主人公は裁かれない
@kamin0
主人公は裁かれない
何をしても上手くいく。
「おおー!」
周囲の友人たちの歓声を聞きながら、俺はクレーンゲームの景品を取るためにその場にしゃがみ込む。
「すげえよ佐伯!また一発じゃん!」
「たまたまだって」
俺は幸運だ。それを明確に認識したのは、小学校四年生の時だった。生まれてから脳に腫瘍のあった俺は、中学生までにまず助からないと言われていた。それが奇跡的に回復したのだ。その後も、たまたまテストの範囲が的中したり、時には交通事故を偶然回避したり。高校2年生になった今も、それは続いている。
「あちー。佐伯、自販いかね?」
「やだ。こっからだと中庭通んじゃん」
昼休み、俺はいつものように友人たちと昼ご飯を食べる。今まで1人で食べたことはない。そこでふと、俺の目にある光景が映った。
(また包帯巻いてる……)
教室の隅でひっそりとお昼を食べる、クラスの女子がいた。名前は高坂、友達はいるにはいるようだが、昼休みはいつも1人だ。そして何より、高坂はいつも傷だらけだった。足にできたいくつもの擦り傷とそれを覆う絆創膏。指や手の甲にも切り傷の跡が目立つ。涼しく爽やかなはずの夏服は、ブレザーで隠されていた腕のアザと絆創膏の跡をさらけ出していた。そして今日の高坂は、頭に包帯を巻いていた。その真っ白な包帯は、高坂の綺麗な黒髪に痛々しいコントラストを生んでいる。
そんな高坂とは確か小学校が一緒だったが、なぜかその頃の記憶が曖昧で、面識があったかどうかも覚えていない。何か特別な感情や興味を抱いているなんてことも、ない。俺はその時、とある用事を思い出した。
「……あ、」
(そういえば俺、高坂に用事があるんだった)
担任曰く、
『お前学級委員だろ?俺会議あるから、代わりに高坂に渡してくれよ』
とのことだった。俺は自分の机からプリントを取り出すと、席から立ち上がる。
「あれ、なんか集まりあんの?」
隣の友人は、俺が手に持つプリントを見てそう尋ねる。
「いや、これを渡すだけ」
「誰に」
「高坂」
そう言って俺が高坂の席に行こうとすると、そいつは俺を引き留めて、小声で話しかけてきた。
「待てって。お前もう聞いた?高坂さんの噂」
俺はもう一度椅子に座る。
「噂?知らねえ」
「高坂さんって放課後、毎日ここの近所の神社に通ってるらしいんだよ」
「神社って、あのボロいやつ?」
「そうそう。それで高坂さん傷だらけじゃん?ノートとかプリントとかもボロボロですぐ無くすし。だから呪われてるんじゃないかって言われてんの。神社に行くのはそのお祓いのためってさ」
俺は嫌な顔をする。
「やめとけよ、そういうの。本人聞いたら傷つくぞ」
「だから噂だって。あの人には伝わってないでしょ」
そう軽いノリで返す友人に、俺はため息を吐くと席を立つ。言いようのない不快感が煙のように胸に立ち込める。言葉は伝わらなくても、その空気は伝わるのだ。
「高坂」
俺は彼女の後ろから声をかけた。クラスの目が一斉にこちらに向くのが分かる。呼ばれた高坂は、弁当を食べる手を止め、こちらに振り向いた。
「……!」
俺は思わず息を呑んだ。高坂の顔の目元には、また新しいアザが出来ていたのだ。その痛々しい様子に、俺は思わず目を背けた。そして担任から渡されたプリントを差し出す。
「これ、明日提出のプリント」
俺は隣の机を見ながらそう言った。でも、高坂は俺の顔を真っ直ぐに見ていた。
(気まずいって……)
そして高坂は、若干戸惑い気味に答える。
「あ、えっと。ありがとう」
高坂はプリントを受け取ると、丁寧にクリアファイルに挟む。俺はその場から離れられずにいた。何か一言、言わなければいけないような気がした。
「あの、高坂……」
「なに?」
俺は唾を飲み込むと、意を決して高坂の顔を見た。擦り傷とアザのできたその顔は、まるでその痛みを当然かのように受け入れていた。だから俺は、思わず言ってしまったのだ。
