不思議の街のライヒ
皇帝栄ちゃん
不思議の街のライヒ
私はライヒ・パステルツェ。オーストリアのザルツブルクに一人で住む十歳の少女で、一年前に新人作家としてデビューしたばかり。容姿は、腰まで届くダークブラウンの髪、赤い右目と青い左目のオッドアイ、紫と白を基調にした品のある洋服で、どうも美少女の範疇にはいるらしい。自分ではよくわからないけれど、なんとなく照れくさい。
あと、頭に大きな青いリボンをつけている。精神的には自立した大人であることを意識しているが、外見は歳相応のほうがいいだろうと思うからであって、まあ、その、若干ながら自分の好みもないこともない。クラネスには「そのこと自体、きみが子供という証だ。ぼくはべつにそれでいいと思うのだがね」なんて言われたけど……。
クラネスというのは〈
私は幼少時に「夢見る人」として覚醒した。そして現在は優秀な魔道士にして『星の智慧派』最年少の司祭でもあったりするけれど、それはまあどうでもいいことだ。これから話すのは、私が作家になるきっかけとなったあるひとつの怪異譚なのだから。
約一年前、当時九歳の私は首都ウィーンで両親と共に暮らしていた。パステルツェ家はオーストリアの名家で、仕事で海外を飛び回っていることが多い両親が家に帰ってくるのは年に数回程度。それゆえ自分のなかで親に対する愛情が年々薄れていったのも仕方ないところだと思う。
その日、いつものとおり、豪奢な食卓で召使の用意した夕食を孤独に味気なく終えると、自分の部屋に戻って黙々と本を読み始めた。私のような年頃の少女が読む類のものではなかったが、同年代の友達に恵まれない自分にはこうした書物のほうが合っているのだった。べつにさみしくなんかはない。
ふと気配を感じて振り向いた。私の腰かけている椅子の後ろにそいつは居た。
ぶよぶよと定まらない、ちょうどナメクジの触手のように突出した眼球はピンポン玉大の寒天状で虹彩も赤くはなく、長い耳も見当たらず、しかしその白い体毛からして、それは間違いなく兎だ。
その奇形さと唐突さに意表を突かれはしたものの、にわかに取り乱すことはなかった。冷静さを失うほどの事態でもないからだ。動物が苦手でペット嫌いの私だが、眼前の不気味な兎はかくもあらん奇形のため、さほど嫌悪感を抱くことはなかった。落ち着いて様子を見ていると、兎はひるがえってドアの隙間から部屋を抜けて階段を下りていく。その際、微かだが虹のような燐光を放った。
階下に下りたが兎は見当たらず、魔力探査を展開させてみても反応はなかった。魔術で結界を張ってある私の部屋に何事もなく現れたことを考えると、人智の及ばぬ超自然的なものなのかもしれない。
このときすでに奇妙な兎の虜になっていたのか、召使たちの姿がまったく見えないことを不思議にも思わなかった。居間に移動して兎の意図を思いめぐらせていると、窓から虹色の光が差し込んだ。広い庭を玉虫色の輝きが覆い、そこで例の兎がぴょんぴょん跳びはねていた。まさしく明確な意志をもって私を誘おうとしているのが察せられたので、私は着の身着のまま裏口を抜けて庭へと飛び出した。
途端、視界が七色に歪んだ。
気がつくと私は、今の時代には稀なくらい古風な趣の街角に立っていた。これほど急な坂の多い街はめずらしく、あらゆる種類の車馬が
街の住民も奇妙に無口で押し黙っており、何人かに話しかけてわかったのは、ここがオーゼイユ街という名の町であるということのみ。しかもどこを見回してもお年寄りの姿しか眼に入らないではないか。途方に暮れて、さてどうしたものかと悩んでいると、道の向こうに先刻の兎を見つけた。その場でぴょんとひるがえり、街の彼方へ跳ねていく。私は急いで後を追った。
