精一杯

空宮海苔

本文

 佐藤さとう愛華あいかが死んだ。死因は自殺だそうだ。練炭自殺。

 最初、わたしがそのしらせを聞いた時は、冗談かなにかかと耳を疑った。交通事故などでの訃報ならまだ分かるけれど、彼女に限って自殺だなんて。いつも笑顔で、みんなのムードメーカーで、気配りもできて、楽しさを振りまいていた彼女が、だ。信じられなかったし、信じたくなかった。

 けれど、彼女が搬送された病院に駆けつけた私が見たのは、恐ろしい光景だった。それは瞳から生気を失っている彼女の姿だ。そこには、命を救おうとしたのであろう残骸――無数の救命器具に繋がれた彼女が居た。わたしにしてみれば、それはひどく無惨な姿に見えた。そのとき、ようやくわたしの頬に涙が伝った。


 同時に、ようやく理解した。ああ、わたしは彼女とはもう二度と会えないんだ、と。


 ◇


 生者のきもちを整理するためのお葬式に出たときも、わたしはずっと泣いていた。昔、こんな想像をしたことがある。もしかしたら、わたしは友人や家族のお葬式でもカッコつけて『葬式では涙ひとつ出ることはなかった』と言ってしまうような人間になるかも、という想像を。けれど、愛華のお葬式の時の状況を考える限り、そんなことはまったくなかったようだ。

花梨かりん、もう大丈夫なの?」

 私の母――篠宮しのみや春音はるねが心配そうな顔でわたしにそう声を掛けた。わたしは愛華の死によって何日も泣いていた。当然、学校なんか手につくわけもなく、数日休んでしまっている。それに、家でめそめそしていても何かが変わるわけではない。そろそろ、無理矢理にでも家を出るべきだとわたしは思って、今日は学校に行く決意を固めている。

「うん、大丈夫。そろそろ前に進まないといけないかなって」

「そう……ならいいわ。頑張ってね」

 わたしは笑顔で母に手を降る。母も少しだけ笑って見せて、わたしに手を振ってくれた。さあ、死者をいたむ時間はここで終わり。これからは、生者の時間だ。

 ◇

 通学路を歩く道中、たくさんの人を見かけた。校門の前には無数の人々が居て、談笑しながら歩いている人達もたくさんいた。わたしは、それを傍目に見ながら疎外感を感じていた。楽しそうにできるみんなが羨ましいと思うわけでもない。愛華が死んだのにそんな気楽に、という風なお門違いな恨みを感じているわけでもない。でも、ただただわたしは寂しかったの。

 ずっと愛華の死を引きずっているわたしだけ、生者の空間に戻りきれていないみたいで。

 そうして校内に入っていくと、友達にも会ったりした。

「あっ、おはよー花梨ちゃん! 久しぶり!」

「久しぶり、今日も元気だね」

 すれ違いざまにちょっと挨拶したり。こうしていると少しだけ生者の空間に戻れたような気がする。

「おはよー花梨。そのー……なんていったらいいかな。ご愁傷さま。いやこういうのも違うのかなぁ〜〜」

 愛華のことについて触れてくれる友人が居た。嬉しいのか、嫌なのか分からない、ちょっと複雑な気持ちだった。彼女は流香るかといい、わたしとも愛華とも仲の良い友達の一人だった。

「心配してくれるだけで嬉しいよ」

 わたしは笑った。きっと彼女ならそうしただろうから。本当は心に深い傷を負っているし、泣き出してしまいたいくらい辛いはずなのに、人を心配させてしまうような素振りは一切せず、笑顔を見せる。愛華なら、そうしたはずだ。

「花梨……いい人すぎるぞマジで」

 彼女は目をうるうるとさせて、抱きついてきた。そこには、確かな人の温もりを感じた。少しだけ、泣きそうになった。

「流香もいい人じゃん……ありがとね、ほんとに」

 愛華の周りにはいい人ばかりが集まっていたのだろう、ほんとうに。

 ◇

 それから、ながーい廊下を渡りきった後に、自分の教室へと辿り着いた。ガラッと少しだけ音を立てて戸を開けてみるけれど、数人が一瞬だけ振り返っただけで、それ以上でも以下でもなかった。まあ、死んだ人の親友だった人が教室に入ってきたところで、そこまで大きなイベントでもないし、当然だろう。