「その傷、大丈夫?」
俺の言葉に、高坂は一瞬キョトンとすると答えた。
「うん、大丈夫だよ。ちょっと、転んだだけだから」
そして高坂は、まるで笑顔の表情を組み立てるように、ぎこちなく笑うと言った。
「ありがと」
俺はその言葉に、すぐには答えられなかった。大丈夫なはずがないと思った。傷は痛むし、すぐには治らない。それは体の機能で、本人の意思でどうにかできるものじゃない。だから、高坂がどこか慣れない笑顔とともに言った"ありがとう"を、俺は素直に受け取れずにいたのだ。俺には、その権利がない気がした。だが無視は出来ない。それはあまりにも不誠実だ。だから言った。
「……どういたしまして」
自分でも分かる震え声だ。側から見たらほんの些細で事務的な会話のはずなのに、俺は声を震わせ、相手の顔もまともに直視できなかった。後で気付いたことだが、高校に入ってから俺が高坂と話したのは、これが初めてだった。
それがどんな意味を持つのかを、俺は深く考えてはいなかった。
ーー何をしても上手くいかない。
「ああ、またプリント無くしたんでしょ。はい、これ。いいよ謝らなくて。怒っても意味ないしさ」
「えー、高坂ウチらの班っすか?」
「ちょ、やめなって笑」
「高坂さん、大丈夫?」
「高坂ってさ、結構使えないよね」
何をしても、見ても、聞いても、話しても、何もしなくても、擦りむいてつまずく。疲れを癒すはずのお風呂も、出来たばかりの傷跡にしみるだけ。だけど、私は気にしていない。どれだけ経っても、忘れようとしても癒えない疵に比べれば、時が経てばなくなってしまうような傷なんて、取るに足らないものだから。だから痛みなんて、あってないようなものなんだ。
「高坂」
不意に後ろから声をかけられた。私はその声にドキリとする。そして、なんとか平穏を取り繕うと後ろを振り向く。
(やっぱり、佐伯君だ)
そこには、プリントを持って立つクラスの男子がいた。私は彼をよく知っている。だから、彼の反応も理解できた。佐伯君は明らかに私から目を背けていた。他の同級生とは違って、いまだに佐伯君は、私の傷を”痛々しく”思っている。そう思うと胸が高鳴った。けど、
(だめだよ佐伯君。私なんかに声をかけたら)
「これ、明日提出のプリント」
佐伯君はそう言って私に、失くしていた授業プリントを渡してくれた。
「あ、えっと。ありがとう」
(高校に入ってから初めて話せた!)
私はその嬉しさを押し殺すようにぎこちなく答えた。もっと話したい、二人きりで話したい。
(でも、あれ?会話って、どうやって続ければいいんだっけ)
「あの、高坂……」
「……!」
私は舞い上がってしまった。佐伯君の方から話しかけてくれたのだ。やっぱり佐伯君は優しい。6年前から変わっていない。佐伯君になら、どんなことを言われても答えられる。
「その傷、大丈夫?」
(え?)
私は一瞬困惑してしまった。傷とは、この顔のアザのことだろうか。そんなもの、今の今まで忘れていた。でも、佐伯君は気にかかってしまったのだろう。この傷はきっと、佐伯君にとって普通じゃないから。
ああ!なんて優しくて平凡なんだろう。私とは正反対だ。だからこそ私を救ってくれる。私の心に空いた隙間を埋めてくれる。
「うん、大丈夫だよ。ちょっと、転んだだけだから」
そして私は、久しぶりに口角を上げて、目を少し細めて、顔の力を抜いて、自然な笑顔を作った。
「ありがと」
だからそんな顔をしないで、佐伯君。私のことは心配しなくていい。気にしなくていいの。そんなことをしなくても、私が佐伯君を支えるから。
「……どういたしまして」
そういう佐伯君の声は震えていた。深刻そうな顔をしていた。なぜだろう、私は努めて笑顔で接していたのに。どれだけ考えても、分からない。
「ただいま」