石畳やこまかい砂利、色の褪めた草がまばらに生えた赤土が剥き出しのところなど、道の舗装はさまざまで非常に走りにくく、何度かつまずいて転びそうになった。駆け抜ける最中に視界に入る街並みときたら、嘘みたいに古ぼけた、見上げるほどの高さの家々が一様に三角形の屋根を尖らせていて、どれもみな、醜悪なピサの斜塔のように前後左右のいずれかに傾いているのだ。
あまり体力があるとはいえない私が、はぁはぁ、ぜぇぜぇと息を漏らしながら、急坂を挟んでつづいている街を駆けていくと、突き当たりの城壁から三軒手前に建つ、いまにも倒れそうな古家に兎が入っていくのが見えた。場所からいっても、街中を一目に見下ろせるところで、おそらくこの街で一番高い建物に違いなかった。
そこは下宿屋のようで、管理人は中風で身体が利かなくなった男性だった。宿泊する素振りを見せると、いま間借人はいなくて全て空き部屋だから、好きな部屋を選んでいいと言われた。二階から順に部屋の中を覗きながら上階――エレベーターなどないため階段で――にあがっていくと、五階の廊下に着いたところで奇形の小動物が眼に映った。まるで私が到着するのを待っていたかのような兎は、今度は薄暗い粗末な階段へ跳ねていく。微かな燐光を放つ小さな白い体毛を追って、私はぎいぎいと軋む階段を登っていった。つかれる。あまり運動させないでほしい。
辿り着いた先は三角形に尖った屋根裏で、兎が入っていった西側の部屋に歩を進めた。そっと中に入ると、不思議なほどガランとした薄暗い室内が私を迎える。蜘蛛の巣や塵埃がところ構わず積もった部屋を見回すと、鉄製の狭い寝台に薄汚れた洗面台、小さなテーブルがひとつ、大きな書棚、鉄製の楽譜台と古風な椅子が三脚ほど眼についた。四方は板を打ち付けただけで、家具といったものはいま述べたので終わりだ。兎の姿はどこにも見当たらない。
ふと椅子に眼をやると、一番坐り心地のよさそうな椅子に、六絃の擦絃楽器が置かれていた。どうやら古びたヴィオルらしい。ここを借りていた人間は音楽を趣味としていたのか、貧乏な音楽家だったのだろうか。
それからまた全体に眼を戻して、部屋が暗い理由がわかった。ひとつだけの窓に貧弱なカーテンがかかっているのだった。こほこほと口もとをおさえながら窓に近寄ると、カーテンをわきに引いた。すると鎧戸が下りており、ご丁寧なことに鍵までかかっている。だが管理人のところへ戻る必要はない。
だが、このオーゼイユ街で、もっとも高所にあるといわれている切妻窓から眺めた世界には、街と呼べるものは存在していなかった。
そこにはただただ真白な空間が、いや、曇天の空が一面に広がっているだけだった。曇天の空の左方に、ポッカリと半円の口が開き、その向こうに星々が瞬く。雲に開いた半円の穴の淵取りは橙色に薄く輝き、宇宙の深淵の漆黒がもたらす明るさによって浮かびあがっている。もしかしたらあの兎は其処からやってきたのかもしれない。
得体の知れない慄然たる寒気を感じ、私はそろそろと後退した。部屋の中央まで戻ったところで、足が動かなくなった。眼を下ろすと、あろうことか、冷たいぬかるみが私の足首に絡みついて強靭な力で移動を妨げているのだ。その紫色のゼリー状のぬめりとした液体らしきものが、ゆっくりと足元を這い上がってくる。私は瞬時に解析の魔術を発動させ、そして、初めて動揺した。
解析不可能――
私はあわてて多種の魔術を行使したが、信じがたいことにまったく効果がなかった。切り札たる右目の赤光――〈ダイラス・リーンの災厄〉さえ通じないのだ!