 わたしは自分の席に向かった。窓際の席で、一番後ろからふたつめの席がわたしの席だ。そして愛華の席はわたしの後ろだったが、わたしの後ろの席は空席になっていた。さらに、小さな花やプリクラで撮ったらしい写真、消しゴムなどいろいろなものが添えられていた。おかしいな、彼女はいつも誰よりも早く学校に来ているのに。それにこんなに関係のないものがたくさん――なんて思いながらも、本当は別に分かってる。もう、永遠にこの席が埋まることはないということくらい。

「花梨さん? 大丈夫?」

 隣の席の男子が、心配そうにわたしに訊いた。泣くのをやめなきゃ行けないと思って目元を拭うが、どうしても泣き止みそうにない。そっか。わたし、こんなに引きずってるんだ。

「ごめん……なさい。なんでもない。気にしないで」

 わたしはそれだけ言うと、彼から目を逸らした。

「いやまあ、そうだよね。ごめん」

 彼も申し訳無さそうに、それだけ言うとわたしから目を逸らした。目を逸らした先でも、友達が心配そうにわたしのことを見ていたのが目に入る。ああ、なんか、申し訳ないな。これじゃあまるで慰めを期待しているみたいじゃないか。ほんとうに悲しい思いをしていたのは、愛華だったというのに。

 そうだ、明日は花を買おう。彼女の席に飾るんだ。ほんとうはわたしは分かっているから、わたしはこんなに引きずっているのだ。彼女は、わたしが殺したようなものなのだと。彼女の『助けて』という声を無視し続けて、彼女を見殺しにしたのは、わたし自身なのだと。


 ◇


 愛華が死んでしまったことが嘘のように日常は過ぎていく。彼女の連絡先はまだあるし、会話履歴は残っているし、彼女の写真だってアプリの中にたくさんある。家族はいつも通りテレビを見ているし、テレビの中のひとたちだっていつもと変わらない番組を届けている。ただひとつ、違うことがあるとすればそれは、彼女はもうすでにこの世に居ないということだけだった。

 朝方学校に行く前に、少しお腹が減ったから、いつもお菓子の入っている棚を開けた。

(そうだ、いつも愛華に渡してるお菓子を――)

 そこまで考えて、気がついた。彼女はもう居ないのだと。ずっと彼女のことについて考えているはずなのに、ふと今まで自分がしていたような行動をとろうとすると、どうしても頭によぎってしまう。彼女の存在が。そうしていると、愛華に関する記憶がどんどんと頭の中に溢れ出してくる。どんなことをしたか、どんな人間だったか、最後に話したのはいつだったか、逆に最初に話したのはいつだったか。そんなことを、色々。

『この前は一緒に遊んでくれてありがとね! 今度もう一回行こう!』

『うん、もちろん。今度はわたしが誘うね』

『え〜嬉しい! じゃあそのときはよろしくね!』

 彼女との最後の会話は、確かこうだった。ほんとうに軽いものだ。あれで終わりだなんて、信じられないくらいに。今度はわたしが誘うって言ったのに、結局無理だったなぁ。愛華としたいことなんて、まだまだたくさんあったのに。もう一度お互いの家に行って遊んだり、お互い彼氏作って愚痴りあったり、そのうち大人になったら仕事の話で盛り上がったり。ぜんぶぜんぶ、いつかできると思ってた。ずっと一緒にいられると思っていた。それなのに。

「戻ってきて、ほしかったなぁ」

 わたしは呟く。そうだ、それから渡したいお菓子だってたくさんあったのだ。一緒に食べたいお菓子だって。愛華には、お菓子をよく渡していた。彼女はよくご飯を抜くくせがあったからだ。だから、せめて多少の栄養くらいはと、わたしは色々なお菓子を食べさせていた。

『愛華、今日のお昼は?』

『え? あー、えっと……飲料ゼリー!』

『そんなんだから細くなってくのよ。ちゃんと食べなさい』

『えー。ていうか細いのは花梨も一緒でしょ』

『わたしは四十後半はあるからいいのよ。てか愛華と違ってご飯抜いてないし』

『そんなぁ』

『はい、これ食べて。お菓子の栄養補給。ゼリーだけなんて絶対許さないから』

『もー分かった分かった。食べるから』

 ねぇ、去年の誕生日に渡せなかった、あなたが好きなお菓子、まだたくさんここにあるよ。ちゃんとご飯食べてる? 聞いてるの? このお菓子、あなたのために用意したんだよ。お願いだから、食べてよ。