私は古いアパートの扉を開ける。途端に濃い香水と酒の臭いが鼻をつく。カーテンが閉めきられ、日の光の届かない薄暗いリビングの床には、ブランド物のバッグと化粧品が、まるで投げ出されたかのように雑に放置されていた。奥の襖は固く閉め切っている。
(またそのままにしてる……)
私はそれらを片付け、冷蔵庫を開ける。黒く変色した野菜と冷凍食品の空の袋が、無造作に置かれているだけだった。
「買いに行かないと」
私はいつものようにそう呟くと、テーブルの上に置かれていたクシャクシャの千円札を手に取る。お母さんはいつも昼は寝ている。夜中になると黙って出ていくのだ。どんな仕事をしているかなんて、いまさらどうでもいい。聞いてもどうせ無視される。ただ、私は間違って生まれたらしい。普段は私を無視するお母さんは、たったそれだけを私に当てつけるように言っていた。でも、私はそんな風に思わない。
(私の人生にはきっと意味がある。佐伯君を幸せにし続ける限り)
6年間、私はそう信じ続けている。あの日願った、あの神社に通い続けている。佐伯君を幸せにするために。だって佐伯君は、私の孤独を埋めてくれた唯一の人だから。
その時、私はふと学生鞄の違和感に気づいた。
「ピョン吉のキーホルダーが、ない?」
ーー翌日、俺はいつも遊ぶメンバーと渋谷に繰り出していた。天気は快晴で、アスファルトの照り返しがいつにも増して眩しい。
「お前、あん中だと誰が1番可愛いと思う?」
友人の1人は、俺にそう言って前を見る。その視線の先には、俺と同じ2年生の女子数人がいた。今日はその女子たちも含めて遊ぶのだ。そして俺たちは、心なしか浮き足立っていた。
「はあ?えー、真ん中の子とか?」
そんな会話をしていると、もうスクランブル交差点の信号は青に変わっていた。俺は信号を見て歩き出す。その時だった。
「あれ……」
目の前にカラフルな紙切れが落ちていたのだ。それを手に取ってみると、
「……宝くじ?」
それは、まだ削られていないスクラッチくじだった。
「あれ?お前いつの間に宝くじ買ったん?」
横から友人が覗いてくる。
「いや、なんか目の前に落ちてて」
「はあ?」
友人たちは信じられないという顔をする。そして俺たちはその場の勢いに任せて、カラオケの一室でそのスクラッチくじを削ることにした。全員の注目がテーブルに置かれたスクラッチに集まる。
「じゃあ、削るぞ」
俺は10円玉をくじに当てた。そしてガリガリというスクラッチを削る音が終わる頃には、俺を含めその場の全員が言葉を失っていた。削り出された結果はなんと一等、賞金は100万円だった。
「うおおおお!ヤバッ!」
「ちょ、佐伯君。写真撮らせてよ」
「………」
(本当に、これが100万?)
俺はそのあまりの幸運にのけぞる。今までの人生で、もしかしたら1番の幸運かもしれない。いや、幸運と言って良いのかも怪しい。それはあまりにも偶然で、そして不自然なように感じたのだ。
「こんなこと、初めてだ……」
沸き立つ友人たちをよそに、俺はとある記憶を思い出していた。昔、国語の授業で因果律という言葉を習ったことがあった。もううろ覚えだがその意味は確か、良いことがあれば、悪いことが起きる。均衡を保つように。
ーー「俺は、幸運すぎる……」
夕暮れ、俺はいつもより早く友人たちと別れた後、なんとなくいつもとは違う帰り道を歩きながら、思った。
(今思えば、小四の時から今まで、俺には不幸な出来事が全くと言って良いほど無かったんだ)
俺はポケットの中のくじに触れる。最初は奇跡のようにも見えた100万円のくじも、今では呪いのように思える。
(呪い、か)
「……いや、もうやめよう」
俺はそう自分に言い聞かせるように呟く。
(運とか呪いとか、そんなものを真面目に考えててもしかたない。このくじも、さすがに警察に届けよう)
だが、胸の不安はどんどんと膨らんでいく。空はオレンジではなく不吉な赤に染まり、遠くから聞こえるセミの鳴き声が、うるさく響いていた。俺はどうにか気を紛らわそうと、前を向いた。そして目の前に映ったものに、俺は思わず足を止めた。