こんなことはかつてなく、まさしく人智の遠く及ばぬ力が私を貪り食わんとしているに違いなかった。想像を絶する予想外の脅威に、歳相応の女の子らしい悲鳴をあげ、私は完全にパニックに陥った。
無我夢中でじたばたとして、近くにあった椅子からヴィオルを引っ掴んだ。こんがらがった思考による無意識の動作で手が動き、恐怖に慄えながらヴィオルを掻き鳴らし始める。幼少時より一流の音楽家から楽器の演奏を習っていた事が幸いした。可能な限りの高い音を立てて流れでる調べは、弾奏する私自身これまで耳にしたことがない怪奇な妖しい旋律であった。
するうち腰まで這い上がっていたゼリー状の水がゆるゆると弛緩し、それに勇気づけられた私は狂熱的な弾奏を続け、ヴィオルの絃から甲高い音色を迸らせる。掻き立てる絃の響きは、常軌を逸した暗鬱たる宴といえるほどで、呼応する様に私の足元から冷たい液体が退いていくのを感じた。
足が自由になった瞬間、私はヴィオルを放り出して一目散にドアを抜けて廊下に逃げのびていた。どういう幸運で脱出できたのかはわからない、或いは、それすらも不思議の国のチェシャ猫の如く、あの兎の眼中なのかもしれないが、とにかく私は、それこそ跳ねるように、ひたすら階段を駆け下りて、夢中で外へ飛び出した。狭い、急な石畳を駆け抜け、何度かつまずいて転んだが、ひざを擦りむいたのも気にせず、のしかかってくるような家々を後にして、息が切れるのも構わず走り続けた。
喘ぎ、あえぎ、賑やかな往来に出たところで膝をついてへたり込み、ようやく私は安堵の息を吐いた。眼前の街路を虹が覆い、見慣れた奇形の兎がぴょんと跳びはねた。私はそちらへとふらふら歩きだし、そして、再び視界が七色に歪んだ。
意識がはっきりしたとき、私はもとの庭に戻っていた。屋敷に入ると普通に召使たちの姿があり、やはりというべきか、私がいつの間に外へ出たのか不思議がっていた。
その日を境に無性に小説の創作意欲が湧いてきて、初めての執筆に取り掛かるや、一ヶ月で長編一本を書き上げた。それを雑誌社に持ち込んでみると一発デビューが決まった。かくして私は作家になったのである。
完全に平常心を取り戻してから〈夢の国〉のセラニアンを訪れた。私をあの街へと誘った奇怪な宇宙兎は、地球外の〈夢の国〉に棲む生物だとクラネスが教えてくれた。
「きみは、予想外のことに陥ると冷静な思考ができなくなるという欠点を子供らしさがもたらす自己嫌悪として捉えているが、結果的にはそれがよかったのだ。もしその状況で冷静さを発揮して、自分を襲うものの正体を理解しようものなら、きみは確実に絶望の諦観に身を任せることになっていただろうから」
「クラネス王にはあのゼリー状の液体がなにかわかるのですか?」
「何となれば、それこそは、おそるべき原初の泡にして、地球上の生命の始原であり終末なるウボ=サスラなれば」
とんでもない事実に背筋を震わせた私を見て、クラネスが微笑した。
「歳相応の子供であることがきみ自身を救ったわけだよ」
「子供を相手に故郷の郷愁を慰めているだけじゃないですか」
私はほんの少し不愉快そうに頬をふくらませた。それが、実の両親よりもよほど父性がある偉大な王に向けた、子供なりの感謝の気持ちであると思う。
ティータイムを楽しんだあと、セラニアン王宮の窓辺でヴィオルを弾奏した。しかしその弓から流れでる調べは、劇場などでよく聴く、素朴で通俗的なものに過ぎない。あの日、狂乱した私が無意識のうちに奏でた、茫漠とした暗鬱たる旋律が掻き鳴らされることは二度とないのだ。
だが、私はべつに、それを遺憾とも思わない。クラネスへの恩返しにコーンウォールの寂寥感を癒せるような音楽を献上できないことを、いささかも残念とは思っていない……。
不思議の街のライヒ 皇帝栄ちゃん @emperorsakae
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