第2話「恐怖と向き合う時」

【前回までのあらすじ】

学校近くで発見された猫の変死体。吸血鬼の仕業かもしれなかった。恐怖に怯える生徒たちの中、桐人とさくらは真相を確かめるため水前寺館へと向かう。

—————————————


水前寺館に着くと、俺たちはすぐにスニク様のところへ向かった。



「スニク様、学校の近くで猫の変死体が見つかったんです」



「ふむ、見せてみるがよい」



スニク様は今日も美少女の姿だった。


長い白銀の髪を揺らしながら、段ボール箱から猫の死体を取り出すと、つぶさに観察を始めた。



「ここじゃ」


細い指で猫の毛をかき分け、首元を見せた。



「二つの穴が開いておる。間隔は約四センチ。ここから血を吸ったのじゃな」


スニク様の表情が厳しくなった。



「牙の大きさからして、それほど強い吸血鬼ではない。じゃが……」



言葉を切って、俺たちに下がるよう手で合図した。


左手で猫を持ち上げると、右手だけがテンの姿に戻った。



白い毛皮に覆われた神獣の手。


鋭い爪が一閃する。



スパッと音を立てて真っ二つになった猫。


その断面を見て、俺は息を呑んだ。



「血液が一滴も残っておらんわ」



内臓まで完全に干からびていた。


まるでミイラのように。



(これが吸血鬼の仕業か……)



「動物の血では吸血鬼の渇きは長くは満たされぬ」


スニク様が扇子を開きながら続けた。



「つまり、この吸血鬼は相当追い詰められておる。人間を襲えぬほどに」



     *  *  *



「俺たちはどうすれば?」



「今のままでよいじゃろう」



スニク様が扇子で優雅に仰ぎ始めた。



「人間ではなく猫を襲っておるということは、其方らの見回りは効果があると思ってよい」



「でも、根本的な解決にはならないじゃないですか」


さくらが苦い表情で言った。



「まあ、そう急くでない」



スニク様が窓越しに空を見上げた。



「昨日は満月じゃったろう。満月の夜は吸血鬼の力が最も高まる」



扇子で月の軌道を描くように動かす。



「次の満月は二十九日後じゃ。その前後が最も危険じゃろうな」



「一ヶ月も待つのかよ?」



俺の問いに、スニク様は首を振った。



「いや、新月も要注意じゃ。満月ほどではないが、闇が深い分、隠れて行動しやすい」


指を折って数える。



「それは十四日後じゃな」



俺とさくらは顔を見合わせた。



二週間後、そして一ヶ月後。


その時までに、俺たちは準備を整えなければならない。



「しかも、死骸があった場所から推測するに」



スニク様が地図を思い浮かべるような仕草をした。


「隠れ家はそう遠くない。学校から半径1キロ以内じゃろう」



     *  *  *



スニク様が扇子で顎を軽く叩きながら、さくらをじっと見つめた。



「それよりも、さくら。其方、かなり思い詰めておるようじゃのう」



さくらの肩がぴくりと震えた。



「私は……大丈夫です」



「まことか?」



スニク様の問いかけに、さくらは答えられなかった。



俯いたまま、小さく震えている。


両手を握りしめ、唇を噛んでいる。



両肩が小刻みに震えている。


恐怖の震えだ。



「さくら、吸血鬼と対峙する前に、本気の桐人と仕合ってみよ」



スニク様が立ち上がった。



「今の桐人より強い吸血鬼はそうはおらん。じゃが……」



スニク様が俺を見た。


その瞳には、いつもの茶目っ気はなく、深い憂慮が浮かんでいた。



「桐人、其方も気をつけよ」


声が低くなった。



「血脈の継承者としての力は、使えば使うほど深みに嵌まる。今はまだ大丈夫じゃが」



言葉を切り、深いため息をついた。



「一体倒すごとに、其方の中で何かが変わっていく」


「十体、二十体と倒したとき……」



続きの言葉を飲み込んで、スニク様は続けた。



「じゃからこそ、さくらが強くならねばならん」



     *  *  *



さくらが顔を上げた。


その瞳には、恐怖と決意が混在していた。



「でも、私は……」



「何を恐れておる?」



「私は……大切な人を失うのが怖いんです」


声が震えていた。



「両親も、結局守れなかった。そして代々木公園でも、私は何もできなかった」


涙が頬を伝い始めた。



「もし桐人まで失ったら、私は……」



俺は一歩前に出た。



「さくら、俺と本気でやろう」



さくらが驚いたように顔を上げた。



「恐れているなら、それを乗り越えるしかない」



「桐人……でも、もし私が……」



「対吸血鬼となると、普通の剣道とは違う」



俺は自分の胸の真ん中を二回叩いた。



「俺のここを狙って突きを出せ」



     *  *  *



道場に移動し、俺は竹刀を持たず、小手と胴の防具だけをつけて対峙した。



さくらが構えを取る。


だが、いつもの美しい構えとは違っていた。



竹刀の先が微かに震えている。



「始め!」



スニク様の合図で、さくらが踏み込んできた。



だが、軌道が読みやすく、力も入っていない。



(これじゃダメだ)



