そむりえ
押田桧凪
第1話
本を開くと顔が変わる。それは真剣そのもの。異なる大きさの本がジェンガのように入り組んで、こぼれそうなくらい借りたい本を抱えた子たちは、貸出カウンターまでそろりそろりと行進をしながらやって来る。
「ゾロリ、どこー?」「読むのは、宿題終わってからね」「双晶って知ってる? ハートみたいな形の石!」
市立図書館に併設された「子どもとしょしつ」に声が溢れる。そんなにぎわいが開館を告げるファンファーレになる。夏休みということもあって、やはり自由研究や工作の本、恐竜や昆虫の図鑑が多く貸し出されている。赤鉛筆を耳裏に預けてドリルをしている子も、水筒の紐をおでこで引っ張っている子も、膝の上でどっしりとした大きな本を広げる子も、みんなのびのびとしている。
普段、私はここで開館・閉館業務に加え、新着図書の
ブッカー貼りは、携帯の液晶フィルムを貼るのに気泡を作ってしまう腕前の私だったけれど、今では物差しを使ってスイスイ引き延ばすのにも慣れた。
それと、季節ごとの館内展示も欠かせない。七夕やハロウィン、クリスマスといったイベントに合わせて、選書コーナーや各階の角に造花、折り紙、小型のインテリアを配置して来館者の気分を高めていく。ちなみに今月は、折り紙でつくったひまわりや蔓を巻いた朝顔、ペットボトルで作った風車を展示していた。
そんな一階の子どもとしょしつで資料を棚に戻していると、「おもしろい本おしえて! さくぶん書くの!」と私は声をかけられた。「ええっと……作文かぁ」
私が今まで読んだことのある本の中から、子どもが読めて、大人も楽しめるともっと良くて、挿絵の割合、面白さ、年齢を勘案して横断的検索を頭の中で行う。篩にかける。読書感想文というのはどうしても、読む前後で変化する内面に向き合うただしさが求められるような気がして、私は苦手だった。
学年を訊くと、四年生。ならば、『図書館の達人になろう』を習っている頃かなと予想し、端末で本のタイトルを検索してからクイズを出す。
「じゃあ、『440・く/12』の本を見つけてきて。どこにあるかな?」
請求記号の本探し、これぞひと夏の冒険? あるいはミッション。「本との一期一会を大切に」だなんてペーパーレス、書店の減少する時代には似合わないかな、なんて思いつつ、それでも、私はここで楽しんでもらいたかった。図書館という場所を活用してほしかった。
「オッケー。見つけられたら読んでみるね!」
その子は、お仕事体験の一つとして捉えたのか目を光らせて、背を向ける。「うん。ゆっくり歩いてね」と声をかけて私は送り出す。
メモ書きを渡し、「く、く、く! く?」と唱える姿が、なんだか魔女の笑い声みたいだなと思いながら、いや、それならヒヒヒの方が合っているかもと考え直して、私はひそかににやける。
(大丈夫、きっとすぐに見つかるよ。)とこころの中で呟く。
課題図書というなんだか硬い響きのする夏の代名詞。私はみんなにとって、少しでも本を身近に、とっつきやすいものに感じてほしくて、それこそ読書感想文のためだけの本にさせたくなかった。だから、ドリンクバーみたいにみんなの背の高さに応じて、分野を、コーナーを、棚の位置を、見やすさを考えながら、この期間に合わせて、私は人知れず配置を行っていた。
例えば、特設展示のところは、絵本の隣は絵本じゃなくてもいい。作者が同じだけど少し漢字が多い本、表紙の色が同じだけど内容の全然違う本、といった具合に並べていく。そうした工夫が誰かにとって大切な本に出会うきっかけになることを祈って、私は川底にきらきら光る石を落とすように、図書館に本をちりばめていく。それらを小学生向けやティーン向けとは括りたくなかった。
「むずかしい字が書いてあっても、読んでいいんだよ」。そんな私の祖母の一言が今でも記憶に残っているように、本がみんなを待ってるよって、言ってあげたかったから。
夕方になり、返却の時に、「この宇宙の本、面白かった!」とひとりの子から言われる。「そう、よかったぁ」と私は応じる。表紙を見ると、私がペルセウス座流星群の切り抜き記事と一緒に紹介していた本だった。隣にいたお母さんらしき人も頷いている。私の身体はぐんと熱を帯び、ありがとうございますと感謝しながら、「そうだ。来週、読み聞かせ会があるから、よかったら」と本と一緒にチラシを渡した。その子は紙をぴらぴらさせて、国旗掲揚のようにピンと人差し指で持ち上げると出口に向かった。
ここでは夏休み期間の毎週、大型絵本を使った「読み聞かせ会」を開催している。大型絵本は貸し出し可能とはいえ、持ち運びの大変さからか、中々貸し出されることがなく、どうにか一度でもあの子たちを明るい場所に送り出したい、という一職員の要望から始まったイベントだった。
次回は私の担当になっていて、音読の練習を家で小学生ぶりにやっていた。本番がいよいよ迫るなか、台詞や演技、タイミングを他の職員さんに見てもらいながら練習を重ねた。