 ◇


 今日は学校に行く前に花を買ってきた。花瓶を持ちながら歩いていたせいで悪目立ちしたけれど、このくらいは軽い傷だ。

「ねぇ……花梨さん、やっぱり愛華さんが死んでからちょっと変だよね?」

「分かる。悲しいのは理解できるんだけど、それにしても地に足ついてなさすぎっていうか……」

 クラスメイトのひそひそ話が聴こえてきた。ああいうの、案外響くから分かるんだけどなぁ。そんなふうに思えながら、わたしは花を添えた。先日あった小さな花のとなりに、ゆっくりと花瓶を置いた。こんなもの、彼女の救いにもならなければ、わたしの贖罪しょくざいにもならないというのに。なぜ、わたしはこんな意味のないことをしてしまうのだろう。

 でも、きっと生前の彼女であれば、花を飾ったりしたらとても喜んでくれたことだろう。愛華は、こういうちょっとだけクサいことをしても、何も言わずにただそれを喜んでくれるような人間だったから。でも、わたしはきっと、そういう彼女の優しさに甘え続けていたのだ。彼女が受け取ってくれたからこそ『贈り物』たりえた数々のものを、わたしは自分自身のエゴのために彼女に贈っていた。ああ、いい人だったな。また会いたいな。それから、わたしは自分の席に座った。なんとなく準備する気が起きなくて、外を眺めていると、そのうち先生がやってきた。なんだろう、と思って顔を上げる。

「篠宮さん。申し訳ないんですけど、大きい花瓶はちょっと処理に困るから、やめてくれませんか?」

 中年の男性教師――まあ端的にいえば、うちのクラスの担任が、そう声を掛けてきた。彼の顔をよく見てみると、本当に申し訳無さそうな顔はしているが、大きな気持ちがこもっているようには見えない。

「一応、そのうち回収する予定ではあったんですが。それでもダメですか?」

「あー、そうだな……いつぐらいに?」

 なんでそんなことまで考えなきゃいけないんだ、と考えると、憂鬱な気持ちになった。それでも、普段は良い教師だし、わたしはとくに悪態をつくこともなく応対した。

「まあ……一週間くらいですかね」

「うん、うん……分かった。それくらいならいいかな。じゃあ、お願いします。それまでは、置いておいていいことにするから」

「ありがとうございます」

 わたしは、座ったままぺこりと頭を下げた。それを見届けた担任は、教卓へと戻った。先生が一声掛けると、今日の日直が挨拶をする。起立、気をつけ、おはようございます。


 ◇


 今日、ようやく初めてのお墓参りをすることにした。最近はバタバタしていたし、気持ちの整理もついていなかったから、できていなくて。だから、今日が初めて。

 お墓の前に立つと、余計に強く愛華が死んだことを突きつけられるような気がした。けれど、しっかり受け止めないといけないことだから、変な気は起こさないようにした。それに、彼女のために時間を割くことそのものが、わたしにとってのけじめなのだ。最後までしっかり終えなければいけない。

「ねえ愛華。愛華が居なくなってから、学校がずいぶんさみしくなっちゃった」

 手を合わせてから、そう呟く。それから、墓の周りを綺麗にする。ゴミをとって、埃を払う。

「ごめんね、助けてあげられなくて」

 思えば、愛華は死ぬ一ヶ月前にはもうおかしな兆候を見せていた。ある日、彼女はわたしに訊いた。

『一番楽な自殺の仕方って何だと思う?』

『え? どうしてそんな変なこと……』

 わたしはそのとき言ってしまったのだ、変なこと、と。それが、彼女なりのSOSだったことを理解しようとせず、たしかに様子が変であることは理解していたのに、なにか行動を起こそうとはしなかった。見て見ぬふりをした。さらにいえば、兆候はこれだけではなかった。