俺はあえて避けずに、竹刀を肩で受けた。



鈍い音が道場に響く。



「っ!」


さくらが息を呑んだ。



自分が俺を傷つけたことに、明らかに動揺している。



「さくら、お前の剣は怖くないぞ」



挑発するように言うと、さくらの顔が青ざめた。



「私……やっぱりできません」



竹刀を下ろそうとするさくら。



だが、俺はそれを許さない。



「逃げるのか?」



「違います! でも……」



     *  *  *



次の一撃も弱々しい。



俺は身体で受け、前に出る。



さくらが後退する。



「さくら!」



俺は拳をさくらの胴に打ち込んだ。



手加減はしたが、さくらは大きく後ろに吹き飛ばされた。



「お前は親父さんとお袋さんの仇を討つんじゃないのか?」



「違う……違うんです」



さくらが顔を上げた。



涙が頬を伝っている。



「私は、もう誰も失いたくない。桐人も、ユリも、みんなも……」



「何を言ってるんだ」



俺は声を荒げた。



「お前がそんな体たらくなら俺が吸血鬼を倒す」



「待て、桐人」



スニク様の声が道場に響いた。



「其方が際限なく吸血鬼を倒してはいかん」



スニク様の表情が厳しくなった。



「一体倒すごとに、其方の中の『何か』が目覚めていく。それは止められぬ変化じゃ」



その言葉に、さくらの顔がさらに青ざめた。



「そんな……じゃあ桐人は……」



「十体、二十体と倒したとき、其方はもう人間ではおれぬぞ」



     *  *  *



「でも誰かが倒さないといけないだろ!」



俺は叫んだ。



(俺が化け物になったとしても、みんなを守れるなら……)



「桐人……」



さくらが震える声で俺の名を呼んだ。



「さくら、お前の両親だって、お前やみんなを守るために戦ったんだろ?」



さくらの目が見開かれた。



何かが心の奥で動いたような表情。



「お前が戦わないなら、俺が全部引き受ける」



俺は続けた。



「たとえ最後に吸血鬼になったとしても————」



「やめて!」



さくらが叫んだ。



その声は、道場中に響き渡った。



震えていた手が、ゆっくりと竹刀を握り直す。



「私は……私のせいで桐人が……」




言葉が途切れる。


深呼吸をして、もう一度口を開いた。



「そんなの絶対に嫌です」



     *  *  *



立ち上がったさくら。



まだ震えている。



恐怖は消えていない。



それでも、構えを取った。



「防具のない場所を打つことに躊躇うな!」



俺の言葉に、さくらが小さく頷いた。



最初の一撃は、まだ遠慮があった。



俺の腕を狙った打撃。



痛みはあるが、致命的ではない。



「まだ甘い!」



二撃目。



今度は太ももを狙ってきた。



竹刀が鋭い音を立てて俺の太ももを打つ。



少しずつ、さくらの中で何かが変わり始めている。



「もっとだ! 吸血鬼はそんな優しい相手じゃない!」



三撃目。



低い姿勢からの鋭い踏み込み。



狙いは俺の脛だ。



竹刀が正確に捉えた。


激痛が走る。



「ぐっ!」



俺の膝が崩れ、体勢が大きく前のめりになった。



(いいぞ、さくら。少しずつ……)