「あ……」
それは鳥居だった。急な斜面に立つ周りの建物に挟まれるように、小さな鳥居があり、その奥にはどうやら石畳の階段が続いている。俺はこの神社に心当たりがあった。確か友人の言っていた……
(この神社、高坂が通っているところだ)
何かが分かるかもしれない。そんな漠然とした予感に、気付くと俺は足を一歩前に踏み出していた。
俺はスマホのライトを点けると、苔むした石の階段を登っていく。左右はツタの絡まるフェンスに囲まれ、アーチのように覆いかぶさる木の枝で、夕日は遮られていた。時折吹き抜ける風は涼しく、穏やかな鈴虫の鳴き声と木々のざわめきは、どこか懐かしく俺を包んだ。俺は次第に落ち着きを取り戻しつつあった。その時、俺はふとライトに照らされた足元を見て、あるものに気付いた。
「これ……」
俺はその場にしゃがみ込むと、小さなキーホルダーを拾い上げた。それは塗装もはげ、ぼろぼろになったウサギのキャラクターのキーホルダーだった。
今と同じ、土と草の匂いがしていた。腰を下ろしたのは、薄く苔の生え始めた階段の途中だった。ここなら照り返すアスファルトの熱と光も、人や車の騒音も届かない。ただ、静かで涼しい緑の木陰の下に俺たちはいた。俺はそのキーホルダーを見て言ったのだ。
『じゃあピョン吉って、どうかな?』
その瞬間、俺は勢いよくその場に立ち上がる。俺の額には冷や汗が滲んでいた。木々のざわめきが大きくなる。
「そうだ。このキーホルダーに名前を付けたの、俺だ……」
俺は手のひらに乗せたキーホルダーを見た。心臓の鼓動が早まっていく。
(あの時、隣にいたのは……)
俺は階段を駆け上がる。やがて、一気に視界が開けた。目の前には、夕焼けのオレンジ色に照らされた小さな社があった。俺は呼吸を整えると、社の前まで歩き始めた。一歩、また一歩と地面を踏み締めるたびに、心の奥深くに沈んでいた記憶がゆっくりと蘇る。
(そうだ。俺は多分、ここを知ってる)
俺は社の前で立ち止まる。そして目を瞑った。
夏の湿ったぬるい風が、俺の頬を撫でていた。境内を覆う高い木の木漏れ日が、足元に若葉のシルエットを浮かび上がらせる。そして俺の隣には、綺麗な黒髪を靡かせ、純白のワンピースがよく似合うあの子がいた。俺たちは、5円玉を握りしめて、この社の前に立っていた。
『さえきくんの病気が治って、ずっと幸せでいられますように。代わりに、私がその分ぜんぶ持つから』
俺の脳内には、堰を切ったように記憶の濁流が流れ込んでいた。
「ああ……」
ようやく思い出した。
(高坂だ。俺は、昔この神社で遊んでいたんだ。高坂と一緒に。キーホルダーも、彼女のものだった)
そして俺は6年前、この社で話したのだ。自分の病のことを。高坂は俺の話を最後まで真剣に聞いてくれた。それが嬉しくって、安心したから、俺は言ったのだ。
『どうすればなおるのかな……』
俺の弱音に、高坂は明るくはつらつとした笑顔でこう答えた。
『じゃあお祈りしよ?神さまに、病気が治りますようにって。私も一緒にお祈りするから』
(まさか……)
脳裏に浮かんだ最悪であり得ない予測に、俺の心臓はまたもや早鐘のように鳴る。息が詰まる。
「……願ったからなのか?俺が運が良すぎるのも、高坂が傷だらけなのも」
因果律、その言葉の意味を俺は知っている。幸せには代償が存在するのだ。俺の幸せの代償を負っていたのは……
『私がその分、ぜんぶ持つから』
頭がぐわんと揺れ、足がふらつく。俺は思わず頭を抱えた。
(もし、それが本当だとしたら俺は)
「俺はなんてことを…!」
かつてともに遊んだ幼馴染。今では、その面影もない。彼女をそうさせたのは、
「俺のせいだ……」
(俺があんなことを言わなければ……)
高坂は幸せに生きられたはずなのに。傷つかずにいられたはずなのに。
(なんで俺は今まで、こんなに大事なことを忘れていたんだ…!)
