第3話「水平線に沈む夕陽」

【前回までのあらすじ】

祭りの宴は最高潮に。さくらに促され、桐人が披露した意外なダンスに村人たちは熱狂する。しかし、楽しい時間の裏で水平線の雲は確実にその姿を大きくしていた。やがて日が傾き、祭りの終わりが近づいてくる。

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日が傾き、宴の熱狂も少しずつ落ち着きを見せ始めていた。


村人たちはすっかり『パルプ・フィクション』のダンスを自分たちのものにしていた。


広場のあちこちで顔の前で手をひらひらさせる、あの独特な仕草が見られる。



「今日という日を忘れませんぞ、桐人様」



村長が深々と頭を下げる。



「新しい踊りを教えていただき、ありがとうございました」



「いや、そんな大げさな……」



「きっと来年の祭りでも、皆この踊りを踊ることでしょう」



(来年、か……)



その言葉に、ウトちゃんと交わした約束を思い出す。



「さくら、そろそろ俺たちは戻ろうか?」



「そうですね。今日は本当に楽しかったです」



さくらが満足そうに微笑む。陽の光を受けて、彼女の髪がきらきらと輝いていた。



俺たちは、名残惜しそうにするウトちゃんに別れを告げた。



「ウトちゃん、また明日な」



「うん! 明日は貝殻拾いに行こうね! 約束だよ!」



「ああ、約束だ」



「絶対だよ! 朝早く迎えに行くから!」



ウトちゃんが、ちぎれんばかりに大きく手を振ってくれる。


夕日に照らされたその笑顔が、なぜかやけに眩しく、そして儚く見えた。


胸騒ぎがして、もう一度振り返る。


彼女はまだ、小さな身体全体を使って、精一杯の別れの挨拶をしてくれていた。



「どうしました、桐人?」



さくらが不思議そうに尋ねる。



「いや、なんでもない。行こう」



屋敷に戻る途中、俺の足は自然と砂浜へと向かっていた。



「桐人?」



「ちょっと、海を見ていきたくて」



自分でも理由はよく分からない。


ただ、祭りの喧騒から離れて、何かを確かめたいような、そんな気分だった。



二人で並んで砂浜を歩く。


潮の香りが、昼間とは違って少し生臭く、海独特の匂いが濃くなっている。



「あのヤギの頭、どうなったんでしょうね」



さくらがぽつりと言った。



「さすがにもうどこかに流れていってるだろ。黒潮に乗って日本のどこかの砂浜に流れ着いたら、ちょっとしたホラーだけどな」



「ふふ、確かに。早朝に散歩していたら、ヤギの頭が……。子供なら泣き出してしまいそうです」



二人でくすりと笑いながら、波打ち際にたどり着く。



西の水平線に、太陽がゆっくりと沈んでいく。


オレンジ色の光が海面をどこまでも染め上げ、世界が燃えるような黄昏色に包まれていた。


あまりの美しさに、俺たちは言葉を失って立ち尽くす。



「綺麗ですね……」



さくらが、吐息と共に呟いた。



「ああ、本当に」



二人で並んで、ただ静かに夕日を見つめる。寄せては返す波の音だけが、辺りを支配していた。



「なあ、さくら」



「はい?」



「こうして沈む夕日を見ていると、人間の時間から吸血鬼の時間に切り替わるような気分になるのは、俺だけか?」



俺の突然の問いに、さくらは一瞬驚いたようだったが、すぐに真剣な表情で頷いた。



「……わかります。この島は夜になると、都会よりはるかに暗いですから。本当の闇が、訪れます」



「でも」俺は振り返って、さくらを見つめた。


「さくらが爺さんやスクニ様に会わせてくれたおかげで、俺はもう、ただ夜を怖がるだけの存在じゃなくなった」


「この夕日を、恐怖心を持たずに、ただ美しいと思って見られるよ」



「桐人……」



さくらの声が、夕風に優しく響く。再び沈黙が流れる。だがそれは、気まずいものではなく、心地よい静けさだった。


夕日に照らされたさくらの横顔が、あまりにも綺麗で、時間が止まってしまったかのように感じられた。



「あの……」



さくらが何かを決意したように、俺の方を向く。


その瞬間、俺たちの視線が絡み合った。彼女の瞳が、夕日の光を映して潤んでいる。



「桐人、私———」



さくらが、その言葉を続けようとした、まさにその時だった。


俺の広い周辺視野が、オレンジ色に染まる海面の中に、ぽつんと浮かぶ小さな黒い点を捉えた。



(ん? なんだ、あれは……まさか)



俺は目を凝らし、海の方へと視線を移した。



小さな黒い点は、波に揺られながら、ゆっくりと、しかし確実に、こちらに向かってきている。



「嘘……でしょう……」



隣で、さくらの顔が青ざめていくのが分かった。



間違いない。あれは、ヤギの頭だ。


角が二本、不気味に突き出ている。


朝、海の神様に捧げ、沖へと流したはずのヤギの頭が、なぜか戻ってきたのだ。



「戻りましょう」



さくらが俺の袖を強く引く。



「これ以上ここにいても仕方ありません」



「ああ、そうだな」



俺は最後にもう一度、波間を漂うヤギの頭を見た。


夕日を浴びて、空っぽのはずの眼窩が、まるで赤い光を宿しているかのように見えた。



俺たちは、気まずい沈黙の中、足早に砂浜を後にした。



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