第4話「台風接近」
【前回までのあらすじ】
祭りの喧騒が去り、夕暮れの砂浜を歩く桐人とさくら。二人の間に流れ始めた甘い雰囲気。さくらが何かを決意したように口を開いたその時、海から現れたヤギの頭が、そのムードを完全に破壊してしまった。
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翌朝、稽古を終えて道場から出ると、スニク様が眉間にしわを寄せて空を見上げていた。
昨日水平線に見えた雲は、今や島の上空の一部を覆うほどに広がっている。
「今日は午後から雨が降りそうじゃ。桐人、さくら、村に行くなら雨具を忘れずにな」
「スニク様は天気もわかるのか? さすがだなあ」
俺が素直に感心すると、スニク様は得意げに胸を張った。
「ふん、桐人はまだまだ軟弱じゃの。妾なんぞ、風の匂いを嗅げば三日先の天気までわかるぞ」
「マジか! すげえな!」
「当然じゃ。長く生きておれば、雲の形、風の向き、湿度の変化……全てを読み取れるようになる」
スニク様がさらに調子に乗ったところで、懐からおもむろに取り出したのは、最新機種のスマートフォンだった。
「まあ、種明かしはこれじゃがな」
ニヤリと笑い、スニク様は天気予報アプリの画面を俺たちに見せつける。
そこには、巨大な台風が島に向かって進んでくる予報が表示されていた。
「なんだよ、インチキじゃねえか! さっきの俺の尊敬を返せ!」
「何を言う。情報を活用するのも能力のうちじゃ!」
「いや、それは詭弁だろ!」
「うるさいわ!」
扇子で頭をぽかぽか叩かれながらも、俺は画面に表示された台風の進路図から目が離せなかった。
これは、ただの嵐ではない。
村へ向かう道すがら、空は見る見るうちに暗くなり、風が湿り気を帯びてきた。
歩いていると、小さな人影がこちらへ駆け寄ってくる。
ウトちゃんだった。
だが、その表情はいつものように明るくはない。
「キリート! さくらお姉ちゃん!」
「どうした、ウトちゃん?」
よく見ると、その大きな瞳は少し赤く、泣いた後であることが分かった。
「あのね、今日ね……」
ウトちゃんは何かを言いかけて、俯いてしまう。
その手を握る力が、妙に強い。
俺たちはウトちゃんに促されるまま村の中心にある広場へ向かった。
そこには、忠清が島民のために設置したという天気予報の看板が立っており、明日から台風のマークが記されていた。
「忠清様がこうやって皆に天気を教えてくれるんだよ。だからウトちゃんも天気がわかるの!」
彼女は無理に元気な声を出すが、その笑顔はどこかぎこちなかった。
看板を見て、村人たちが次々と家の外に出てくる。
「おや、桐人様にさくら様」
「こりゃあ、大きな台風が来そうだ」
「今のうちに準備をしないと」
村全体が、にわかに慌ただしくなり始めた。
「私たちも手伝います」
さくらの申し出に、村人たちは「ありがたい」と顔をほころばせた。
それから俺たちは、村中を回って台風の準備を手伝うことになった。
雨戸を補強し、飛ばされそうなものを家の中に入れ、食料や水を安全な場所へ移す。
特に人手の足りない老人の家では、俺たちの存在は本当に喜ばれた。
「ウトちゃんも手伝う!」
小さな体で一生懸命に物を運ぶウトちゃん。
だが、時折不安そうに空を見上げるその横顔には、暗い影が落ちていた。
午後になると、風はさらに強くなり、椰子の葉がざわざわと不気味な音を立てていた。
ぽつり、ぽつりと大粒の雨が落ちてくる。
最後の家の手伝いを終え、俺たちはウトちゃんを家まで送っていった。
「あんまー!」
ウトちゃんが母親の胸に飛び込む。
「おかえり、ウト。桐人様、さくら様、今日は本当にありがとうございました」
「いえいえ、当然のことです」
「じゃあ、俺たちはそろそろ戻るよ」
俺がそう言った瞬間、ウトちゃんの顔が曇った。
「……もう帰っちゃうの?」
「うん。雨も強くなってきたしな」
「やだ……」
小さな声で呟くと、ウトちゃんは再び俺の服を強く掴んだ。
「やだやだ! 帰っちゃやだ!」
「ど、どうしたんだ急に」
困惑する俺に、ウトちゃんはさらに強くしがみつき、わっと泣き出した。
「台風、こわい……! キリート、一緒にいて……!」
その涙は、ただ天災を怖がる子供のものではなかった。
もっと根源的な、見捨てられることへの恐怖。
失うことへの絶望。
そんな感情が、その小さな体から迸っているようだった。
「ウト、どうしたの? 桐人様がお困りよ」
母親がなだめようとしても、彼女は首を横に振るばかりだ。
「やだ! キリートと一緒にいる!」
「大丈夫だ、ウトちゃん」
俺はしゃがんで、彼女の震える体を優しく抱きしめた。
「台風が過ぎたら、またすぐに会える。貝殻拾いに行く約束、しただろ?」
「ほんと……?」
涙でぐしゃぐしゃの顔を上げる。
「ああ、本当だ。だから、今日はあんまーと一緒に、家の中で頑張るんだ」
俺が小指を差し出すと、ウトちゃんも震える小指を絡めてきた。
「ゆびきり、げんまん……うそついたら、はりせんぼん、のーます……」
か細い声でそう唱えると、ウトちゃんは少しだけ落ち着きを取り戻したようだった。
俺たちは、雨に濡れて姿が見えなくなるまで、ウトちゃんに手を振り続けた。
その小さな背中を見送りながら、俺もさくらも、言葉を失っていた。
ウトちゃんのあの涙の本当の理由を、俺たちはまだ知らない。
だが、この島を覆う不穏な空気が、彼女の心を蝕んでいることだけは、確かだった。
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