俺は震える手でピョン吉のキーホルダーを見る。
「……届けなきゃ」
俺は階段へとふらつく足で歩き出す。もはや心臓の鼓動など、気にしている場合じゃない。
(届けて、謝らなきゃ。誰かを犠牲にして得る幸運なんて、本物じゃない)
俺は手の甲で涙を拭うと、キーホルダーをポケットに入れ、神社を後にする。
『その傷、大丈夫?』
「何聞いてんだよ、俺」
(大丈夫な訳ない。それは、俺のつけた傷なんだ)
俺は両手を強く握りしめた。痛めつけるように、強く。
ーー翌日、誰よりも早く学校に行った俺は、担任から話を聞かされて思わずこう聞き返した。
「高坂が、休み?」
「ああ。こんなこと言うもんじゃないが、昨日の夜に親御さんが倒れたらしくてな」
「……!」
俺は学生カバンをどさりとその場に落とした。俺は、昨日偶然拾った100万円のスクラッチくじのことを思い返す。
(あのあり得ない幸運。それがもしかしたら、高坂にじゃなく親にまでその代償を、不幸を要求したんじゃないか?)
俺はそう考えると、教室から駆け出していた。
「あ、おい!佐伯!」
俺を呼び止める担任の声も無視して学校を飛び出す。
(今だ。今会わないと、手遅れになる。これ以上俺に幸運が起きれば今度は……)
俺はその考えを振り切るように、高坂の家へと駆け出していた。6年前の記憶を頼りに、痛む脇腹を抑えながらいつもの通学路を逆走する。日光がジリジリと、まるで俺をなじるように照らす。
「え?佐伯?」
「なんで走ってんの?」
すれ違う同級生を尻目に、俺はスマホを取り出すと、高坂に電話をかけた。だが、俺はすぐにその電話を切ると、ぜえぜえと息を切らしながら立ち止まった。
(待て、よく考えろ。高坂は今、俺なんかに時間は割けないはずだ。病院の付き添いがあるかもしれないし、親の代わりに家事だってしなくちゃいけないかもしれない。そんな時に、邪魔はできない。もうこれ以上、高坂に迷惑をかけたくない)
「……やめよう」
俺は汗をぬぐうと、もと来た道を戻ろうとする。その時だった。スマホのバイブが、誰かからの着信を知らせていた。その相手は、高坂だった。俺はすぐに電話にでる。
「高坂!」
『ッ……!びっくりした。あの、佐伯くんだよね?』
俺は、はやる気持ちをぐっと抑えて尋ねる。
「うん。高坂は病院?」
俺の問いに、高坂はとても言いにくそうに答えた。
『その、実は違くて。えっとね、学校の近くの神社にいるの』
「……!」
俺は、手に持っていたキーホルダーを握りしめる。高坂は今、あの神社にいるのだ。諦めていた気持ちがまた湧き上がる。俺は言った。
「俺も、行っていいかな」
『え?』
「高坂に、言わなくちゃいけない事があるんだ」
電話越しに息を呑む音が聞こえる。やがて、高坂は涙を我慢するような、震える声で答えた。
『……うん。来て』
俺は走り出した。あの頃の記憶を頼りに、ただあの神社へと、あの社へと向かう。
(高坂!)
俺は心の中で叫んだ。高坂が今にも泣きそうな声で言った『来て』と言う言葉は、今までとは違って聞こえた。俺は、初めて高坂の本心に触れた気がした。鳥居をくぐり、朝日に照らされたあの頃と変わりない石畳の階段を、まるでタイムスリップするかのように駆け上がる。
ーーその日は、少し違う気がした。
私の母親は度々入院していた。腎臓に疾患を抱えていたからだ。だから、いつ突然倒れても不思議ではなかった。私はいつものように病院に行って、お医者さんの話を聞いて、お母さんの財布から食費分のお金を取っていく。それだけだったのに。
『軽度の脳梗塞ですね。めまいや頭痛などの症状を訴えてはいませんでしたか?』
(そんなの、一度も言われたことないよ)
私は家に帰る電車の車内で座りながら、そう心の中で呟いた。
(脳梗塞なんて、知らなかった)
電車の冷房が、効きすぎなくらいに寒く感じる。私は膝の上に置いていた、診断書の入ったトートバッグをぎゅっと抱きしめる。私は母が嫌いだった。どんなにお母さんと呼んでも、返事すら貰えなかった。その癖して私を高校に通わせてくれている。さっさと追い出せばいいのに。私はそんな母が分からなかった。
(でも、お母さんが脳梗塞だって聞いたとき、ドキッとした)
私は、お母さんが死んでしまうんじゃないかと思って、怖かったんだ。嫌いなはずなのに。もう私には、私の本音がどこにあるのか分からなかった。
(嫌いだと思えば、どんなに無視されても、除け者にされても悲しくはない)
今までそう考えて生きてきた。そう思って、生きてきた。でも、
(私は多分、心の底からお母さんを嫌いじゃない。どんなに無視されて、愛情を貰えなくても、あの人は私のたった一人のお母さんだ。大切な、家族だ)
それが私の本音だった。傷つきたくないから、私はお母さんが嫌いだと思い込んでいたんだ。そう思うと、今までの行動すべてが違って見えてくる。
『高坂ってさ、結構使えないよね』
時が経てば消えてしまうような傷なんて、取るに足らないものだ。どんなに陰口を言われたって、どんなに怪我をしたって、気にしない。そう思ってきた。
(もしそれが、思い込みだとしたら?)
