アンリミテッド

由良 となえ

それは、夜道でふと目に入ったんです。

薄暗い住宅地。ぽつぽつと列を成す街灯の下に、妙な“何か”が立っていました。


遠目にもおかしいとわかる奴でした。

ぼさぼさの長い髪は脂と埃で重たく垂れ下がり、服は薄手の病院着みたいなもので、裸足。口元がわなわなと動いていて、何かぶつぶつ呟いているのが見えました。言葉じゃなく、声でもなく、何かの音律のような。


直感で「見てはいけない」と思った俺は、耳を塞いで目を伏せ、その横を早足で通り過ぎようとしました。

でも、どうしても気になってしまったんです。

──後ろに張り付いているんじゃないかっていう感覚。あれが、まだ立ってるのか、動いたのか……。


耐えきれず、振り返ってしまいました。


思わず、叫び声を上げました。

目の前に、あいつの顔があったんです。


白く干からびた顔。

落ち窪んだ眼窩は空洞で、奥に真っ黒な渦が見えた気がしました。

口は、音もなく真円を描いていて、まるで井戸の底を覗き込むような暗さと深さでした。


俺は反射的にそれを突き飛ばし、走って逃げました。

けれど、背後からは、四肢をばらばらに動かしながら、異様な速さで迫ってくる音。

「ぐちょ、ぐちょ、ぐちょっ」

肉のこすれる音が、やたら耳について離れない。


振り返ると、それは四つん這いのまま、蛇みたいに身体をうねらせながら追ってきていました。

眼窩の闇が、ぶわっと広がって、視界が染まるような錯覚に陥る。


俺は、息を切らしながらなんとか自宅にたどり着き、玄関の鍵を締め、チェーンロックを掛けました。

はあ、はあ、と荒い呼吸が部屋に響く。


……次の瞬間、ドアノブが激しくがちゃがちゃと揺れ始めました。


がたがた、がたがた。

がたがたがたがたがたがた──!


チェーンが軋み、ドアがぐん、と引き絞られる。

心臓が潰れそうになりながら、俺は息を殺して固まりました。

そして──いつのまにか、その音は止んでいました。


気づくと、外は朝になっていました。

辺りはしんと静まり返って、鳥の声すら聞こえない。


……俺は、覗き穴にそっと目を当てました。


そのとき、ふっと目の前が暗くなった。

──外に、まだ、あいつがいたんです。

首を傾げて、漆黒の眼孔で、真っ直ぐに俺のことを見ていました。

全く動かないのに、見られていると、はっきりわかるんです。


俺はもう限界でした。

逃げなきゃ。

閉じ込められる。

ここはもう、外じゃない。


ベランダに出て、フェンスを乗り越え、一気に下へ飛び下りました。


でも──落下先に、そいつの巨大な顔が、口をぱっくり開けて待ち受けていたんです。


俺の身体がすっぽり吸い込まれた瞬間、目が覚めました。


寝汗でびしょびしょのTシャツ。

窓の外は夜。

日付けは……昨日のまま?


気怠い身体で、俺は立ち上がり、壁に掛かったカレンダーにまた一つ×印をつけました。


……もう、これで何日目だったっけ?


ドアの向こうで、小さくノブの音が鳴りました。

がた……がた……。


今夜も、来てる。


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アンリミテッド 由良 となえ @kyo-ka

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