第4話 正しいことが報われるとは限らない
朝のオフィスには、今日も変わらない無機質な空気が漂っていた。
人の気配はあるのに、感情のやり取りはどこか遠い。
キーボードのタップ音と、電話のコール音が空気を小さく震わせているだけ。
私は自分の席に座り、昨日作成した提案書のファイルをそっと開いた。
――新商品のキャンペーン企画案。
派遣の私に、企画を発表するような機会はない。
もちろん、名前が残るような仕事でもない。
それでも私は、自分なりに考えて、動いてみたかった。
今の部署に配属されてから、私はずっと“透明な存在”だった。
与えられた仕事は、丁寧に、ミスなくこなす。
けれど、それ以上を望まれることはなかったし、望むべきではないという空気がそこにはあった。
――出しゃばらないように。
――間違っても、正社員の領域に踏み込まないように。
でも、それでも私は、ここで働く自分を、少しでも誇りに思いたかった。
あの日、神谷課長が言ってくれた「助かる」のひと言。
中原さんがかけてくれた「あなたの細やかさは強みよ」の言葉。
あの瞬間から、私は少しずつ、自分から動いてみようと思えるようになった。
誰に頼まれたわけでもない。
それでも、社内で話題になっていた新商品――
次の四半期で売上の柱になると言われていたあの製品を、どう打ち出せば効果的なのか。
昼休みや終業後に、少しずつ資料をまとめていった。
見てもらえるかは分からない。
でも、たとえ誰の目にも触れなかったとしても、やってよかったと思いたかった。
私は私のやり方で、「ここにいていい理由」をつくりたかった。
* * * * *
「白石さん、例のファイル、今日の会議資料に入ってなかったけど」
デスクに戻ったタイミングで、同じチームの瀬戸優奈さんに声をかけられた。
彼女の指には、トレンドのくすみブルーのネイル。資料を持つ手元が、妙に洗練されて見える。
「いえ、私が勝手にまとめたもので……まだ誰にも共有していなくて」
私がそう答えると、瀬戸さんは少しだけ眉を上げ、口元だけで笑った。
「そう。……気をつけてね。余計なことって取られたら、損よ」
やんわりとした口調に、棘のようなニュアンスが潜んでいるのを感じた。
私は曖昧に笑って、その場を離れた。
(……やっぱり、余計なことだったのかな)
胸の奥に、ぽつりと冷たいものが落ちる。
提案した事実すら、誰にも見られないまま終わっていく。
今日もまた、自分の存在が透明に近づいていくような感覚。
オフィスの中にいるのに、まるで誰の記憶にも残らない。
その孤独感が、静かに私を包んでいった。
* * * * *
午後の全体会議。
プロジェクト責任者の村井梨花さんが、新しいキャンペーン案について話し始めたとき、私は椅子の背にもたれながら静かに耳を傾けていた。
「今回は、SNSと連動してターゲット層に訴求する方向で……」
その言葉を聞いた瞬間、息が止まりそうになった。
(これ……私がまとめた企画案と、ほとんど同じ)
プレゼンの構成、訴求ポイント、ターゲット設定――細かな言い回しは違っても、考え方や狙いはほぼ重なっていた。
モニターに映るスライドを見つめながら、心がじわじわと冷えていく。
けれど、画面のどこにも、私の名前はなかった。
彼女の口からも、「参考にした案」や「提案者」についての言及はなかった。
「さすが村井さん!」「こういうの、待ってたんだよ」
部内から上がる賛辞の声。
村井さんは涼しい顔でうなずき、満足そうに微笑んでいた。
私はただ、静かに息を飲み込み、手元の資料を閉じた。
(別に、評価されたいわけじゃない。ただ、ほんの少しだけ、認めてほしかっただけなのに……)
喉の奥が、ひりつくように熱を帯びた。
でも、その痛みを吐き出す場所はどこにもなかった。
誰にも、届かない気がした。
どれだけ考えても、工夫しても、所詮は“派遣”というラベルに埋もれてしまう。
そんな現実だけが、しんと胸に残った。
* * * * *
会議が終わってしばらく経った頃、神谷課長が私のデスクに静かに現れた。
「少し、時間いいか」
いつもの抑揚の少ない声。それなのに、なぜか胸がざわめいた。
案内されたのは、空いていた小会議室。
課長は何も言わずにタブレットを開き、私に画面を向けてきた。
そこには、私が社内共有フォルダにアップしていた提案ファイルの冒頭ページが表示されていた。
「この企画、君が出したものだな」
言葉を飲み込む。
「……はい。でも、正式な依頼ではなかったので……」
「読んだよ。細部までよく練られていた。――村井の提案と酷似していたが、彼女が参考にしたのはこれだ」
その言葉に、胸の奥が静かに波打った。
「会議の場で言及しなかったのは、大人の事情というやつだ」
少しだけ眉を上げ、皮肉のように微笑む課長。
でも、その視線はまっすぐだった。
「だが――俺は見てた。君が、どれだけ丁寧に考えていたか」
たったそれだけの言葉だった。
でも、それだけで、涙が出そうになるほど救われた気がした。
私が誰にも見られていないと思っていた時間。
空気のように扱われていた日々。
そのすべてが、あの人の中では、ちゃんと“記録されていた”のだと思えた。
* * * * *
夕方。帰り支度をしていると、中原千鶴さんがそっと近づいてきた。
「白石さん、今朝の村井さんのプレゼン……あれ、あなたの企画だったんでしょう?」
驚いて顔を上げると、中原さんは、どこか優しい顔で微笑んでいた。
「神谷課長、さっきぽろっと言ってたの。『アイデア元は白石だ』って」
「……そうなんですね」
「悔しいよね。でも、ちゃんと見てくれてる人はいる。あなたは、間違ってない」
そう言って、中原さんはそっと肩に手を置いてくれた。
「正しいことが、必ず報われるとは限らない。けど、それでも正しいことを続けられる人って、すごく強いと思うの。私は、あなたのそういうところが好き」
胸の奥で、何かがほどけた気がした。
誰にも見られていないと思っていた。
でも、違った。
見てくれている人が、たしかにここにいた。
そして、それは――私にとって、何よりの報酬だった。
『「一緒に来てほしい」──その一言が、私の心をほどいた』 ──報われなかった私が、初めて救われた日 なぎさ ほのか @renai_memo
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