私の胸にズキリと鈍い痛みが走る。
(私は本当に気にしていなかったの?)
今まで投げかけられた心無い言葉も、今まで負ってきた傷も、取るに足らないものだったのか。
「……痛い」
膝の擦り傷が、腕の切り傷が、顔のアザがいまさらのようにジンジンと痛み出す。そして、心の傷も。
(痛いよ。痛くないはずないんだ。今日だって、昨日だって、いつだって、私は痛かった。苦痛だった。なのに私はまた、傷つきたくないからって……)
視界が滲む。数滴の生温かい涙が、冷えた私の腕に落ちる。
(私は、どうしたかったんだろう……)
物心ついたときからそうやって生きてきた。辛いことから必死に目を背けて、気にしないようにしてきた。辛い思いをするのは、とっても不幸な事だから。だから私は、独りぼっちでいた佐伯君と友達になったんだ。自分の孤独から目を背けるために。
でも、佐伯君と話しているときは確かに幸せだった。本音で話すことができたんだ。もうあの時の感覚も、忘れてしまったけど。
(じゃあ私はどうなりたいの?)
また、あの頃みたいに本音で話したい。自分の気持ちを取り繕うことなく、堂々と。だから私は……
(私は、幸せになりたいんだ。もう、1人でいるのも陰口を言われるのも、傷つくのも嫌だ)
でも、そうしたら佐伯君はどうなる?私が幸せになったら、今度は佐伯君が不幸になるかもしれない。私は佐伯君も幸せにしたい。
(私は、どうしたらいいの?)
会いたい。佐伯君に会って話したい。
(神様、どうか……)
気づくと私は、家ではなくあの神社にいた。そして私のスマホには、一件の不在着信が通知されていた。
ーー彼女はいた。社の前で、ただ1人。
「高坂」
俺は呼びかける。高坂は、俺の声にびくっと体を震わせると、ゆっくりとこちらを振り向いた。その顔には、アザだけでなく、泣き腫らした跡があった。俺の胸に鋭い針が突き刺さる。
彼は来た。階段の前で、ただ一人。
「佐伯、くん?」
高坂と目が合う。今度は高坂が目を逸らした。
私は佐伯君から目を逸らした。この期に及んで、何が言えるというのだろうか。
「高坂、俺……」
俺はそう言いかけて言葉に詰まる。今更何を言えば良いのかわからなかった。俺の知る謝罪の言葉では、相応しくないと思った。
私は、やっぱり幸せには相応しくない。
「ごめんなさい」
「……え?」
それは、高坂の発した言葉だった。高坂は申し訳なさそうに、言った。
「私のために、こんなところまで。でも、自分勝手で本当に申し訳ないんだけど、私は大丈夫だから。だから……」
だから、どうか今日のことは忘れてほしい。
「なんでそんなこと言うんだよ!」
俺は咄嗟に叫んだ。途端に、木々のざわめきが止む。抑えていた感情が一気に爆発する。
「大丈夫とか、そんなこと言うな!全部俺のせいなんだよ!俺が、静香とあんな約束をしたのが悪いんだ!なのになんで謝ってんだよ!俺が静香を不幸に……」
「不幸なんかじゃない!」
俺は思わずビクリと体を震わせる。俺は初めて、高坂が声を張り上げるのを聞いた。高坂は今にも泣きそうな顔で、両手をぎゅっと胸に当てて、俺に言った。
「私は今まで私を不幸だと思ったことなんてないよ!悠人君が幸せなら私も幸せなの!私が不幸とか、俺のせいとか、なんで勝手に決めつけるの?いいから私のことは放っておいてよ。私に関わっても、きっと幸せになれないから……」
(じゃあ、なんで俺をここに呼んだんだよ)
俺は、なにも言葉を発することができなかった。高坂は流れる涙も拭わずに続ける。
「私、あれから毎日ここでお願いしてたんだから。悠人君が私のことなんて忘れますようにって」
お願い佐伯君、罪悪感なんて抱かないで。これは私の自業自得なんだから。私のせいで、私の好きな人が傷つくのは見たくないの。
俺はそれを聞いて興奮の波が引いていくのを感じた。その代わりに、悲しみと戸惑いが押し寄せる。
(俺が高坂のことを忘れるように、祈ってた?)