     *  *  *



さくらの呼吸が荒くなっている。



自分が桐人を傷つけることへの抵抗。



それでも戦わなければならないという決意。



二つの感情が、激しくせめぎ合っているように見えた。



「桐人、もうやめましょう。私には……」



「やめるな!」



俺は痛む脚を引きずりながら前へ出た。



「これが実戦なら、誰かがもう死んでる。お前はそれでいいのか?」



さくらの瞳に、また涙が浮かんだ。



だが、今度は違った。


涙の奥に、小さな炎が灯っている。



道場の空気が張り詰めた。



さくらが深く息を吸った。



「私は……守りたい」



小さな呟き。


それでも、その声には確かな意志が込められていた。



「桐人を、みんなを、守りたい」



     *  *  *



もう一度、構えを取るさくら。



竹刀がまだ震えている。



だが、その震えに力強さが宿り始めていた。


恐怖の震えから、決意の震えへ。



「はあっ!」



短い気合と共に、さくらが動いた。



今までとは違う、鋭い踏み込み。


胸を狙った突き。



だが、まだ迷いがある。


寸前で軌道が逸れ、俺の肩を掠めた。



「惜しい! でも、まだ覚悟が足りない!」



さくらが唇を噛んだ。


血が滲むほど強く。



そして————


「はああああぁぁぁ!」



裂帛の気合と共に、さくらが踏み込んできた。



床板が軋むほどの強烈な踏み込み。



今までの美しい剣道とは違う。



泥臭い、だが恐ろしく鋭い突きだった。



真っ直ぐに、一直線に、俺の心臓を狙って迫ってくる。



     *  *  *



躊躇いはあった。



最後の瞬間、一瞬の揺らぎ。



だが————


「うおおおぉぉぉ!」



恐怖を振り切るように、さくらは雄叫びを上げた。



竹刀の先端が、俺の胸の中央を正確に捉えた。



衝撃。


俺の体が宙に浮いた。



背中から床に叩きつけられる。



(これだ……これが、吸血鬼と戦うための剣だ)



「あ……私……桐人を……」



さくらが青ざめて立ち尽くしている。



竹刀を取り落とし、両手で口を覆っている。



「……はは」



俺は痛む胸を押さえながら、笑い声を漏らした。



「はははは! さくら、今の突きは最高だったぜ!」



ゆっくりと起き上がる。



「桐人! 大丈夫ですか!?」



慌てて駆け寄ってくるさくら。



     *  *  *



「今みたいに泥臭くてもいいから、胸を突くんだ」



俺は笑顔を作った。



さくらは複雑な表情で頷いた。



「私……できました。でも……怖かった」



「それでいい」



俺は立ち上がった。



「恐怖を感じながらも前に進む。それが本当の強さじゃ」



スニク様が扇子をパチンと閉じた。



「見事じゃったぞ、さくら」



道場の片隅から、爺さんがさくらに歩み寄っていった。


その表情には、いつもの豪快さとは違う、静かな決意が宿っていた。



「お爺様?」



「さくらに、秀明(しゅうめい)が得意としていた技を伝えよう」



爺さんが木刀を構えた。


「誘影一閃(ゆうえいいっせん)——相手の攻撃を誘い、影のように沈んで一瞬で仕留める技じゃ」



さくらの目が見開かれた。



「お父様の……」



「秀明は、この技で幾度も強敵を退けた。今度はさくらが使う番じゃ」



爺さんがゆっくりと技の型を見せる。


低く沈む身体、誘い込む動き、そして一瞬の閃き——



「やってみなさい」



さくらは震える手で木刀を握り直した。


恐怖はまだある。


でも、父の技を継ぐという想いが、新たな勇気を与えているようだ。


「はい、お爺様」



さくらが爺さんの動きをなぞる。



スニク様が一歩前に出た。


「さくら、妾は秀明とは会った事がないが、誘影一閃、見事じゃ」



そして、真剣な表情で続けた。



「恐怖を克服するのではない。恐怖と共に戦うことを覚えるのじゃ、そして、其方の父とも共に」



スニク様の声が優しくなった。



「それができれば、桐人が全てを背負う必要はなくなる」



さくらの目から、また涙がこぼれた。



だが今度は、何かを乗り越えた者だけが流す涙だった。



「私……もう逃げません」


さくらが拳を握りしめた。



「桐人が一人で背負わなくていいように、強くなります」


その言葉に、俺は心の底から安堵した。



     *  *  *



「次の新月まで、あと十四日」


スニク様が呟いた。



「それまでに、もっと強くならねばならん。今日はその第一歩じゃ」



俺とさくらは顔を見合わせた。



まだ不安はある。


恐怖もある。



でも、一人じゃない。


(俺たちなら、きっと————)



道場の窓から差し込む午後の光が、少しずつ傾き始めていた。



外では猫の死骸を恐れる生徒たちがいる。


吸血鬼は確実に近くに潜んでいる。



そして俺たちは、恐怖と向き合いながら前に進むしかない。


新月まであと十四日。



その時、真の戦いが始まる————



【次回予告】 さくらと桐人の本気の仕合、その後数日でまたしても絢音が怪しい行動をとる。その絢音の狙いは?

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