『花梨、ストレスが溜まったときってどうしてる?』

『ストレス? うーん、まあカラオケとかかなぁ……正直あんまりないかも』

『そう……分かった』

 そういう、大事な話をなんでもないふうに訊いてくることがたくさんあった。それでも、わたしは深堀りしなかった。より正確にいえば、できなかったのだ。わたしは、彼女の心に触れることが怖かった。彼女がああいった弱々しいSOSしか出すことができなかったように、わたしは彼女の心に触れることが怖くて、助けることができなかったのだ。

 心のなかで何度も謝りながら、わたしはお墓を掃除していた。柔らかい布を少し濡らして、墓石を丁寧に磨く。借りてきた手桶に汲んだ水を掛け、墓石を清める。布で拭く、何度か繰り返した。

「ごめんなさい、見殺しにして……」

 彼女が助けてと叫んでいるのが分かっていながら、そのうち彼女自身でどうにかしてしまうだろうという風な思い上がりがあった。助けなくてもどうにかなるのではという期待があった。わたしが何もしなくても、わたしが見捨てたわけではないという言い訳をし続けた。

 本人が死んでからでは、自分への言い訳なんてなんの意味もなさないのに。

 それから、花を供え、水鉢に水を入れ、家から持ってきた誕生日のためのお菓子をお供えした。お線香も一緒にあげてから、手を合わせた。目をつむり、祈る。思いを馳せる。いや違う、わたしがしていいのは、祈ることだけだ。

 見殺しにしたわたしに、涙する権利なんて本当はないのだから。せめて、お墓の前にいるときくらい、祈ることに集中しよう。そうしてしばらくしてから、わたしはぱっと目を開けた。たしか、お供え物だけは持って帰って、それ以外はそのままでいいんだったっけか。そうしてお供え物に手を伸ばそうとしたとき、声が聞こえた。

「あなたは……篠宮しのみや花梨かりんさん、であってますか?」

 声の方向に目を向けてみると、そこには中年の女性が経っていた。顔には少ししわが入っているうえ、どこか弱々しい瞳をしている。どこか見覚えがある顔だった、どこだったか。

「そう……ですが、どうかしましたか?」

 わたしは俯いたまま返事をした。

「やっぱりそうだったのね。娘の……佐藤愛華の親友だったと聞いています。あっ、私が、佐藤愛華の母です」

 愛華の母は、少しだけ破顔した。

「あっ、お母様、でしたか。すみません気が付かなくて」

 そういえば、以前愛華の家に行ったときに会ったことがある。見覚えがあるのは、そのせいだったようだ。しかし、それにしても、あのときと比べるととても元気のない表情をしている――いや、それも当たり前か。だって、娘が死んだのだから。それも、自殺で。

「いいのよ。それに、お墓参りまでしてくれてるみたいだから、ちょっと嬉しくなっちゃった。ありがとうね」

 本当に少し泣いているみたいで、指で涙を切りながら愛華の母はそう言った。確か、彼女の名前は佐藤景子けいこといったはずだ。

「景子さんに感謝されるようなことじゃないですよ。むしろ、愛華は私が見殺しにしたようなものですから」

「見殺し……?」

 彼女は、わたしの言っていることの意味が分かっていない様子だった。

「愛華が、ずっと前から変な様子だったことはわかっていたんです。助けて、ってずっと言っていたんです。なのにそれにずっと気づかないふりをして……自殺するまでに追い込んだのは、わたしなんです」

 少しずつ、何が本当に言いたかったことだったのかわからなくなってきた。わたしは、愛華への謝罪を口にしたいのか? もしくは、わたし自身の贖罪しょくざいをしたいのか? それとも、わたしの犯した罪について、事細かに説明したいのか? もう、何もわからなかった。

「それは……違うわ」

「どうして言い切れるんですか!」

 思わず声を荒げてしまった。勢いよく放った言葉は、けれども涙の混じった弱々しさの混じる声に変換されてしまった。言ってから、気付いた。わたしは、まだ自分を許せていないだけなんだ。だから、自分のせいにしたがる。自分が悪いことにしたがる。そうじゃないと、正しくないような気がしてしまうから。

「遺言とは違うんだけど、家で愛華の日記を見つけて……本当はお供えする予定だったんだけどね。ここで会ったのもなにかの縁だと思うから、あなたにも読んでほしい。特に、最後のページは」

 そう言って、彼女は一冊の本を差し出してきた。革細工の日記帳のようだ。表面はボロボロで、いろせている。ずいぶん長いこと使い込んだ日記帳のようだ。わたしはそれを受け取った。

