリッとしたパンツだ。さすがに上下黒は変だと思い、黒になるべく近づけるように努力した。クワガタといえば、漆黒の輝く黒だ。輝きはどこで表そうかと、だいぶ悩んだ。悩んだ末に出した決断は、腕時計で輝きを出すことにした。2つ持っている腕時計の中で、より輝いているシルバーの腕時計を選んだ。君にどのように映っているかはわからないが、いつもより何倍もクワガタに近づいていることには変わりなかった。君は、いつもと雰囲気が違うねと言ってくれたけれど、いつもの休日の自分とも違う。だって…。


「ねえ、今日さ、俺変な人になってない?」

 あ、まずい。思ってることがそのまま言葉になってしまっていた。誰だ言ったのは。自分じゃないと言ってほしい。

「え、そんなことないよ。なんか、いつもよりも話しやすくて、思わず私のほうがいつもより喋っちゃったね。知らなかったことをたくさん知れたから、今日嬉しかった!」

 何が起きてるかを把握するまでに、少し時間がかかった。…ん?嬉しかった?今嬉しかったって言ったよね?噛み砕いて考えようとするが、全く脳みそが追いつかない。変な人だとは思ってないみたいだ。それだけは確実にわかった。今日の朝に、髪型をクワガタのようにワックスで2本の角っぽくしようかまで考えたのだが、そんなことをしなくてもよかったということなのだろうか…。

 俺は、ここで大問題に気がついた。待てよ。俺ってクワガタになれるように頑張ってきたけど、もしや、カブトムシに勘違いされてないか?カブトムシとクワガタはそもそもルックスが似ている。人気まで似ている。でも、彼女が好きなのはクワガタだ。俺はちゃんとクワガタなのか?だって、2本の角が全くないぞ。あれがあるからカブトムシじゃなくてクワガタだと自信を持って言えるのに。やばい…。なんでそんなことに早く気がつかなかったんだ…。俺は、今きっともう一人の自分に見られたら、顔が蒼白になっているにちがいない。

 思わず、自分の靴に右足が引っかかってしまった。

「おお、やばい。危なかったわ。」

 君は笑った。

「大丈夫?」

「あ、ああ。まさか自分に引っ掛かるとは。」

 と言いながらも、とても恥ずかしかった。あり得ないだろ。なんで今日に限って。ローラースケートでくれば引っ掛からなかっただろうか。いや、それはクワガタらしくないわ。

「見て。海が見えるよ。」

 君ははしゃいでいた。君が輝いていて、海どころではなかった。海より輝くってすごいよなあ。とかそんなことを考えながら歩いていた。気付いたらもう日は暮れ始めていた。藍色の空と海の紺色は、時間の早さを告げていた。


「今日、楽しかったね。また会おうね。今日ありがとう。」

「うん、また会おう。」

 君は手を振って、改札を抜けていった。手を振り返して、君の姿が見えなくなると、そのまま靴屋へ向かっていた。新しい黒い艶のある革靴を買おう。なるべく漆黒で上品な輝きのあるものを。歩き出した足はどんどん速くなっていた。

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