小学校の時、雨の日にだけ図書室で「朗読会」があった。ただでさえ空はどんよりして室内は暗いのに、明かりを消して、代わりにろうそくの火をゆらゆらさせながら怖い話や不思議な話が始まるのだ。ちょっぴりドキドキして、でもこころではなぜかワクワクしていたあの時間が好きだった。話が終わって、「おはなしの火が消えたら、あなたは元の世界に戻ります」と言って図書室の先生が火を消すと、同時に部屋は明るくなって、でもまだ目は慣れなくて、すぐに掃除の時間が始まる。そんなまどろみの中で、たしかに物語が生きていた。
それから図書室の入り口に貼ってあった『どなたもどうかお入りください』と言う何気ない言葉が「注文の多い料理店」の引用だと高学年になって、やっと気づいた時の遅れてくる感動に、私はまたうっとりしたのだった。
私にとって学校の図書室は、雨宿りのような場所に、晴れの日には日陰に、あるいは砂金すくいに出かける川のような存在になった。夢中になってページを追いかける読書は、遠くで起こった夕立を眺めながら青空の下でするサッカーのようだった。
翌週。読み聞かせ会当日がやって来た。グランドピアノのある、観葉植物に囲まれた一角には子どもたちが円になり、体操座りをして待っている。緊張をほどこうと、すっと大きく息を吸い込む。私は普段は静かなこの空間をピリピリと震わせるよう声を出す。本を膝上に乗せ、右手でページを開く。
『どようびのあさ、ちづるくんは、いつもよりはやくおきてしまいました。
だけど、カーテンをひらくと、おそとはまっくらです!
ながいはりは6をさしているから、もうあかるいはずなのに。
ちづるくんは、もしかして、「ていれん?!」とこわくなりました。』
私はあくまでスピーカーに徹しながらも、反応を見回す。物語の雰囲気に合わせようと、あの頃の図書室のように、キッズスペースの照明を弱めてもらったぶん、みんなのドキドキがきゅっと結んだ唇や表情から伝わってくる気がした。
『まえに、かみなりがやってきて、いえじゅうがくらくなったことがありました。
おかあさんも、でんきはどこだろう、ろうそくはどこだろう、
とあわてたのを、ちづるくんはおぼえていました。
「ちがうちがう。ていでん、じゃないよ」
といいなおすように、うしろからおかあさんのこえがきこえました。』
速くならないように気をつけて、続きを読む。
『ちづるくんがふりかえると、そこでまた、「うわっ!?」となりました。
「お、おばけっ!……じゃ、なかった!」
おかあさんが、てにもった、かいちゅうでんとうでてらしたかおに、びっくりしてしまいました。』
小道具として、大型絵本の背表紙に隠していた小さな懐中電灯を、ピカッと天井に向ける。わあっと、聞きに来てくれたみんなが目を輝かせる。興奮が波になる。ふふっと誰かの笑い声も、ちゃんと聞こえる。かつての朗読会の体験が、今につながる。
『もう~! おかあさんったら。
でも、これでひとあんしん。ていでん、じゃないみたい。
だけど、いったいおそとはどうしたんでしょう。』
よし、と小さくガッツポーズをして、順調な出だしから最後まで私は読み終えた。ふっと肩の力が抜ける。手には少し汗をかいている。大きな拍手が、ピューピューと手笛みたいな音に乗ってやって来る。読めてよかった。この本を選んで、良かった。そう思った。
カウンターの定位置に戻ると、子どもたちの短い列ができていて「あのおっきいやつ借りたい」「また読んでくれる?」「面白かった!」の声で溢れる。私はありがとう、と手を振りながら言葉をひとつひとつ返していく。
「ねぇー、名前は?」
列にいたひとりの子から尋ねられる。以前、私がクイズを出した子だった。
「私は、司書だけど」
「ししょ?」
私はただの司書。名札の用意されていないここでは、役割だけがあった。名前を捨てること、ただ業務を全うすること。私より有名な人の名前が何万冊もの背表紙に刻まれて、同じ場所で息をしている図書館では、私の名前なんて誰ひとり気にするはずがなかった。
「知ってるよ、そういうの『そむりえ』って言うんでしょ?」と隣にいた子が自信ありげに答える。
まだワインを飲んだことのない子の言うソムリエがなんとも遠くて、私は思わず目を細める。にやけそうになる。本を選ぶことに限って言えば、たしかにそれに近いのかもしれなかった。
「それってほんとの名前?」「えっ」
「ほ、ほんとの名前は……、まい!」
息せき切って、とはこんな感じだろうか。私はなぜだか勢いよく伝えたくなった。まだ、絵本の読み聞かせが続いているような心地だった。
「まい……、まいさん?」「そうだよ!」
名前を呼ばれる。それから、この夏、私はソムリエになる。
そむりえ 押田桧凪 @proof
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