 ぱらぱらとめくってみると、最初の方はわたしも知らない――それこそ小学生くらいのときのことが記録されているようだった。毎日欠かさず書いている、というわけでもなく、たまーに日付が欠落しているのが愛華らしいな、と思った。書いていない日付の次の日には『昨日は忘れちゃった!』なんて書いてあるのが、ますます彼女らしい。その古びた日記帳に涙の雫を落としそうになってしまい、わたしは早々に最後のページを確認してみることにした。最後の日付には、こう書かれていた。

『今日、死ぬことにした。生きているのがもう辛かった。みんなと一緒に居たとき、楽しいのは事実だったけど、それをこれ以上続けるだけの気力がなかった。限界だった』

 彼女の苦痛が分かるなんて言えない。けれど、ここからは確かに彼女が苦しみを感じていたことが読み取れた。日記を握る手が強くなる。

『ごめん、花梨。約束果たしてあげられなくて。でも、ありがとうね、こんな私とたくさん遊んでくれて。楽しかった、幸せだった。あんまり友達に優劣はつけたくないけど、花梨と一緒にいるときが、いちばん楽しかったなぁ』

 わたしといるときが、一番楽しかった。そこには確かにそう書かれていた。わたしもそうだった、確かにそう思っていた。そのはずなのに、わたしは彼女を愛しきれていなかった。だから、見殺しにした。助けなかった。

 わたしはそんな人間だというのに、彼女は、楽しかったと言ってくれたのだ。彼女は、愛華はなんて優しいんだろう。わたしは改めてそう思った。

「ごめん……ごめんね……わたしも、愛華と居るときが一番楽しかった、ほんとうに」

 わたしは嗚咽を漏らしながら、日記帳に向かって懺悔した。ただの日記帳に向かって。

『さようなら、みんな。さようなら、世界』

 日記帳の最後にこう記した彼女は、いったいどんな心情でこれを書いていたのだろう。わたしには、想像することしかできない。いや、もはやそうやって彼女の心の内を想像することすら、おこがましいことにも思えてくる。わたしには、もう謝ることしかできないのだ。景子さんは、そんなわたしが泣き止むまでそばで見守ってくれていた。


 ◇


「ごめんなさい、取り乱しました」

 わたしはしばらくすると、その日記帳を景子さんに返し、そう謝った。わたしはもう十分彼女の言葉を受け取ることができたから。

「いいのよ……それにしても、泣いている人を見ると、やっぱり私も泣きたくなっちゃうわね」

 日記帳を受け取る彼女の目は、少しばかり泣き腫らしていた。当然だが、彼女もまた、愛華の死をいたんでいる人間の一人なのだ。

「そう……ですね。一週間ほどが経った今でも、わたしは時折泣いてしまいます」

「本当に大事に思ってくれていたのね。愛華も、そんな友達を持てて本当によかったと思うわ」

「いえ……わたしは大事なときに愛華を助けられませんでしたから。ただの、他人です」

 きっと、わたしは彼女のことを心から愛することができていなかったのだ。だからこそ、助けようとしなかった。自分のすべてを注いででも、彼女を愛そうとしなかった。でも、彼女が生きているうちは、そのことに気がついていなかった。だから、わたしは今こうして罪悪感と寂寥せきりょうかんに溺れているのだ。

 愚かだった、愚かな人間だった。どうしてもっと彼女を愛さなかったんだろう。どうしてすべてをさなかったのだろう。そういった後悔や未練が、ずっとわたしの中に渦巻いていた。

「でも、日記にはあんなにあなたのことが大好きって書いてたじゃない」

「そうですね、そうなんです。愛華は、こんなわたしでも親友として愛してくれていました。感謝してもしきれません」

 ほんとうは、わたしに泣く権利なんてないのだ。だって、彼女はわたしが殺したようなものなのだから。

「でも、わたしは愛華を愛しきれていませんでした。全力を注げなかった。だから様子がおかしかった愛華のケアを、しなかったんです。だから、ほんとうはわたしには泣く権利もないんです」