「なんで、そんなに俺のことを……」
「助けてくれたから」
高坂は迷わずにそう言った。
私は迷わずに言った。あの時のことは、今でも思い出す。
「……私、お母さんから嫌われてるの。だから、家に入れてもらえなかったし、ご飯も貰えなかった。それでね、私が10歳の時、大雪が降った日に玄関の前で凍えてうずくまってた私を、悠人君が見つけてくれたの」
俺は、その時のことを覚えていた。今なら良く分かる。その相手は確かに高坂だった。
『なにしてるの?』
俺は、上着やマフラーも無しでアパートの玄関に寄り掛かる女の子に声をかけた。おそらく同い年のその子は、よれたTシャツに短パン姿のまま、痩せて骨ばった腕で膝を抱えていた。うっすらと見える白い息が、辛うじてその生存を証明している。その子は今にも消え入りそうな声で答えた。
『……まってる』
俺はその子の前でしゃがむと、顔を覗き込む。その見た目とは裏腹に、とても綺麗な目をしていたのを特に覚えている。気づくと俺は、自分のマフラーをその子に巻いていた。そして言った。
『あのね。一緒に遊んでくれる?』
そうだ。俺はその子を連れて、俺の家で遊んだのだ。
「思い出しちゃった?」
高坂は黙り込む俺にそう尋ねる。
「……いや、覚えてたよ」
俺は答えた。
「あの時、俺は確かに高坂と遊んだ。ご飯も一緒に食べたよな」
俺は高坂に歩み寄る。
「俺さ、あの時入退院続きで友達いなかったんだ。そんな時に高坂と出会った。嬉しかったよ、高坂が俺の初めての友達だったから」
高坂はそれを聞いて頬を赤らめる。
「私が…?」
私は思わず頬を赤らめた。そんなの、初めて聞いた。私が初めての友達だなんて、運命みたい。
高坂の前に立ち、その目を見ると、俺の心に温かな気持ちがじんわりと広がっていくのを感じた。懐かしい感覚だ。
「俺は高坂の目が好きだったんだ。綺麗な黒髪も好きだった。太陽みたいに周りを明るく照らす笑顔も好きだった」
俺は、感謝しなくてはいけない。俺が高坂を救ったんじゃない。俺が高坂に救われたんだ。
「ありがとう高坂、俺はもう充分幸せだよ。だから、今度は君が幸せになってほしいんだ」
高坂は俯いて目を逸らす。
「無理だよ。私なんて、もうそんなの……」
私は、佐伯君を幸せにするって決めたから。
「今度は、俺が君を幸せにする」
「……え?」
「もう願わなくていいから。俺がいつもそばにいる」
高坂は、ゆっくりと顔をあげる。そして俺と目があった。
(ああ、そうだ。この目だ)
俺が好きになった、真っ直ぐに澄んだ瞳。あの頃から、何ひとつ変わっていない。
「ようやく思い出せたんだ。俺は、君が好きだ」
その言葉は、あまりにも自然に漏れ出たものだった。高坂は嬉しそうな、でも泣きそうな顔をする。そして俺の手を握って言った。
その言葉に、私は全身が沸き立つのを感じた。初めて感じる感情に体が震える。私はどんな顔をしているんだろう。私はとりとめのない感情の中から、なんとか言葉を紡ぐ。私は佐伯君の手を握って言った。
「私も、悠人君が好き…!ずっと前から、好きでした」
高坂は俺に抱き付く。俺はその突然の行動に、ぎこちなく応える。じんわりと伝わってくる高坂の温もりが、俺の心を優しく溶かした。
そして俺の手が、高坂の頭に巻かれた包帯に触れた。
(分かってる。ちゃんと向き合うよ)
俺は高坂を優しく引き離すと、その顔を見た。高坂の目元には、まだうっすらとアザが残っていた。
「今まで気づいてあげられなくて……」
そこで、高坂は俺の口に人差し指を当てた。その次の言葉を言わせないために。
「謝らないで。佐伯君のせいじゃないから」
それを言うなら、神様に願った私のせいだ。
「それでも……」
考えてしまう。もっと早く気づいていればと。今さらのように。
「私はね、もっと前向きに捉えてほしいの。佐伯君の気持ちは良く分かるから。そのために、これだけは知っておいてほしい」
高坂はそう言って少し俯く。何かをこらえるように、少し震えた声で続けた。
「遅いとか早いとかは重要じゃないの。こうして一緒にいられることが、私にとって大事なことだから」
だからね、と高坂は俺の手を握る。涙をうるませてはにかみ、そして言った。
「気づいてくれて、ありがとう」
佐伯君は私にありがとうと言ってくれた。幸せだと教えてくれた。だから私も、それに応えるのだ。
はっとした。俺のせいだと、昨日キーホルダーを拾ったときからずっとそう思っていた。だけど、それは違うと高坂は言ったのだ。むしろ、ありがとうと言ってくれた。教えてくれた。なら俺は、それに応えたい。
「どういたしまして」
俺は言った。後ろめたさも後悔も全部取っ払って、俺たちは笑い合った。それはなんだか、とても重要な儀式のように思えた。前を向くための、おまじないのように。
そこでふと俺は、ポケットの中の存在に気付いた。
(そうだ、すっかり忘れてた)
俺はポケットからキーホルダーを取り出して、高坂に差し出す。
「静香、これ」
高坂は驚いた様子でキーホルダーを受け取る。
「ピョン吉!どこで見つけてくれたの?」
「ここの階段の途中だよ」
きっと、学校の帰りにでも落としたのだろう。私は少し恥ずかしくなる。さらに佐伯君は言った。
「そのキーホルダーのおかげで、君のことを思い出せたんだ」
私は驚いてピョン吉を見る。このキーホルダーを落としたから、今がある。そういうことなのだろう。そう思うと自然と笑みが零れた。
「ふふっ、そうだったんだ」
大切にしていた物を失くす。その些細な不幸は、今となれば幸運だったと言える。その事実が、たまらなく嬉しかった。
(私は幸せなんだ)
心の底から湧き上がる温かい感情が、胸の奥に広がっていく。私は不幸じゃない。そして佐伯君も『もう充分幸せだ』と、そう言ってくれた。6年前のあの日の願いは、もう叶っていたんだ。
(だからもう、祈らない)
そう思うと、すっと体が軽くなる。何かから解放されたように。すると、ざわざわという木々のざわめきと共に、何処かからチリーンという鈴の音が響く。そしてポツポツと季節外れの雨が降り始めた。
「この音……」
「きっと、神様だよ」
高坂は言った。もしそうだとしたら、神様は俺たちに何を伝えたのだろう。それはきっと、過去の清算だ。雨は、すべてを洗い流してくれる。祈りも、痛みも。都合のいい解釈だけど、俺はそう信じてる。前を向いて今度こそ、2人で幸せになるんだ。
私、こんなに早く幸せになれたよ?私はそう心の中で呟く。幸せになるのも、幸せにするのも、もう一人でできる。もう、昔の私じゃないんだ。
降りしきる雨が暑苦しい空気を冷まし、そして火照った体と心にゆっくりと沁みこんだ。
俺は高坂の手を繋ぐ。高坂も俺の手を握り返す。高坂は明るくにこやかな笑顔で言った。
「雨、降ってきちゃったね」
俺は答える。
「うん。今日は、運が悪いみたいだ」
そして俺は、俺たちは歩き出す。
「行こう」
誰かを不幸にする幸運なんていらない。そう願う必要もない。だって俺たちは、もうこんなにも幸せなんだから。
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