「……それはきっと、できなかったんじゃないかしら」

「できなかった?」

 わたしは顔を上げた。少しばかり目を赤くさせた景子さんが、そこには居た。

「それが、あなたの精一杯だったんだと思う。だって、愛華だってあれで精一杯だったんだから」

「愛華が?」

「あの子、この日記で謝ってたのよ。『うまく助けてって言えない子でごめんなさい。でも、これが私の精一杯だから』って」

「愛華の……精一杯」

 あのSOSが、彼女の精一杯だった、ということなのだろう。そうか、それもそうか。ああ見えて死の淵ギリギリで生きていた彼女が、あれ以上のSOSを出せるわけはない。

「あなたも、その弱々しい悲鳴を聞いてあげられるだけの強さがなかった。それが、あなたの精一杯」

「わたしの――」

 愛華を助けられなかったことについて、言い訳はしたくない。けれど、あれがわたしの精一杯だったのも確かなのだろう。弱々しい悲鳴を、ちゃんと聞くことができなかった。助けてあげられるだけの強さがなかった。そこがわたしの限界点であり、精一杯。

「お互い、もう少し手を伸ばせていたら、生きていたんだと思う。でも、それはできなかった――そうだったのは、私も同じだしね」

 景子さんは少し寂しそうだった。

「……仕方ないんですよね、全部」

 わたしは呟いた。結局、どれだけの未練があっても、愛華の生が終わってしまったことに変わりはない。終わってしまった以上、全ては仕方のないことなのだ。頭では、分かっている。

「うん。結局、終わったことだから。でも、私は今回のことで、これからはもっと小さな悲鳴でも掬い上げられるような人になりたい、って思ったの。あの子のお陰で、そう気づけた」

 それが、きっとこの人の、景子さんの選択なのだろう。

「これから、ですか」

「ええ。私達にはもう、前を向くしか選択肢が残されていないから」

 そう言う彼女の瞳には、優しさと強さ、その両方が宿っていた。この母にしてあの子あり、だろうか。

「……わたしは、人を愛せる人間になりたいです。自分の全てをしてでも、大切な人に尽くしてあげられるような」

 わたしは呟いた。そうなりたいと思った。それがわたしに足りないものであり、心の底から欲しいものだったから。

「うん、とても素敵だと思う」

 彼女はそう言って頷いてくれた。

「素敵……ですか、そう言ってもらえると嬉しいです」

「私は、そう思ったわ――ごめんなさい、随分話し込んじゃったわね」

 それから、景子さんは少しだけ苦笑した。

「そうですね」

 墓地でこんな長話なんて、普通に考えれば滑稽な話だ。変なことをしてしまった。それに、周りに埋葬されている人たちにだって悪いことをした。彼ら彼女らの安寧あんねいの地で、騒がしくしてしまったのはよくないことだろう。

「お線香だけ上げたら私は帰るわね。ほんとうに、ありがとう」

「こちらこそ、ありがとうございました。そしてすみません――それではまた、どこかで」

 わたしはそう言って立ち上がると。墓の前に座り込む景子さんをよそに、帰路についた。愛華だけでなく、そのお母さんにも色々なものをもらってしまった。愛華は、一体どれだけのものをわたしにくれるつもりなのだろう。でも、もういいよ。これからはわたしも一人で生きていけるから。あなたの精一杯を抱えて、わたしはわたしの精一杯で生きていくから。

 わたしはほんの少しだけ顔を上げ、前を向いて歩き始めた。


 ---


 お読みいただきありがとうございました。

 最後に、少しだけ自分語りをさせてください。


 この作品を書いたのは、私のペットが死んですぐの時でした。それなりに昔の話ですね。つまり、本作は一応実体験をもとに書いた作品、ということになります。

 とはいえ、内容はかなり抽象化していますので、もとにした体験がなんなのか想像するのはかなり難しいかと思います。また、もととなった体験についてごちゃごちゃ語るのも無粋かと思いますので、そこも詳しくは言いません。

 ですが、当時の私のペットの死因は「老衰」ではなかった、とだけお伝えしておきます。


 これは当時の私にとってかなり大きな出来事であり、大きな心境の変化の原因でもありました。だからこそ、当時の私は自らの感情の処理と、昇華のためにこの作品を書きました。決して、追悼のための作品ではありません。

 この作品の中から、皆さんの心に何かひとつでも刺さるものがあれば、良かったなと思います。

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精一杯 空宮海苔 @SoraNori

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